Have a Great Weekend and Peace

 

 

 この本のもとになったJ-WAVEの放送は、番組プロデューサーの高知尾綾子さんのご発案で実現しました。きっかけは、20194月のこと。娘の羽夏が、学校でミュージカルに出演することになり、メインキャストの一人だというので、喜んだ父と一緒に観に行くことになりました。その際に高知尾さんもお誘いし、私の車でシアターへ。1時間弱のその道中、おしゃべり好きな父は沖縄返還の日のことをずっと話していて、私が相槌をうったり、ときおり質問をはさみながらのドライブでした。このやりとりは川平家では日常のひとコマだったのですが、同乗していた高知尾さんは「初めて聞く話ばかり」「二人の掛け合いがおもしろい」と興味をもってくださり、「お二人の対談を番組にしませんか?」と声をかけていただいたのです。「沖縄慰霊の日」に放送できたのも何かのご縁、それこそ「冥加」だったと、いまでは思います。

 父は、戦前・戦中・戦後を生き抜き、生き残ったからこそ、「沖縄の人びとに放送という形で尽くしたい」と放送局経営の術を学びます。その地は、かつての敵国アメリカ。そこで、妻となるアメリカ人女性と出会うことに。息子の私が言うのもちょっと変ですが、まさに台湾、沖縄と日本、そしてアメリカの歴史の一片を象徴する父の個人史。その壮大さには驚くばかりです。

 

「米留組」の先駆者として放送メディアを修めた後、当時唯一の民放ラジオ琉球放送(RBC)に川平朝清が入社するのは1957年のこと。そして彼の牽引によりテレビのオンエアがスタートするのは1960年、もっとも当時は本土の録画フィルムが空輸されており、同時中継が可能になるには、東京オリンピック直前の196491日を待たねばならない。

 一連の経緯は、必ずしも本書において力説されているわけではない。おそらくほとんどの読者にとって、この数ページのくだりはさしたる印象をもたらすことなく通り過ぎていっただろう。しかし川平朝清個人のキャリア、否、沖縄という地の歴史において、この時系列はあまりに象徴的な意味を帯びる。

 テレビにおける全国ネットワーク、いわゆるキー局の編成には決定的な画期が存在する。それが1959年のミッチー・フィーヴァーである。ご成婚パレードを全国津々浦々へと送信すべく、あるいは必要な機材を確保すべく、地方局間の協力関係の構築がこの出来事をもって促進された、というエピソードは、もやは通説として今日へと語り継がれている。

 この瞬間、言い換えれば、つまり、沖縄は国民的なこの熱狂の蚊帳の外にいたことになる。皇太子なる、いずれは「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」へと即位するものをめぐるこの祝祭を彼らはオン・タイムでこの目に捉えることを許されなかったことになる。1960年、岸信介政権下の日米安保改定においても、アメリカ統治下の沖縄は蚊帳の外だった。あるいは佐藤栄作内閣における70年安保においても、同じだった。

 あるいは逆に、197012月のコザ暴動は、ほとんどの日本人において遠き他国の出来事としてやり過ごされた。

 

 そんな沖縄が急転直下、日本へと組み込まれる。

 国際法的に見れば一時預かりではある、とはいえ多大な犠牲を払って勝ち取った土地である、ましてやベトナム戦争の最中にあってこの「太平洋の要石」は重要性を増してすらいる、従ってそう易々とアメリカが手放すはずがないではないか、そのような多数派の見立てとは裏腹に、放送人である朝清には取材を通じてある感触があった。アメリカはむしろ日本への返還を望んですらいるのではないか、と。

 在日であるという限りにおいて、米軍基地の管理は日本の防衛庁(当時)が担っている、「つまり、住民が直接占領軍――当時は『進駐軍』と呼んでいるんですが――と接触することはない。住民と米軍の間には、防衛施設庁といった日本の官庁が入っている」。ところが、沖縄はなまじアメリカのコントロール下に置かれているため、米軍が住民との直接交渉に挑まねばならない。こうした矛盾を解消するには、いっそ「施政権は日本に返還したほうがいうのではないか」、この予感は間もなく現実化する。朝清は確信を込めて語る。「だから、『名実ともに返還』ではなくて、アメリカは『実』をとる。『実』とは何かというと、アメリカ軍の基地の自由使用です。日本は『名』をとり、名目的に施政権を返還してもらう。両者の利益が一致して合意に至った」。

 この醒めた眼差しは、やがて現実によってある種の裏づけを得ることとなる。「実際、施政権返還のあと、外務省や防衛庁の閣僚たちは、米軍と沖縄の人びととの間に入ってきて、沖縄のためではなく米軍のために代弁しているように、私には見えましたね。

