小さなことからこつこつと

 

 この本は医療におけるパフォーマンスについての本である。もし、あなたが医師であるならば、医師の仕事とは微妙な症例に正確な診断をつけたり、技術的な腕前を磨いたり、他の人にある程度わかりやすく説明したりすることだ、と思うだろう。しかkし、この本を読み進むうちに、それは間違いだと気づくだろう。医療において、どんな職種でもそうだが、われわれはシステムや資源、状況、人々と取り組まなければならない。そして、自分自身の弱点も対象になる。ありとあらゆる想像を超える障害と向き合わなければならない。そうしながら、それでも、われわれは進歩し、改良し、改善しなければならない。われわれがどう取り組み、なにをするかが、この本で私が書こうとしたテーマである。

 

 例えば戦地における米兵負傷者の致死率の場合、独立戦争では42パーセント、第二次世界大戦では30パーセント、ベトナム戦争湾岸戦争のいずれにおいても24パーセントで横ばい。ところが世紀が代わったイラク・アフガンにおいては、この数値は10パーセントにまで落ちる。

 あるいは嚢胞性線維症なる難病の場合、1950年代の平均死亡年齢は3歳、1972年にはそれが18歳にまで改善し、2003年にはさらに33歳にまで上昇。さらに驚くべきことに、トップクラスのスコアを記録する5つの施設の患者に限定すれば47歳をマークした。

 こうした事例の数字のみに目をやれば、日進月歩の先端技術の開拓や臨床データの蓄積がこれらのスタッツを可能にしたのだろう、と通常誰しもが想像するところである。とりわけ嚢胞性線維症のトップ・ファイヴにおいては、潤沢な資金を流し込まれて、各種の工学に基づいた最先端を行く研究が実践された結果なのだろう、と。

 しかし筆者が実地に足を運んで目撃したのは、そうしたソフィスティケートされた医療モデルとはあまりに対照的とすら映る、日々の泥臭い積み重ねだった。

 

 先の中東に話を戻せば、イラクに派兵された約15万人に割り振られた医師は、50人未満の一般外科医と15人足らずの整形外科医に過ぎなかった。その資源投入の貧弱をもって示唆されるように、先端のテクノロジーが改善に寄与しただろう部分など筆者は「無関係」とまで言い切る。現場において講じられていたのは、そしてリソースからして可能だったのは、「単純で、ほとんど陳腐とも言えるような変更」に過ぎなかった。

 湾岸戦争時の外傷統計から浮上したのは、例えば防弾チョッキの着用だった。暑い、動きづらいといった理由から忌避されてきたが、使用を徹底した結果、顕著に戦死者数が減少した。

 同様にデータ分析から見えてきたのが、処置に取りかかるまでの「ゴールデン・アワー」だった。手遅れの患者に尽くせる最善など今日においてもたかが知れている、対してそうなる前に治療に入れれば死亡率は劇的に引き下がる。事実上、勝負は手術台に上がる前に決している。ならばどこを変えればいい? ロジスティクスを変えればいい。

 

 実は病院こそが感染症クラスター源になってしまうのは、今も昔も変わらない。専門家の嘆き節、「あなたのような病院スタッフに感染症予防のための決まり事を守らせるのが一番大変なの」。もっともそこで要求されているのは、微に入り細に入り電話帳ほどもあるようなマニュアルの遵守ではない、手洗いをしよう、ただそれだけのことに過ぎない。「スタッフの手洗いの頻度は理想から見れば3分の1から2分の1にとどまる。鼻水が出ている患者と握手したあと、傷口を覆うガーゼを交換したあと、汗だらけの胸に聴診器を当てたあと、そんなとき、たいていの医者や看護師は白衣の裾に手をこすりつけ、それでおしまいである。そのままの手で次の患者を診察し、カルテを書き、昼飯をかき込む」。

 この事態の改善に必要だったのは、「なぜ、手を洗わないのか」とミーティングで口を酸っぱくしてトップ・ダウン式に繰り返すことではなかった。「手を洗えないのは、なぜだい」と問いかけることだった。「暇がない」との回答から導かれたのは、消毒液や小物の類をどこでもすぐに手が洗えるように病棟の至るところに配置する、という策だった。あるいは期せずして、問いかけそれ自体が至上の解決策となっていた。グループ内のディベートで当人たちにブレーン・ストーミングさせる、そうして自らでアイディアを出したという経験が、その発想の凡庸さにもかかわらず、彼らの手洗いを促した。

