Everyday Is a Winding Road

 

 私とランス・アームストロングは、約10年にもわたって天敵同士のような関係を保ってきた。彼のエージェントのビル・ステイプルトンに初めて“告訴する”と脅されたのは、もう7年も前になる。その当時、私はアームストロングの周りにいて、操られ、魅了され、ときにひどい扱いを受けていた、多くの記者のひとりに過ぎなかった。アームストロングのおとぎ話に異を唱えようとした勇気ある書き手を訴えることは、彼にとって、“自分を批判することには価値がない”と周囲に知らしめるための、お手ごろな方法だった。やがて、私はアームストロングとその取り巻きが目を付けなければならない邪魔者と見なされるようになった。

 アームストロングが名誉や地位を失ったいま、私たちは初めてある種の停戦に合意した。アームストロングは否定するだろうが、彼が私とじっくり話をすると決めたのは、私が書こうとしている本の方向性をコントロールできるかもしれないと考えたからに違いなかった。私はそんなことはあり得ない、と釘を刺した。アームストロングがツール・ド・フランス7連覇の達成のために組織的なドーピングをしていたことについての刑事・民事の調査が行われ、誰よりも彼をよく知る選手たちの口からは、アームストロングの法廷での主張とことごとく食い違う宣誓証言がなされた。そして、嘘に嘘を塗り重ねた後、現代の最も悪名高きアスリートは、突然、私が重要なカギを握っていることに気がついた。そして私もまた気づいた――アームストロングは、いまだに自分に絶対的な力があると考えている。

 

 オフィシャルに提出された書類が告げ知らせるに、ロードレーサーの多くは喘息の持病を抱えている。競泳においても同様の事象が観察されるらしい。心肺への苛烈な負荷を課されるというのに、彼らのことごとくが呼吸器疾患持ちというのはいささか奇妙な響きを伴う。タフなトレーニングの代償か、なるほどそう取れて取れないこともない。幼年時にその弱点を克服するために競技に打ち込んだことが長じて彼らをプロの世界へと導いた、そんなサクセス・ストーリーを信じることができたなら、どれほど幸福だろう。しかし真相は、そんなナイーヴなところに横たわってはいない。

 WADAによって指定される禁止薬物のひとつに、サブブタモールなるものがある。気管支拡張作用を期するこのドーピングには、ただしひとつの抜け穴が用意されている。健康上の配慮を理由に、喘息症状の緩和のためならばその使用が許可されるという。つまり、診断書の一通でもあれば、なんなら後づけの申請であってさえも、テストに際して検出されたところで何を咎められる心配もない。

 

 こうしたノウハウは業界内で当たり前のようにシェアされている。サイクル・レースとドーピングが極めてフレンドリーであることは、何も昨日今日にはじまったことではない。

「コルチゾンは、筋肉痛や関節炎を抑えるための薬として使われていた。脚の痛みが軽減するので、多くのサイクリストの必需品だった。選手はコルチゾンを頭痛時のアスピリンのように当たり前に使い、チームドクターはこの薬を選手に与えるために偽の処方箋を書いた。

 テストステロンはステロイドの一種だ。だが、サイクリストはこれを筋肉増強のためではなく、トレーニングによる疲労から効果的に身体を回復させるために使った。翌日も前日と同じようにハードな練習をするために、マッサージをしたり、水分補給をしたりするのと同じような感覚で、この薬を取っていたのだ。……

 EPOは赤血球を増加させる強力なホルモンだった。赤血球が多くなるほど持久力は上がる。サイクルロードレースでは、それは魔法の薬にも等しいものだった。……

 研究によれば、EPOによって有酸素能力は平均で8%向上する。ランニングであれば20分間走で30秒のタイム短縮が可能だ。サイクリングならば、ツール・ド・フランスで優勝できるレベルと、チームのメンバーに選ばれるかどうかのレベルの差になり得る」。

 大相撲における八百長と同じ、ジャニーズにおける性的暴行と同じ、あるいは世のすべての権力なるものの歴史と同じ、誰しもが分かり切った上で、サンクチュアリへの見て見ぬふりの共犯関係を構成した。

 しかしことランス・アームストロングについては、コミットせずにはスタートラインにすら立てないはずのこのドーピング・カルチャーの例外と世間が信じるに足るあまりに強力な論拠があった。

「あの化学療法を体験した後では、身体に異物を入れようなんてとても思えない」。毒を以て毒を制すその過酷な治療を潜り抜けた癌サバイバーである自分が、下手をすれば死を導きかねない毒を果たして我が身に取り込もうなどと思うでしょうか、彼は世界に向けてそう問いかけた。

 そんなはずがない、誰しもがそう思った。彼が立ち上げた啓発事業「リブストロング」がその何よりの証だった。「アームストロングがツール7連覇を達成したとき、財団が1ドルで販売していた黄色いリストバンドの売り上げ累計は5300万個に達した。リストバンドが発売されてからの1年間で、寄付金は1000万ドル近くも増えた」。そのキャンペーンには、ビル・クリントンジョン・マケインが名を連ねた。ナイキにおいて彼は、マイケル・ジョーダンタイガー・ウッズに続くアイコンへと上り詰めた。チームの筆頭スポンサーはUSPS、つまりアンクル・サム郵政公社、そのロゴの入ったレプリカ・ジャージが飛ぶように売れた。シングルマザーによって育てられた高校中退のテキサス・カウボーイが、裸一貫でビリオネアにのし上がり、旧態依然たるヨーロッパ貴族の談合ビジネスに風穴を開ける、そんなシンデレラ・ストーリーに魅了されるな、彼を国民的英雄に仕立てるな、という方が無理な注文だった。

 そしてその何もかもが嘘だった。

 

 ランス・アームストロングは、ドーピングの事実が世間に露見してすら、自らがなぜに咎を受けねばならないのか、その意味を理解することができなかった。「いかさまcheating」とは、「勝負事において、不正な方法を使って相手よりも有利な立場を得ること」である、と辞書は彼に教えた。誰しもが使っている薬物を自分も同様に使っていた、技術に多少の巧拙こそあれど、条件がイーヴンである以上はそこにアドヴァンテージは発生していない、彼はあの『オプラ・ウィンフリー・ショウ』の生放送で全米に向けてそう自己正当化を図るも、もはや支持を調達することは叶わなかった。

 この事実をもって彼はツール・ド・フランスをはじめとする公式記録の一切から抹消された。しかし、と彼は思わずにはいられない、ユーザーを仮にリストから消していったら――そして誰もいなくなるではないか、と。

 溺れた犬は棒で叩け、そんな消え際のロウソクによる劇場商法の賞味期限などたかが知れている。汚れた英雄など、この世に掃いて捨てるほど転がっているのだから。

 そうして彼は消費者によって捨てられて、瞬く間に忘れられた。

 彼らは単純に騙されていたわけではない。能動的に、数多の告発のことごとくに目をつぶり続けた。それどころか嬉々として、勝ち馬の尻に乗って真相を握りつぶす行為に加担さえした。バブルを煽り酔いしれて、そして失墜のその瞬間に一連の記憶を漂白した。彼に残ったものといえば、膨大な違約金の債務だけだった。

 それでもなお、彼ら血に飢えたドラキュラは、今日も新たな生贄を求めて徘徊する。

 

 

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