 ですから『本土復帰』とか、ましてや『母国復帰』という言葉は使わないです。私はかたくなに『施政権返還』と言っています。もちろん、『復帰』して良くなったことの方が多いですし、それは私もちゃんと認めますけれどね」。

 

 本書で詳らかに明かされるように、川平家は代々、琉球王朝に宮仕えしてきた名門エスタブリッシュメントである。朝清の祖父・朝彬は、王子の通訳として新橋での鉄道開業式典に立ち会い、「明治天皇や大隈重信、西郷隆盛や米仏の外交公使らとともに、陸蒸気と呼ばれる機関車に乗るという経験もしています」。こんなエピソードが次々と繰り出されるような血筋である。

 放送人としての朝清の立身出世伝に、家柄由来のヘイロー効果がまさか作用しなかったとは考えられない。しかし彼が歴史の目撃者たり得たのは、「いまにして思えば、非常に良い教育をしてくれたと思います」、この「教育」の重要性ゆえに他ならない。例えば彼は台北での高校時代、戦時中であるにもかかわらず、英語を集中的に叩き込まれて、その経験がのちにアメリカ留学のための強力な利点をもたらすこととなる。その地にて彼は学ぶ、「放送というものは『public interest, convenience, and necessityのためにあるべきだ』と書かれていて/……これこそ沖縄に必要なメディアだという、そういう確信を得ましたね」。やがて彼は生涯の伴侶ワンダリーと運命的な出会いを果たし、そして三児をもうける。彼女は折に触れて息子に説いた。

Don't forget who you are. あなたが誰であるかを忘れてはならない」と。「川平家であること、カンザスのウィーバー家であること、沖縄出身であり、アメリカ人の血が流れている、あなたが育ってきた基盤は何なのかを忘れてはならない。ステイタスではなく、どういう人物でありたいのか、己の生き方を見つめよ、というメッセージでした。経済的な成功ではなく、どういう価値観をもって人に接するか。周りの環境を向上させるために、自分に何ができるかを考える」。

 

 1963年、時の高等弁務官ポール・キャラウェイの発言が激震を呼び起こす。

「現時点において〔沖縄の〕自治は神話である、自治は存在していない」。

 衝撃のスピーチが放たれたのは、「米留組」の親睦団体「金門クラブ」の席上なのだが、ところでその発起人にして当時会長を務めていたのは、誰あろう、川平朝清だった。売国奴との集中砲火のその渦中、彼はこう反論した。

「私たちは、英語という言語能力を使って、琉球人を代表して発言することを決して忘れません。同時に、私たちは、アメリカの政権や政策の良いところを、公正且つ適切に表現できるだけの自信を持つべきです」(山里絹子『「米留組」と沖縄』よりの引用)。

 いみじくも本書は、放送人の手によって、すなわち、憲法に刻まれた表現の自由によってその存在を要請された彼らによって、著された。

 鬼畜米英と洗脳されて育ったはずの朝清は、彼らと触れ合いたちまちにして「あのイメージが、ガラッと変わりましたね。/……瞬時に変わるんですよ。だって、対応が実に紳士的というかね」。

 太平洋戦争の唯一、日本における地上戦の舞台となった沖縄を「国破れて山河も残らな」いほどに焼き尽くした無慈悲なアメリカは、しかし「紳士的な」リベラリスト、ニューディーラーによる日本国憲法をその地に残していった。その中には、ファウンディング・ファーザーズの筆頭、言論人トマス・ジェファソン肝煎りの表現の自由も含まれていた。しかし、第二次世界大戦の後に生まれた幸福なユートピアの時間はそう長くは続かなかった。まもなく、冷戦とマッカーシズムの狂気の中で、アメリカはハンドリングが容易というだけで各地に強権的な傀儡政権を立てては安寧な暮らしを完膚なきまでに打ち砕き、極めて正当にも市民たちからの憎悪を買い、ところが彼らはその度、一向に恭順が示されぬことに深く頭を悩ませる。なぜ日本のように統治が捗らないのだろう、と。答えは簡単、「紳士的」でないから、である、「銃剣とブルドーザー」をためらいなく繰り出せるような連中だから、である。「紳士的」であることをやめた彼らのどこに「政権や政策の良いところ」を見出すことができるだろう、「公正且つ適切に表現」すべき何かを見出すことができるだろう。

 

 川平朝清の歴史とはすなわち、アメリカの変質の歴史でもある。

 そんな彼が問いかける。

「日本が本当に主権国家であるかを、皆さんにもう一度考えてもらいたい。つまり、主権国家ではありません、ということです」。

 