 

 そうした基礎的な事項の徹底を訴える筆者が他方で同時に力説するのは、「ポジティヴな逸脱」だった。

 インドにおいて公立病院に割り振られた予算を頭数で割れば、一人あたり年間わずかに4ドル。備品の調達すらもままならないその国で、ところが外科医たちは世界中を瞠目させるような技術を日々発揮している。必要は発明の母、限られた資源の中で最善の手段を講じる、その意志が気づいてみれば、疫学統計の横紙をぶっちぎるように、前例を見ない術式の開拓を促していた。

 そして筆者が目撃したもうひとつの秘密は、カフェでの休憩中に同僚と交わす情報交換だった。「天才は不要である。勤勉さが必要だ」。先の手洗いと同じ、彼らのパフォーマンスを引き出したのは共に働き切磋琢磨するコミュニティだった。これがもし隣のラボで競争型研究費を奪い合うライバルだったら、同じ関係性は生まれただろうか。

 

「医学を正しく行うことは、頭を使って難しい診断をつけるようなことではなく、スタッフ全員にくまなく両手を洗わせるようなことなのだ」。

 この命題はいずれの職種をとってもおそらくは同じことなのだろう。その頭脳をもって人工知能と高みを目指して競うのもいい、でもまずは足元をしっかりと確かめてみる、固めてみる。AIに雇用を奪われる心配をするよりも人間なりにできる当たり前を徹底する、データと格闘するよりもまず人間同士で話をしてみる、たかがそれしきのことで磨き抜かれるパフォーマンスがある。

ボーっと生きてんじゃねえよ!

 

 結論を先に言ってしまおう。私たち日本人が60年以上にわたって「紅白」を見続けてきたのは、そこに〈安住の地〉を見出してきたからである。……

 むろん、一口に〈安住の地〉と言っても、その形はさまざまである。ある時は生まれ育った故郷のことであり、またある時は家族と共に暮らす家庭のことである。祖国といった、大きな存在を意味する場合もあるだろう。流行歌としての歌謡曲は、それがどのような曲調やジャンルのものであれ、そうした〈安住の地〉に対する私たちの感情や思いをかきたてる。『チャンチキおけさ』や『東京五輪音頭』がそうであったように。

〈安住の地〉を希求する私たち日本人の気持ちを受け止め、つなぐ場となったのが「紅白」であった。その「紅白」を可能にしたのがテレビであり、歌謡曲だったのである。

 

 今もまだ使っているのだろうか、私の記憶にある明石家さんまは、ことあるごとにカメラの向こうの視聴者を指して「茶の間」と呼んだ。

 戦後の日本において、新三種の神器としてテレビは「茶の間」へと普及し、瞬く間にその中心に座するようになった。とりわけ大晦日ともなれば「家族そろって同じ番組を見ながら、その年にあったことを再確認する」。「紅白」というのは絶妙の装置だった。歌謡曲というBGMにのせて、時の人が審査員を務め、時事のトピックが場面場面に差し挟まれる。記憶とは呼び覚まされるものなのか、はたまた植えつけられるものなのか、いずれにせよ、ブラウン管を通じて〈安住の地〉が疑似的な共有を見ただろうことは想像に難くない。

 マスという特性に基づくこの機能は、農村から都市への移行という経済成長の必然と完全にシンクロする。『こんにちは赤ちゃん』に歌われるようなマイ・ホームを築くにせよ、『見上げてごらん夜の星を』に現れるような独居を取るにせよ、郷里を離れた彼らにとってのテレビは、失われし「茶の間」の間隙を埋めて、かりそめの〈安住の地〉を提供した。

 郷里における団らんから、核家族のリビングを経て、一室一台のプライヴェートへと変わり――テレビのたどったこの移行は、ウォークマンを媒介とした音楽消費のそれとほぼ完全に同期する――、そして彼らは「ホームレス」になった。90年代、その旗手たる「小室哲哉の歌詞に出てくる主人公たちは、居場所を持てないまま、寝静まった夜を一人で迎えなくてはならない」。

 

