オール怪獣大進撃

 

 問題はこのような人気の街[吉祥寺]で店を始めようとする場合、高い保証金を払って店舗を借りなければならないということだ。

 よって若者は商店街や住宅地で取り壊し寸前の家屋や老朽ビルを探し回る。コレクションさながらに、世界各地で見つけてきた服や、雑貨を売る小規模店の多くは、老朽戸建てや自宅の一部を改装するなどした店舗で、おうちショップを開き固定客を掴んでいる。……

 私も気負わずイギリスで見つけたものを、商店街の片隅で販売してみたい。イギリスのカントリーサイドや村々には、辣腕のバイヤーも探し出せない素晴らしい品々が眠っている。それらを思い浮かべるたび、きっと吉祥寺でうけるはずだと、ロンドン拠点づくりの最中も構想はムクムク膨らんでいった。

 家余り日本、デフレ日本で素晴らしい老朽物件はこの街にもまだまだ眠っているはずだ。ひょっとしたら、車1台分くらいの価格で老朽家屋が見つかるかもしれない。

 体力、気力がある50代のうちに、長引く不況の追い風を受けて、人生後半の舞台、「おうちショップ」をつくるのだと密かに決意した。

 

 システムキッチン、台所周りのフローリングや壁紙などの総取り換えで100万超。

 浴室、水回りもリニューアルして、さらに100万ドーン。

 ここのところ、築20年を回った実家メンテナンスの見積もりを景気よく浴びせられている私――まあ払うのは母だし、どうせじきに通貨価値など底が抜けるし――、一戸建てのフルリフォームでご予算350万円と聞いて、本書に思わず唖然とする。原著が上梓されたのが2011年、資材コストも今日に比べれば低く収まっていたりはするのだろうが、それにしても破格の爆安プライスである。

 筆者自身の一貫した自画像としては、知恵と工夫を働かせさえすれば、これだけ手軽に素敵なリノベーションが実現できますよ、というモデルケースを提示しているつもりなのだろうが、意識高い系に固有のその浅はかなからくりは間もなく暴かれる。

 つまりは、他から即座に断られるような案件を自転車操業がほぼ行き詰まった工務店が目先の金欲しさにホイホイと飛びついてはみたものの、計画性などもとより想定しないから工程表はほどなくバースト。しかもお客様は金は出さんが口は出すの真正クズ、モンスター・クレーマーと来ている。どっちもどっちの醜い修羅場、人の不幸は蜜の味、薄っぺらなイギリスかぶれのいけすかなさという調味料も絶妙に作用して、これほどまでに腹を抱えて大笑いできるテキストにもそうそう巡り合うことはない。

 

 この鈍感力、すごいよな、と筆者への呆れはやがて怒りへと変わる。

 奇しくも同じタイミングで近所を手がけていた大工がぽろっと漏らしたという。

1000万円くらいかかってるんだろーなぁ」

 筆者はそれを聞いて内心愕然とする。

「彼らはプロなのに、少ない費用だからこそ創意工夫を凝らした独創的なリフォームができるとは考えられないとはガックリだ」。

 なるほど、ガックリする自由は誰にでもある。張りぼての安普請を理想の城と強弁する自由もある。しかし、原価の裏など知り尽くしたプロから見て推定1000万円の作業の対価に350万円という手前勝手な予算上限を押しつけているだけであることにすら気づけない己の頭の悪さを肯定する自由、一度引き受けたのだからとパワハラかます自由はない。

 100円ショップで売られている商品が所詮は100円でも利益を見込める代物でしかないのと同じこと、「独創性」などというみすぼらしいサルの戯言で埋められるようなギャップなど地上にはひとつとして存在しない。

 このテキストは一切合切がこの調子で進んでいく。

 筆者が「創意工夫」の一例として紹介するもののひとつが照明である。「数千円で購入できるレプリカものは本物よりはるかに安いうえ、ほのかな明かりのニュアンスによって室内に陰影が生まれ、古い家の良さが引き出される」。

 できるものなら少しでも安く済ませたいと思うのは人情というもの、しかしその代償として「本物」が駆逐されて、スケイプが安っぽく朽ちていくことは引き受けなければならない。