ガチ中華で飲ろうぜ

 

 「ガチ中華」とは何なのか――。これまで友人や知人を含め、いろんな人からそう聞かれるたびに、ぼくはこう答えてきた。

 

 「日本で学び、働く、若くて経済力のある中国および海外の中国語圏の人たちが増えてきたことで現れた、彼ら好みのガチな現地料理のこと」

 

 なぜこのようなまわりくどい言い方になるのかというと、ガチ中華は単なる新種のグルメうんぬんといった話ではなく、今日日本で起きている静かな社会の変容が顕在化した現象だからだ。その内実にはひとことでは語れない、想像を超えた多面性と広がりがある。ガチ中華とはグローバルに広がる中華世界、すなわち中国および海外の中国語圏の人たちがもたらした21世紀の現代料理であり、その仮の名なのである。これらが最も顕著に現れたのが東京だったことから、ぼくはこうした社会現象を「東京ディープチャイナ」と名付けることにした。本書ではその実像を、数々の事例を挙げながら解説していく。

 

 中華料理が日本のフード・シーンで大きな存在感を発揮するのは、まさか昨日今日に始まった話ではない。横浜、神戸、長崎といった港町に華僑が根拠を構える中華街が形成されていくルーツをたどれば、明治期にまで遡る。20世紀後半になると、鄧小平の改革開放路線以降に来日した中国人、台湾人による家常菜が、日本向けにローカライズされた旧来の味とは異なる新風を吹き込んだ。

 しかしこれら、筆者の定義する「中華料理」、「プレガチ中華」と「ガチ中華」の間には、彼らの出身地という以外にも、決定的に異なるポイントが横たわっている。

 つまり、いわゆる「潤日」の存在である。

 従来の経営モデルにおいては、現地にどれだけ適応できるか、集客できるか、が専ら鍵を握っていた。材料の入手可能性といった条件づけもある中で、そうして本土のものとは似ても似つかない例えばホイコーローやエビチリは産み落とされて、やがて食卓のレパートリーに一定のパイを確保するに至った。

 しかし、今日の「ガチ中華」にもはやそうした制約は必ずしもかからない。同胞の経済圏だけで回していけるのであれば、わざわざ日本の食のルールに寄せるまでもない。誰にでも役立つ商品は誰にとっても役に立たない商品、このマーケティングの格率は料理の世界においても同じこと、八方美人な和中折衷など、中途半端以外のいかなる事態も指し示さない。

 中国人が中国人のために作る、ノマドな彼らにとってこの「ガチ中華」の舞台は、別段日本である必要などない。

 

 こうした経済のパワーバランスの具現としての「ガチ中華」というだけならば、何も本書に頼る必要はなかった。しかしこうした解説を読み進む中で、私がたまらず膝を打った箇所がある。

 その記述を目にするまで、素朴にも私は郷里の味を求めて、あるいは同胞との触れ合いを求めて、彼らは「ガチ中華」を訪れているのだろう、と思っていた。しかし冷静に考えてみれば、ところ変われば味変わる、あの国土のスケールにあって、「ガチ中華」というフレームは大くくりにも程がある。その中にあって「潤日」たちがあえて求めているのはむしろ、各々にとってのローカル・フードではなく、「旅先で味わう地方料理」、言うなれば異国情緒なのである。雲南料理も、陝西料理も、新彊料理も、彼らの大多数にしてみれば見知らぬ土地のエスニックなのである、もしかしたらその心理的距離感は日本人と比してすら大差ないのかもしれない。つまり、現代中国におけるドメスティックな工業化、経済成長、グローバリゼーションといったストーリーを日本人の眼に可視化できるかたちで凝縮させたのが、「ガチ中華」なのである。

 

 しかし本書が進むにつれて、私が抱く違和感はもはや耐えがたきほどに肥大していく。

 今や私がチャイナに限らずエスニック全般に求めているのは、既知の文法からは導き出されることのない異邦性にある。ローカライズなんて退屈なプロセスを経ることで勝手知ったる味へと収斂してしまうことのない荒削りの野性が記憶に刻まれてさえくれれば、別に私の口に合わなくても一向に構わないのである。おいしいとかいう、まさに賞味期限0.3秒の報酬系脊髄反射に用はない。食べる前から天井の知れている寿司やステーキやフレンチなんて願い下げ、反吐が出る、反吐しか出ない、そんなものは単なる金と時間とカロリーの無駄でしかない。保健所仕事しろ、の一語で終わりの町中華などもとより私の射程にはない。