 テレポーテーション、テレフォン、テレワークといった語にあらわれるこの「テレtele」なる頭辞は、一連の用例をもって容易に想像のつくように、ギリシャ語で「遠く離れた」ことがらに由来して言う。テレビなるメディアの必然、互いを遠ざけ隔て合い、そしてついにはテレビすらも〈安住の地〉たる資格を喪失し、自己崩壊を余儀なくされた。覆水盆に返らず、テレビを見ると見ないとに関わらず、人々は一様にこの隔離された世界を条件づけられる。

 本書の論旨それ自体は、実のところ、「紅白」を必ずしも不可欠の要件とはしないテレビ論、歌謡曲論として成立してしまう。その中にあって、ポスト・テレビの成れの果てが、ひどくグロテスクな仕方で表出する、ただしそれは筆者が意図せざるかたちで、それも当然のように「紅白」とは別の場面において。

 20021月の『SMAP×SMAP』、フジテレビの生放送をもって稲垣吾郎が自粛からの復帰を遂げる。

 SMAPにとってこの番組は、いわば帰るべき〈安住の地〉なのである。だからこそ、稲垣吾郎はこの番組で復帰を果たしたのではないか。と同時にこの日の番組は、彼らにとって必要なコミュニティを取り戻すための“儀式”でもあった。

 この日の番組で、稲垣の事件以降、いかなる経緯をたどったのかがたどり直され、本人による謝罪がなされ、彼らにとって特別な歌を歌うことで再び稲垣を迎え入れ、フリートークによって各メンバーのキャラクターを再確認し、最後にノリのいい『SHAKE』で稲垣の復帰を祝福したのも、SMAPというコミュニティを取り戻すためだったのである。

 ここで同時に宣言されたのは、閉鎖され切った「コミュニティ」を映し出すための装置としてのテレビだった。普段ならば喜々として「容疑者」「被告」の用語をもって推定有罪の糾弾に加担する広報機関が、こと稲垣については足並みを揃えて「メンバー」と呼称し続けた。刑事司法手続とは独立に彼らによって行われる謝罪とやらが、世間なるものに対してですらなく、スポンサーや広告代理店といったステーク・ホルダー、すなわち「コミュニティ」に向けてなされていることなど、少しでもまともな頭がついていれば、誰しもが把握できよう。このセレモニーの遂行にあたって、自らが蚊帳の外に置かれていることにすら気づく能のない視聴者にはいかなる座席も割り振られてはいない。テレビはもはや内輪の「コミュニティ」と「茶の間」さえもつながない、その実践例にすぎないこの寸劇が、ただし筆者に言わせれば、「バーチャルな〈日本〉というコミュニティが崩壊した後の、新たなコミュニティへの希望を私たちに与えてくれるのである」。

 社会性と社交性は常に反比例する。

 それぞれがそれぞれのこちらを生き、あちらとの共通話法を持たない。おそらく世紀末にはとうに完成していただろうこの変質を際立てるに、SNSの台頭は理の必然だった。

 コモン・センスが消え去った亡骸としての「コミュニティ」のどこに「希望」を見ろと言うのだろう。

A Nation of Immigrants

 

 ある朝、机に向かって『ナショナル・ジオグラフィック』誌に寄稿する記事のためのリサーチをしていたとき、一般的な農作物が最初に人間の手で工作されたのがどこだったかを示す地図をたまたま見つけた。有名なフロリダ州のオレンジが最初に栽培されたのは中国。アメリカのどこのスーパーマーケットにもあるバナナはもともとはパプアニューギニアのものだ。ワシントン州が昔から受け継いできたものだと主張するリンゴはカザフスタンから来たものだし、ナパバレーのブドウがはじめて育ったのはコーカサス地方である。これらがいったいいつ「アメリカの」作物になったのかを問うのは、イギリスから来た人たちがいつアメリカ人になったのかと問うこととちょっと似ている。一言で言えば、それは複雑なのだ。

 だが、どんどん深く掘り下げていくにつれて、突如それが鮮明になる瞬間があるらしいことがわかった。蒸気船が突如として港に姿を現すように、新しい食べ物がアメリカの海岸に到着した歴史上の一点である。19世紀後半――「金ピカ時代」と呼ばれる、アメリカ資本主義が成長した旅行の黄金期――は、アメリカが一気に成長した時代だった。世界各国への航海という道が開かれ、そのおかげで、デヴィッド・フェアチャイルドという若き研究者が、新しい食物や植物を求めて世界を歩き回り、それらを自国に持ち帰って市場を活気づかせたのである。