 この潮流は住みたい街ナンバー・ワンをも襲った。個人商店の主のこだわりによって彩られていた吉祥寺が、やがてファストの荒波にさらわれて景色を一変させる。セレクトショップユニクロに、喫茶店はスタバに、金物屋はドンキに、瞬く間に飲み込まれていった。いかにも文化分かってますな口調で、筆者は嘆き節をひたすらに並べてやまないのだが、いやいや、こうしたトレンドを促したのは紛れもなく、構造不況や単に知的貧困に基づく買い叩きや買い渋りを「創意工夫」と宣い散らした筆者を典型とするマスだろう、と。「レプリカ」をもって「本物」を排除してドヤ顔をかます人間が「本物」のよさを訴えるって、皮肉が効きすぎていて、笑止千万にも程がある。

 水は低きへ流れる、とめどなく。

 

 リフォームもいよいよ大詰め、のはずなのに、電気工事に必要な照明がいつになっても現場に届かない。筆者はすぐさま工務店の担当者の専務を問い詰める。彼が細々とした声で応えて曰く、「納期がずれて今晩になったんです」。

 そんなことばは信用できない、と筆者は深夜に専務の車をチェイスして、その受け渡し現場に同行することに決める。車は郊外の畑をかいくぐり林をかき分け細々とした路地を突き進む。こんなところにあるはずがない、騙された、と誰しもが思ったその刹那、問屋の倉庫へとたどり着き、トラックの荷台を見れば確かにそこには無防備にも筆者の名前の書かれた段ボールがあった。

 カスタマー・ハラスメントの限りを尽くす筆者がたまさかとらえた迫真のドキュメンタリー、これが問屋と業者のリアル、日本の建設業のリアル。

 明らかにキャパシティを超えた仕事を背負わされ、過労死ラインなどとうに振り切って、夜も遅くに車を出して資材を受け取り、それほどまでに身を削っても得られる金額は雀の涙。しかも、つけ回す顧客サイドは己のブラック性についぞ気づく素振りを見せない。

 あまりにひどすぎ、惨めすぎ、怒りはやがて笑いに変わる。

 

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おいしいごはんが食べられますように

 

 台湾に住む人々の大部分は、福建各地からの移民にルーツを持つ。さっぱりとして甘い福州料理と、油が重く塩気の強い福建西部(閩西)の客家料理とが、しぜんと台湾の味わいの基調を構成するのにかかわっており、これらとともに福建南部(閩南)の料理はとくに重要なものだ。福建南部の料理は調味料を重んじ、漢方薬材を料理に取り入れることもままある。……

 台湾の食といえば小吃に重きを置く。そして台湾の小吃の大部分は、経済的に貧しかった時代に由来するものだ。経済的な地位の低さと生活の条件の厳しさが、懸命に労働し倹約するという食文化を形作っていった。……

 日本料理は、台湾における食文化が国際化した最初期の痕跡に当たり、今では台湾の伝統的な味わいとして内面化されてしまっている。日本は台湾を50年にわたって統治していたことから、台湾人はしぜんと上流社会にあたる日本の生活様式をまねるようになり、だんだんに和風とも中華風ともいえない料理の形式が発展してきたのだ。……

 国共内戦を経て、1949年前後におよそ121万人が国民政府とともに突如として台湾に移住してきた。これは中国の八大料理体系が一挙に台湾に押し寄せたことにも等しく、台湾の食文化に最も大きな変化を呼びこむことになった。……

 今となっては、かつての外省人の故郷の味は、すでに内面化されてむしろ濃厚なまでの台湾の味となっている。私は大陸のどの地域にも、台湾の客飯の滋味に迫るものを見出しえていない。

 

 台湾メシと日本人が聞いてまず連想するだろう筆頭のひとつ、魯肉飯。

 しかし大陸の人間からするとこの表記には若干の違和感があるらしい。曰く、音を同じくする「魯」ではなく「滷」の誤りではなかろうか、と。意味から言えば、「滷」は「材料を煮汁の中に入れ、長時間にわたって火を入れる中国料理の伝統的な技法」で、一方の「魯」を漢和辞典で引けば「魯鈍」の用法そのままに「おろか」で「にぶい」ことをいう。なるほど前者に理があるらしいが、一度定着してしまったものは仕方ない。もっとも筆者に言わせれば、南部での呼称、「肉臊飯」(バーソープン)の方がしっくりと来るらしい。