 そうした強迫神経症的ニーズが圧倒的なニッチであることくらい、私とて承知はしている。しかし本書が最終的に行きつく結論は、「ガチ中華」のローカライズ化、言い換えれば「ガチ中華移民」の同化でしかない。「ぼくがガチ中華のオーナーたちを見て思うのは、〔「落地生根」と「落葉帰根」の〕いずれを選ぶにせよ、日本人とその社会に向き合える人物かどうかが問われるだろうし、多くの人がそうあってほしいということだ」。所詮、隣組の残党に過ぎない町内会の祭りに手を貸せなどとのたまうさまは正気の沙汰とは思えない。没落レイシズム国家のサルどもの被害妄想に妥協してやるべき理由が彼らのどこにあるというのか。

 WeChat圏から出てこない、って店出してるよ、オーダーすれば料理出てくるよ、税金だって出してるよ、そこらの日本人よりよっぽど会話成り立つよ。和して同せず、それ以上の何を望もうというのか。

 つい先ごろ、「ガチ中華」を求めて新小岩を訪れた私は呆れ果てる。たかが麻辣湯に大行列ができているのである。もちろんその圧倒的多数は日本人だろう、スタバの砂糖水飲んじゃう系の。並ぶという行為そのものがイベント消費の一環だということくらい動物行動学の実験成果として知ってはいるけれど、そんなものを待っているくらいなら、別の「ガチ中華」に行ったらいいじゃん、と思う私は病んでいるのだろうか。もはやSNSの思し召しのままに動員されることしかできない彼ら、そのくせ小銭にしかならないこれらけなげなイナゴどもに「潤日」がみすみす歩み寄るべき余地がどこにあるというのだろう。

 あるときはタピオカミルクティー、あるときは麻辣湯、そしてネクストは干鍋あたりだろうか。マリトッツォや唐揚げと限りなく同じ、現地への順応なんて、日本社会の文脈においてはもはやこの程度の事態しか意味しない。

 

 そうしたムーヴメントとはおよそ対照的な「辺境ガチ中華」が時に本書で紹介される。

 例えば大阪島之内でかつて筆者が食したのは、大連の程近くは遼寧省丹東の海鮮餃子、わけてもその店が誇るスペシャリティのサワラ餃子。あるいは埼玉西川口で味わったのは、北朝鮮と目の鼻の先、黒龍江省鶏西の名物の冷麺。

 もっとも、このいずれもがとうに店をたたんでいるためにもはや口にすることはできない。ご近所レベルですら人口に膾炙するなどという段階からはるか遠く、つまりローカライズを経ることなく消滅していった。中国本土のレシピ本ですらそうそうお目にかかれない天然の「ガチ中華」なるがゆえに消滅していった。消費というコンテクストに適合できぬがゆえに消滅していった。

 飼い馴らされることのない、希少種と希少種と希少種の、この生態系こそが私には尊い。

 

八月の声を運ぶ男

 

 その人のことを初めて知ったのは1979年夏。朝日新聞に大きな記事が掲載された。

 元NBC長崎放送記者、伊藤明彦さん。会社を辞め、ほぼ一人で、広島、長崎はもとより全国の被爆者を訪ね歩き、被爆者の体験を録音テープに記録し続けた。8年間で収録した声は約1000人。

 驚愕の記事だった。

 なんという圧倒的な仕事なのか。8年間、正業にはつかずアルバイトなど臨時の仕事で生活費を稼ぎながら被爆を記録する活動に傾注してきたという。何がそうさせたのか。さらに私の気持ちを揺さぶったのは、放送局を辞めたということ。退職して、先の見えない生活を選択したことだった。……

 稀有な仕事をした人物として、記者としての関心から近づいた。そして話をするほど、記者としての関心を超えた磁力に惹きつけられた。それは、常に私という存在を照らしだす強烈でまぶしい光でもあった。

 私は日々何を考えて生きているのか。被爆2世といいながら、いったいこれまで記者として何を考え、一個の人間として何をしてきたのか。そんなことを無言のうちに問いかけられるような気がしてきたのである。

 思えば、伊藤さんと出会ったこの時から、私は本当の意味で原爆というものに向き合い始めたのだと思う。もっと言うなら、絡めとられたと言っていいのかもしれない。……

 自分の人生の意味とは何かと考えた時、私は、長崎に生まれた被爆2世ということを除外して考えられなくなった。

 なぜ私が被爆2世として長崎に生まれたのか。それを母の体験へと遡っていった時、核時代の扉を開いた長崎原爆の、一種ミステリアスな物語へとつながっていくことに気がついた。

 