 

 本筋を言えば、表紙に描かれるようなメキシコ原産チリ経由のアボカドについてでも紹介すべきなのかもしれない。農業、工業へのインパクトでいえば、エジプト綿も外せない。ビールの泡と苦みをもたらす良質なホップをドイツから持ち込んだそのエピソードも実に興味深い。岳父はかのアレクサンダー・グラハム・ベル、華麗なる人脈をひもとくだけでも十二分にレヴューには値しよう。

 しかしとりわけこの邦訳を手にするものならば、どうにも引きつけられずにはいられないだろうトピックがある。食べて食べられないことはない、しかし実を結ぶでもなく基本的には観賞用のその植物、ポトマックの春をピンクに染めるその植物、フェアチャイルドによって日本から持ちこまれたその植物、名をサクラという。

 かつての訪日時に心奪われたあの花で自身の邸宅を埋め尽くす、はじまりはごくパーソナルな用途に過ぎなかった。しかしその美しさはたちまち広く衆目の的となり、間もなく評判はホワイトハウスへと届く。その木々で道を覆えばワシントンDCの殺伐とした光景は必ずや一変しよう、そんな世論の沸騰に乗じた時の大統領ウィリアム・タフトにはさらなる目論見があった。「日米関係の有効化を望むタフトは、桜が二国間の反目をやわらげる完璧な手段となり得ることにすぐに気づいたのである。……一方日本にとっては、アメリカの首都で日本の良いところを見せつける良い機会だった。日本の役人たちはまた、アメリカの方が日本よりも大きく、人口が多く、経済力があるにもかかわらず、二国はある意味で対等な立場にある、ということが暗に認められたことを喜んだ」。

 

 世界を股にかけるプラント・ハンターとして、フェアチャイルドの存在が要請された19世紀も終わりの時代背景にしばし目を移そう。開拓が進んだはいいが、「誰も彼も同じ作物を栽培していた。トウモロコシ、小麦、綿花の巨大な山がこの国を飲み込んでいたのだ。/……懸命に働けば大いなる報酬が与えられるという約束は、働けば働くほど貧しくなるという現実に裏切られた」。過当競争に疲弊する農家を救うには、とフェアチャイルドは農務省を説得する、多様性をもたらせばいい、他国から新たな作物を持ち込めばいい、と。

 原著が出版されたのは2018年、「アメリカ・ファースト」の渦中に筆者はこのテーマをもって一石を投じた。その意図は以下に示す書き出しからしても明らかだろう。

 

 アメリカ人として恥ずかしいと思うことの一つは、アメリカがどれほど肥大した自尊心と権力をもっていようとも、「アメリカの」という形容詞が使われるようになってから大して時間が経っていないということを、しょっちゅう思い知らされることである。数年前、僕は気づいたのだ――移民がアメリカにやってきたのと同じように、僕たちの食べ物もまた海外からやってきたのだということに。

 

 そして百年前にもまた、いわば自国優先主義を掲げて、フェアチャイルドの前に立ちふさがる勢力があった。他国から入り込んだ害虫、病害が、いつアメリカの農政に致命的な打撃を与えないとも限らないではないか、と。だからこそ、「『植物の敵』の侵入を阻む『万里の長城』が必要である」と。

 フェアチャイルドに言わせれば、一定のリスクは認めつつも、その危機感は脅威論を限りなく引き伸ばした誇大妄想に過ぎなかった。「壁を作って孤立するのは、アメリカにとって有利なことではなかった。そんなことをすれば競争力を維持することができなくなってしまう。『世界の潮流は、より大きく交わることであり、より頻繁に商品をやり取りすることであり、より大きな他とのつながりであり、地球上の植物や植物から作られるものがより大きく混じり合うことである』というのが彼の主張だった」。水際対策として「海外からの害虫が侵入する危険を根絶するのは政府機関の科学者のすべきことであって、国中の港できちんとした教育を受けていない港湾労働者がすべきことではない」。

 そして邦訳はポスト・コロナにおいて読まれる。武漢ウィルスを叫ぶ者たちは、それ見たことか、と快哉を挙げて「壁」を支持することだろう、ただしその手に握りしめるスマートフォンが、各国より持ち寄られた技術と知識と原材料の集積体であることなど思いもよらず。不測のリスクを恐れて、科学的なマネジメントの道すらも閉ざすことで生じるさらなるリスクについてなど、彼らは想像しようともしない。

 近所のスーパーでも八百屋でも出かけてみたらいい、そして国産の野菜果物として並ぶそれらのルーツについて少しでも思い巡らせてみればいい。ついでに言えば、それらを収穫しているのはかなりの確率で中国やベトナムから来た人々だ。「アメリカ」が「アメリカ」であることの非自明性に至らぬままに「アメリカ」に固執し続けることは天に唾するがごとくやがて自らに跳ね返る。無論、それは「日本」で置き換えてみても同じこと。時代の扉はいつだって国境を問わず通い合う知性と理性で開かれる。

理不尽を許さない

 

 私の人生のうちで最もエキサイティングだった時から50年が経ちました。

 日本国憲法の草稿に「女性の権利」を書くという私の仕事は、歴史の隠された部分として、本来、秘密のままふせておかれるべきものだったのかもしれません。

 しかし、世界の人権、特に女性の人権の現状を見たとき、そして日本のさまざまな集まりで、かつて私の身に起こった事柄を公にし、人々に語ったときから、私の心の奥深くにしまいこんだ記憶をたどり、記録しておくことが必要であると感じました。

 私はいまでも、高い理想をかかげた日本国憲法はすばらしいと思っています。

 私は、この本を読んでくださった女性が自立し、仕事を持ち、女性の権利の獲得のために闘い続ける勇気を持っていただければ、と願っています。

 また、この本をお読みになる男性は、そういう女性を支えて下さいますようにお願いします。

 

 その女性、ベアテ・シロタがGHQ勤務を望んだきっかけは、ごく私的なものだった。父はロシア生まれのユダヤ人にして国際的なピアニスト、東京音楽学校の教授職を罷免された後も戦争に翻弄され行くあてを持てぬまま日本に留まる。その両親との再会を果たしたい、無事を確かめたい、その一心でかつて暮らした日本の地へと舞い戻るべく応募する。

 無二の武器は六か国語を巧みに操るバイリンガル性、民生局の政党課なる部門に配属された、ロースクール卒でもない彼女が、上陸から「わずか1カ月後に日本国憲法の人権条項を書く運命になるのだが、そんな雰囲気はかけらもなかった」。

 

 民生局のわずか25人のスタッフに命じられたのは新憲法草案の策定、当初、このトップ・シークレットに与えられた期限はたったの1週間。この突貫工事の第一のソースは、いわゆるマッカーサー三原則。そして第二のソースは、かつて『タイム』誌にてリサーチャーを務め、多言語を巧みに操るシロタの機転から生まれた。他国の憲法を手本にすればいい、そうして彼女は東京の主要な図書館をめぐり資料をかき集める。局内の誰もが宝の山に色めき立った。

 彼女に大いなるインスピレーションを与えたのは、皮肉にもソビエトとヴァイマールの憲法だった。

 例えばソビエト社会主義共和国連邦憲法122条にはこうあった。

1 ソ連邦における婦人は、経済的・国家的・文化的及び社会的・政治的生活のあらゆる分野において、男子と平等の権利を与えられる。

2 婦人のこれらの権利を実現する可能性は、婦人に対して、男子と平等の労働・賃金・休息・社会保険及び教育を受ける権利が与えられること、母と子の利益が国家によって保護されること、子供の多い母及び家族のない母が国家によって扶助されること、妊娠時に婦人に有給休暇が与えられること、広く行きわたって産院・託児所及び幼稚園が設けられていること、によって保障される。

 彼女を突き動かしていたのは、単に抽象的な理想像だけではなかった、そしてそこにこそ、憲法をめぐる本書が自伝として著されねばならなかった最大の理由がある。「赤ん坊を背負った女性、男性の後をうつむき加減に歩く女性、親の決めた相手と渋々お見合いをさせられる娘さんの姿……子供が生まれないというだけで離婚される日本女性。家庭の中では夫の財布を握ってはいるけれど、法律的には、財産権もない日本女性。『女子供』(おんなこども)とまとめて呼ばれ、子供と成人男子との中間の存在でしかない日本女性」、幼き日々をこの国で過ごしたシロタは、彼女たちの顔をその目で見続けてきた。だからいっそうは誓うのだ、「これをなんとかしなければいけない。女性の権利をはっきり掲げなければならない」。