 本書冒頭、高村光太郎「冬の言葉」の一節が紹介される。

「一生を棒にふつて人生に関与せよ」。

 この詩を筆者に教えたのが、誰あろう、伊藤明彦その人である。氏のテキスト『未来からの遺言』が私を打ち抜いた衝撃そのままのフレーズを、書き手自身が自覚的に繰り返す。

 天職と自ら信じられる仕事に出会えたというような話とはまるで異なる手触りがテキストから滲む。『未来――』を一読した者ならば誰しもが、「一生を棒にふ」るという言い回しが何ら誇張に当たらぬことを即座に了承されよう。単に収入や社会的地位というに留まらない、差し出せないはずのものすらも差し出している、否、投げ捨てている、そのことが一読者にさえも生涯忘れることのないだろう傷を植えつける。

 しかしそのインプレッションは、私自身が『未来――』について綴ったレヴューからはオミットせざるを得なかった。リンクを貼った過去記事でほのめかしはしたものの、そんな行間は赤の他人には知ったことではない。あくまでテキストの主題が「ある被爆者体験」にあり、そしてかつ、怒涛のどんでん返しに次ぐどんでん返しが既に強烈な読書体験をもたらしてくれるものである以上はそちらを優先する、そんな取捨選択の結果だった。

 それからひと月足らずのうちに、まさか伊藤への言及があるとも知らず、本書を手に取る機会を得る。そしてつくづく思い知る。伊藤の引力がかの強烈な「体験」を手繰り寄せたのだ、と。

 

 わずかながら、この心象風景に通じるテキストの記憶が甦る。ニコラ・ストウ『未解決殺人クラブ』。アメリカにおける素人探偵の群像を集めたこの一冊が教えてくれるのは、とてもシンプルな現実だった。莫大な報奨金が賭けられているわけでもない、真相を究明することで時の人としてスポットライトを浴びたいという名誉欲に走っているでもない、そんな彼らがそれでもなお未解決事件に駆り立てられるのは、ほぼ例外なく彼ら自身に取り憑いた犯罪被害者としてのトラウマゆえのことだった。

 系統的に経緯を整理する才覚を持った彼らでさえも、流すべき時間を失って杭打たれ、「一生を棒にふ」る。

 

 確かに本書『「ナガサキ」を生きる』から伊藤ほどの危うさがほとばしることはない、しかしそれでもなお、一介のドキュメンタリーとは明白に一線を画する。

 読み進みつつ、私はしばしば少なからず違和感と戸惑いに苛まれる。例えば、80年前の爆撃航程の究明に数十ページの紙幅を割く、最終的に89日の浦上の空に炸裂したという事実が揺らぐこともないのに、何が筆者をそこまでさせているのか、と。

 もちろん、直接的には自らを2世たらしめた母の被爆体験に起因してはいるのだろう。結果的に爆心地から3キロ逸れていた場所にいた、しかし当初の照準からの距離はわずかに300メートルしかなかった。もしもプラン通りにことが運んでいれば、筆者が生を享けることもかなわなかった公算は極めて高い。言い換えれば、その3キロのために失われていった命もある。そうしたファミリー・ヒストリーの紙一重が、筆者を今となってはもはや解きようもないこの謎へと急き立てていることは理解できる。

 しかしその当事者性の一点で本書を説明することにはあまりに無理がある。

 伊藤明彦に由来するミメーシスが、筆者をそうさせている。

 このミメーシスの系譜をさらにたどれば、必ずや「ヒバクシャ」へと至る。

 語り継ぐとは、言い換えれば、語らされ継ぐことに他ならない。

 未来志向とやらをほざく輩がなぜに決まって軽くて薄いのか。彼らはそもそも語るべきことばを持たないから、過去から託された語らされることばを持たないから。

 未だ来たらざるものは、過ぎ去りしものの中にしか存在しない。

 

災害ディストピア

 

 ところが、観音堂がもう大丈夫となると、それまで緊張しきっていた群衆は一時に気がゆるんできました。見ると、あっちでもこっちでも一時に疲れが出て、正体もなくごろごろ眠っているという始末です。これには私、随分心配しましたね。だって、観音堂は助かったというものの、周囲は猶猛烈な勢いで燃えていて、どんな風の吹きまわしでいつまた火が移って来ないとも言えない有様だったのです。それで私は群衆の中を駆けずりまわって、油断してはいけない、眠ってはいけないとどなって歩いたんですが、どうしてもきき目がありません。皆もう正体がなくなっているのです。その時――それはもう二日の晩のことですから、――私はフト朝鮮人の事を思い出しました。そしてこれを利用するに限ると思いましたので、いきなり大きな声で、(今朝鮮人が450人観音堂を包囲して、爆弾や石油をもって焼き払おうとしているから皆さん気をつけて下さい、)と呼ばわって歩きました……

 ところが、この宣伝が実によく利きましてね。気のゆるんでいた群衆が一斉に生気づいて、殺気だってきましたよ、そして朝鮮人狩りが始まりました。

 

 関東大震災をもって立ち上がったショック・ドクトリンの基本構造を、簡にして要を得て見事に説明し尽くす。

「この一日のうちに、東京の大部分が焦土と化し、被服廠で三万幾千かの男女が火の旋風に捲かれて死に、隅田川では幾万かの避難者をみっちりと積んだままいくつかの橋が焼け落ち、吉原遊郭では遊女初め無数の人々があの弁天池で水責め火責めに会い」――このような凄惨な光景を見聞きしてすら、彼らの間にはひとつとして災害ユートピアが芽生えることなどなかった。彼らはついぞ助け合うべき同胞を見出すことはない、この焼け跡に築くべき未来のヴィジョンを共有することもない。

 彼らを束ねるものがあるとすれば、それはただひとつ、仮想敵の存在だけだった。

 すべて日本人において、絆なる語は単に共犯性を指すにすぎない。

 

「今そこでフト耳に挟んできたんだが、何でもこの混乱に乗じて朝鮮人があちこちへ放火して歩いていると言うぜ。」。

「何でも彼奴らは自動車を乗りまわして、どんどん火事を延焼しやすいように、路地の蔭や軒下なぞに小さな石油缶を置いて歩くというんです。また或るものは、爆弾を投げて歩いてるとも言いますよ。」

「あれは君、本当ですかね、朝鮮人が一揆を起して、市内の到る処で掠奪をやったり凌辱をしたりしているというのは。あそこで話してた人なんかは、少女を辱めて、燃えてくる火の中へ投げこむのを見たと言ってますぜ。だから市内では、朝鮮人を見たら片っぱしから殺しても差支えないという布令が出たと言ってましたがね。まんざら出鱈目でも無いようでしたよ。」。

 当然のことながら、「後になって明らかにされたとおり、この一揆なるものは殆んど根の無いものだったのである。唯恐ろしい流言によって呼び起された人々の気違いじみた迷妄であり、錯乱であり、疑心の見たる暗鬼だったのである」。

 

 間もなく「自分」もまた、自警団の一員として見回りに参加することとなる。

 もっとも「自分」は、ある種の保険を用意していた。つまり、知己の朝鮮人を家に匿っている、という。「自分」は血眼になって朝鮮人を暴行して回る蛮族とは違うのだ、あくまで疑いの目を向けさせないためにかえって彼を守るために加わっているにすぎないのだ、と。「自分」はきちんとこの目で見た、朝鮮人の友人が瓦礫の下から赤ん坊を助け出すその姿を。「自分」はきちんとこの耳で聞いた、「もうこんな時は朝鮮人も日本人も、自分の子も他人の子も区別ありませんよ。唯一つの尊い命なんです」と彼が語るのを。だから、「自分」は彼らとは違うのだ、と。

 違わなかった。

 確かに「自分」は己が手を血に染めることはなかったのかもしれない――そもそも本書が小説であるという点はひとまず脇に置く――、しかし所詮、こんなものは典型的なI have black friends論法でしかない。

 語るに落ちる、そんな記述がやがて現れる。

「自分は震災前までつづけてきた仕事――既に2年に亘って働きつづけ、猶少なくも半年ぐらいは続けなければならぬ大作に、再び取りかかる事ができる筈だった。実際、自分は直ちに仕事の中に没し去ろうと努めてみた。しかし自分はすっかり仕事に対する心の平衡と落つきを失っていた。創作力はどこかへふっ飛んでしまったようだった。そして自分は仕事ばかりでなく、本を読む事も何する事もできなかった。

 そして自分は絶えず重苦しい憂鬱な気分にとじこめられていた。絶えず名状し難い不安に責められていた。自己の前途を考える時もそうであったが、何かしら一切の物事が暗い絶望的な色で塗られて見えた。想像し得らたよりも、震災の感銘と影響が大きかったのである。そして自分はどうかして恐ろしい刺戟から脱れようと欲しながら、知らず識らずのように、会う人毎に震災中の出来事を聞いたり、朝鮮人問題を論じたりすることに熱心になっていた。今の自分には、少しでも今度の大事件について知ることが仕事となったかのように」。