 

 厚木の地に降り立った元帥ダグラス・マッカーサーは、そのとき既に日本の民主化をめぐる腹案を用意していた。

 その筆頭は女性参政権、さらに連ねて言うことには、「政治犯の釈放、秘密警察の廃止、労働組合の奨励、農民の解放、教育の自由化、自由かつ責任ある新聞の育成」。

 あるいはパターナリズムの具現と見えるこのリスト、奇しくもバブル崩壊後の失われた時代において日本人が自ら手放したもの、そして今、差し出そうとしているもののリストでもある。

 水は低きに流れる。権威主義の赴くがままに放っておけば、人は自らを縛りつける鎖をむしろ喜々として誇りさえする。だからこそ、憲法という契約で国家をむしろ拘束することをもって万人を守る安全弁とする。愚者は経験に学び、知者は歴史に学ぶ、世界がくぐり抜けてきたこの叡智をもって押しつけなどとは決して言わない。

 巷間、現在の日本を指して戦前と重ねる論調をしばしば耳にする。私にはその危機感を妄想などと嗤うことなどできない。事実、日本における退歩の願望は既にその閾値を超えた。その30パーセントに声を届ける術はもはやない。無風の冬は果てなく続く。

 ただし同時に、この腐敗した世界のどこにも居場所なんてない、わけではない。夫婦別姓すらも樹立できない私たちは、にもかかわらず、その時代よりも確実に前進していることを見落としてはならない。もしもあのときのままならば、2017年の総選挙をもって大政翼賛会を再来させていた、しかし歴史は徳俵にかかとを辛うじて残した。今なお、衆議院における女性議員比率が10パーセントにも満たない、恥ずべきことだろう、しかし事実、改正前の憲法下においては、その席に座る権利すらも与えられてはいなかった、それどころか選挙権すらなかった。

 この変化が何によってもたらされたか。

 紛れもない、日本国憲法と、そして人々の日々の献身に由来する。

気もそぞろ

 

 本当のところ、多くの研究者は「何の役に立つか」を考えて研究しているわけではありません。最初は、目の前にある不思議な現象に「あれ、なぜだろう」「どんな仕組みになっているのかな」と思い、やがて気になって仕方なくなり、研究を始めるのです。そして、疑問が解けるまで、研究者をつき動かしているのは「知りたくてたまらない」という欲求です。(中略)

 本書は、私が長年やってきた「零細科学」を商う個人商店の歴史と言えるかもしれません。華やかに飾り付けた表通りのショウウインドウもあれば、研究者ではなく、商店一家の「おやじ」としての顔が垣間見える勝手口もあります。四十年以上にわたり経営してきたこの店が、どのような幸運に恵まれ、どんな風に研究の情熱の火を持続してきたか。倒産の危機にあって店主は何を考え、どのような処置をとったか。そして、今、少しは発展したこの店の社会貢献をどのように考えているのか……。(中略)

 本書によって、何の役にも立たないような研究に、長い年月をかけて挑んだ研究者たちの人生に、多少なりとも共感をおぼえ、それによって、それぞれの人生が楽しく感じられるようになれば筆者望外の幸せです。

 

 ウナギの生態は、遡ること2500年、あのアリストテレスをも引きつけた。とはいえ、彼は卵にも稚魚にもめぐり合うことがなかったと見える、「ウナギは大地のはらわた(ミミズ)から自然発生する」と結論づけざるを得なかった。爾来時は流れるも、一向その産卵の実態は杳として知れない。

 そして筆者率いるグループはニホンウナギのより小さな稚魚を求めて南洋を進み、2009年ついに孵化を控えた天然の卵の採取に世界初の成功を収める。

 それはまるで推理小説のように。それはまるで探偵小説のように。そしてそのいずれをもはるか凌駕して。

 まさか闇雲に海洋の水をすくってたまたま引っかかったわけではない。世界中の遠洋漁業の関係者から寄せられたサンプルにたまたま混ざっていたわけでもない(採取、管理、チェック等のコストを勘案すれば、もとよりそんな当たらぬ鉄砲を打てるはずがない)。ドイツのことわざが言うことには、一度は数のうちに入らないEinmal ist keinmal。しかし、それが五度も連なればもはやそれを偶然とは呼べまい。そこには旧来からの知見の蓄積に基づいてターゲットを絞り込んでいく、周到極まる深謀遠慮が張りめぐらされていた。