 もちろん、これを専らPTSD症状の記述として読み解くこともできるだろう。しかし、ここにはファシズムの起動原理が、極めてシンプルな筆致をもって綴られている。憎むべき何か、駆除すべき何かに憑かれた人間が、いかに己の能力を消耗してしまうか、その心性はナチズムに限りなく等しい。世界に冠たるアーリア人種を定義するに、彼らは最後までユダヤというアンチテーゼ以外の何かを示すことができなかった。

 なぜ差別がいけないのか。被害を受ける対象がいるから、というのは言うまでもない。しかし、その最大の被害者は、実は加害する自分自身なのである。むざむざと有限なリソースを憎悪の炎で燃やし尽くす、ゆえに差別主義者とは常に愚劣の換言という以外のいかなる事態も意味し得ない。あなたがあなたでいられなくなる、だから差別はいけない。

 水晶の夜がほんの103年前の日本でも起きた。それが関東大震災の本質だった。

 

 すべて人間に保守するに値するものなど何もない、参照するに値するものなど何もない、尊敬するに値するものなど何もない。

 彼らが有する唯一の機能は反面教師。歴史に学ぶべきはただひとつ、人のふり見て我がふり直すことにある。

 

「もとより今度の震災は歴史上稀なるものであるに違いない、」と自分は言った。「然しそれはそうであるにしても、それは不可抗な自然力の作用によって起ったことで、もとより如何とも仕方がない。運命とでも呼ぶなら呼ぶがいい。しかし朝鮮人に関する問題は全然我々の無智と偏見とから生じたことで、人道の上から言ったら、震災なぞよりもこの方が遥かに大事件であり、大問題であると言わなければならないと思う。」

 

孤独なボウリング

 

「ひとつきいていい? いまのお仕事をはじめて、どれくらいになるの?」

20のときからだから、10年だね」

「自分が燃やした本のうち、どれか読んだことがある?」

 彼は笑った。「それは法律違反だ!」

「そうよ、もちろん」

「いい仕事さ。月曜には〔エドナ・〕ミレー……を焼き、水曜は〔ウォルト・〕ホイットマン、金曜は〔ウィリアム・〕フォークナー。灰になるまで焼け、そのまた灰を焼け。ぼくらの公式スローガンさ」

 歩きつづけるうち、少女がまたいった。「遠いむかしファイアマンっていうと、火をつけるんじゃなくて火を消すのが仕事だったんですって。そんなこと聞いたけど、ほんとうなの?」

 

 読み継がれるには読み継がれるだけの理由がある。凡百のルポルタージュにはるか勝って、1953年に書かれたそのテキストがいかにピンポイントに現代を描写しているか、その証明には例えばこんな引用を付してみるだけで事足りる。

 引金を引いたのはテクノロジーと大衆搾取と少数派からのプレッシャーだ。おかげで、いまはみんな夜も昼もしあわせに暮らし、政府お目こぼしのコミックと古き良き告白ものと業界紙を読んでいる/……学校がスポーツ選手、資本家、農か、製造業、販売業、サービス業、修理屋を世に送り出すことに熱心で、審査する人間や、批評する人間、発想豊かな創作者、賢者の育成をおこたるうち、“知識人”ということばは当然のようにののしり語となった。……みんな似たもの同士でなきゃいけない。憲法とは違って、人間は自由平等に生まれついてるわけじゃないが、結局みんな平等にさせられるんだ。誰もがほかの人をかたどって造られるから、誰もかれも幸福なんだ。

 だから、「似たもの同士」の彼らの目には、「分別はどこへやった? どの本もみんな違うことをいって、いがみあってるじゃないか」、批評や議論はひたすらに不毛なものとしか映らない。いや、彼らはどこまでも見たくないものは見ない。ファイアマンはそんな彼らのメンタリティを表象する。

 そして今や、実際のところ、「昇火士などほとんど必要ないのだよ。大衆そのものが自発的に、読むのをやめてしまったのだ」から。

 

 ブラッドベリによるこうした未来予測は、作家の霊感云々というオカルトによらない、ひたすらに冷静な観察眼に由来する。

 上司が主人公ガイ・モンターグを諭して言う。

「実際のところ、われわれの暮らしにまとまりができはじめたのは」、つまり、彼らが「似たもの同士」になったのは、「写真術が確立されてからなんだ。つぎには――活動写真、20世紀初頭のころだな。ラジオ、テレビジョン。いろんな媒体が大衆の心をつかんだ/……19世紀の人間を考えてみろ。馬や犬や荷車、みんなスローモーションだ。20世紀にはいると、フィルムの速度が速くなる。本は短くなる。圧縮される。ダイジェスト、タブロイド。いっさいがっさいがギャグやあっというオチに縮められてしまう/……『ハムレット』について世間で知られていることといえば、《古典を完全読破して時代に追いつこう》と謡った本にある1ページのダイジェストがせいぜいだ。わかるか? 保育園から大学へ、そしてまた保育園へ逆もどり。これが過去5世紀かそれ以上もつづいてる知性のパターンなんだ」。

 これは何らノスタルジーとして片づけられるべき文脈には属さない。

 テレヴィジョンやテレポーテーションといった語に現れる「テレtele」とは、ギリシア語において遠隔性を表す接頭語から来ている。本書においては「ラウンジ壁」、テレビや会議ソフト的な機能を有するこのアイテムに誘導されて、彼らは見る見る間に互いを引き離すようになった、そうして「みんな他人にかまっている時間なんかな」くなった。

 それに加えて自動車である。「わたしときどき思うのよ。ドライバーってものをゆっくり見ないから、草がなんだか、花がどういうものか、知らないじゃないかって。もしドライバーに緑のもやもやを見せれば、きっというわ。ああ、草だね! ピンクのもやもやは? あればバラ園だ。白いもやもやは家で、茶色のもやもやは牛」。自動車という名の他と隔離されたプライヴェート・ゾーンを運び回る彼ら事理弁識能力なきカー・クラックス・クランは、その外側のことなど、事故により自らが被るリスクという以外の仕方では決して顧みることはない。

 ロバート・パットナム不朽の名著『孤独なボウリング』は、もしかしたら『華氏451度』を補足するために書かれたのかもしれない。社会関係資本の崩壊を追いかけた彼が、その緻密な分析の末にたどり着いた原因は、まさにteleにこそあった。つまり、テレビであり、クルマである。私的空間へと己を閉じ込め、効率性と速度を満たした果てに何が起きたか。

「あなた幸福?」

 

 かくも的確に現代を先取りしたブラッドベリが、この後に展開する物語は読者にたまらないやるせなさを植えつける。彼は決してテキストを通じて「似たもの同士」が目を覚ますグッド・エンディングをフィクションの中ですら書き綴ることができなかった。「似たもの同士」はどこまでいっても「似たもの同士」、モンターグは本を焼くことに代えて彼らを焼くことしかできなかった。

 彼らを説得するための言語など存在しない。彼らを殺さずに済ますべき理由など存在しない。殺人は常に最善の倫理、事実として、彼らに割り振られるべき社会リソースは死の他にひとつとして存在しない。

 先ごろ、現代小説の中で同様の蹉跌に遭遇する。

 ベン・ラーナー『トピーカ・スクール』。ディベートに勝ちたければ、「アプレンティス」を見ればいい、ドナルド・トランプを見ればいい。落ちていくための言語を参照したければ、そんなものはネット空間にいくらでも転がっている。水は低きに流れる、その世界の中でテクノロジーに弄ばれるスマホ農場産の「似たもの同士」を悔い改めへと導くことばをついぞ小説家は紡ぎ上げることができなかった。

 

 冷笑系は言うだろう、だって世界はSNSAIすらも無関係に有史以来そういう風にできているのだから、何も変わりやしないのだから、このトレンドに抗うのなんて単にコスパが悪いだけ、と。

「ラウンジ壁」よりも平板な世界の中で、それでもなお、ブラッドベリは一縷の望みをテキストに託さずにはいられなかった。保守するに値するものなど何ひとつとしてない惨めで卑しい過去と異なるシナリオを選択するための糸口は、過去の中にしか存在しない、その苦みを共有することの中にしか存在しない。

 ひょっとしたら、本を読めば、おなじ狂気のあやまちをくりかえさずにすむかもしれないじゃないか!

 愚行を記録している人間をもう少し集めるとしよう

 本を一語一語、口伝えで子どもたちに伝えていくんだ。そして子どもたちも待ちつづけながら、ほかの人間に伝えていく。もちろん、そんなやり方では失われてしまうものも多いだろう。しかし、聞く耳を持たぬ相手に聞かせることはできないんだ。そういう連中も、いずれは、なにが起きたのか、なぜ世界は足もとで爆発してしまったのか疑問に思って、考えを変えるときが来る。いまの状況が永遠につづくわけではない

 なにをしているのかとたずねられたら、こう答えればいい。われわれは記憶しているのだ、と。長い目で見れば、それがけっきょくは勝利につながることになる。そしていつの日か、充分な量を記憶したら、史上最大のとてつもなく巨大な蒸気ショベルをつくって史上最大の墓穴を掘り、そこに戦争を放りこんで埋めてしまうんだ