 その一例が「新月仮説」だった。

 1991年の航海調査で採取した稚魚、レプトセファルスを用いて孵化日を逆算してみると、実に興味深い事実が浮上した。そのピークが新月の晩に集中していた、いわば親ウナギたちが「合同結婚式」を挙げていたのだ。そこから推理を作動させる。「おれには受精の効果を高めるメリットがあります。しかも新月の晩は真っ暗で安全性が高い。親ウナギにしてみれば、月影の射し込む満月の海よりも、闇夜の新月に卵を産むほうが、わが子が、そして自分自身も天敵に襲われる可能性は低いのです。さらに言えば、大潮なので産み出された卵は早めに流れて拡散し、リスクは分散されます。新月の動機産卵はきわめて合理的な選択といっていいでしょう」。このことはウナギの眼の性質からも裏付けられる。曰く、「川で成長している時期の黄ウナギから、産卵場への回遊が近づいて銀ウナギに変態すると目が大きくなります。変化は外見だけでなく、眼の内部でも起きていて、網膜の視細胞は、形の認識に適した細胞が減り、明暗のみを感度よく認識できるタイプの細胞が増えてきます。これは来るべき長旅への適応であり、新月の晩を正確に感知するための変化と考えていいでしょう」。

 

 快刀乱麻を断つがごとく、寄せられたデータがするするとあでやかな線をなしてつながり、やがて至るべくして卵へとたどり着く。

 一読者にすら走る快感、これが数十年の時を費やした筆者ともなればいかばかりか。現実に配された謎が解けていく心地よさ、それは人間ごときの浅知恵が生むフィクションをはるかに凌駕する。

 面白ければそれでいい、ところが世の中にはそれだけでは満足できない人々、資源保護や養殖技術といった即効性、あるいはより露骨に換金性を求めずにはいられない人々がごまんといる。そして本書を襲うだろう最大のカタルシスは、そんな彼らへの筆者による返答にこそある。

「研究者という生き物は、国益や政治なんかは実はどうでもよく、真理を探し求めること、この一点こそが最大の関心事なのです」。

 ここまで言い切る「研究者」のこの心意気にどうして痺れずにいられようか。

 知りたいから知る、調べたいから調べる、そうして引き出された知識から時にたまさか「百にひとつ、千にひとつに、真に人類を幸福に導く大きな研究成果が得られるかもしれません」。

 なるほど確かに知識なるものは概して自己完結のほかに向かうべき先を持たないものなのかもしれない。しかし同時に、次なる時代の扉は常に唯一、知識によって開かれる。世界初のワクチン、牛痘接種は、その祖たるE.ジェンナーの郷里の酪農地帯での何気ない観察から生まれた。カビの研究がペニシリンを生み出すなんて、誰が予見できたというのだろう。記号論理学がプログラミング言語の道筋を作ろうとは、G.フレーゲはまさか知る由もない。A.G.ベルを電話の発明へと仕向けたのは、母と妻の聴覚障害だった。M.キュリーが研究なくして放射線のリスクを知り得たというのなら、今日となってはひどく無造作なその取扱いをもって、わが身を滅ぼすこともなかっただろう。役に立つか立たないかなんて、分かってみるまで分からない。

 いや、そもそも「真理」は用不用などというしゃらくさいアジェンダ・セッティングに巻き込まれる必要すらないのかもしれない。ホモ・サピエンスhomo sapience、いみじくも知をもって自らを定義した人間は、どうしようもなく知りたくなってしまう、それはちょうどウナギが気もそぞろに母なる海への旅へと出ずにはいられなくなってしまうように。なんでなんで期を持たない幼児などいない、そして三つ子の魂百まで続く、人間の人間たる所以である好奇心に冷や水を浴びせかけることをもって大人の割り切りなどとは決して言わない、それは単に退廃をあらわすに過ぎない。