 この国民食、「多くの人々が、やっと歯が生え出したころから食べ始め、歯が抜けすっかり入れ歯になるまで、 肉臊飯を好んで飽きることがない」。それは単にどこでも食べられるから、というだけではない。「おそらく、台湾に早くから住んでいた人々が生活が貧しく苦しかったころに、豚肉をじゅうぶんに使い切るために、肉のかけらまで醤油で煮込み、飯の進む具に仕立てたのだろう」、そんな記憶の痕跡を一杯のライスボウルは留めずにはいない。かの地にて「滷」はいつしか「魯」になり、台湾という共通体験を触発せずにはいない。

 

「阿給」という、淡水で広く親しまれる小吃があるらしい。「作り方は油揚げを開いて、油葱酥と肉そぼろとともに炒めた冬粉(春雨)を詰めて、ニンジンの細切りを混ぜた魚のすり身で口をふさいで、蒸し上げ、タレをつけて食べる」。そしてこの料理、「阿給」と書いて「アーゲイ」と読む。その発音は、日本の「揚げ」に由来する。

「甜不辣」という、屋台でなじみの小吃があるという。甜麺醤の「甜」に辣油の「辣」、字面だけを追えば、甘いけど辛くない、という何も言っていないこの感じ、でもそのままつないで発音すれば、ティエン-プー-ラー、つまり「てんぷら」、九州の方で専らそう呼ばれる魚のすり身を揚げた方のあの「てんぷら」が、他の具材とともに鍋で煮込まれて供される、要はおでんそのもの。まさか偶然のはずはなく、日本から持ち込まれたボキャブラリーに当て字しただけで、先の「魯」と同じく文字それ自体にさしたる意味は込められていない。もっともダシを含ませるというよりも、味はタレや調味料でつけるものらしく、このあたりもポルトガル発日本経由台湾着の独自の進化形態を果たす。

 

 食が反映させるのは、何も国民的な記憶ばかりではない。

 がんを患い化学療法を受けている妻を連れての家族旅行の最中、彼女が激しい腹痛を訴える。病院に運び込むも、医師の診断はただの食べ過ぎ。夫はその周辺を散策し、鴨賞なる名物を買い求め、帰宅後、家族の夕食に供する。「葉ニンニクを細かく切って、レモン汁とゴマ油を少々垂らし、阿万之家の鴨賞を和えた。サトウキビで燻したアヒルの肉は、風の祝福のように感じられた。疑いと恐れを吹き払い、落ちついた軽い会話をもたらしてくれた。私たちはありえたかもしれない危険と、食いしんぼうの病人を冗談のタネにした。

 生活することの喜びは、一口鴨賞を噛みしめたときと似ている」。

 容赦なく進行する病の中で、妻に癒しのひとときを与えたのは排骨湯だった。「スペアリブを使ってスープにし、そこに大根を加えるだけ」、そのシンプルさは「文学の創作にも似ている。平凡なものが手をつけると、いつも言いたいことが多すぎて文が乱れてしまう」。

 終わりが近づく彼女の病室に茶葉蛋(味つけ卵)を持ち込む。「食べたいかい、いらないか。口が言うことを聞かなくなっていて、たぶんもう飲み下せないのだ。急に口の中の茶葉蛋が苦く感じた。ベッドの上で眠る妻をじっと見ていると、ふと知らない人のように思えた」。

 夫は思い出す、ほんの2年前、出先で「夜に妻と散歩に出て、道で茶葉蛋を買って歩きながら食べた」日のことを。「卵の殻のひび割れは一種の暗喩だ。人生の傷跡もまたしかり」。

 

 この紙の束をかじったところで、まさか蚵仔煎の味もしなければ、臭豆腐の匂いもしない、四臣湯の温もりも立たなければ、冬瓜茶で渇きが癒されることもない。

 でも私たちは本書を通じて知るだろう、食卓を囲むとはすなわち、記憶をともに分かち合う行為であることを、あるいはそこに座することのない顔や名前の残らぬ先人たちを含めて。ペーパー越しに、その末席に迷い込んだかのような錯覚を時に味わう。

 このテキストは、ひとりせっせと朝早くから贔屓の店に通い詰める食道楽の夫が妻に浮気を疑われる、そんな物語でもある。そうしてたまには孤独にグルメを決め込んで、それでもなお本書はあくまで、誰と食べるか、をめぐって著される。何を食べる、どこで食べる、そこに幸福が横たわることは否定しない、でもその前に、誰かと食事をともにする、その日々の記憶を愛おしむ。皿に載らないその経験が筆者にとっての「台湾の客飯の滋味」を代え難きものにする。

 奇しくも英単語companyの由来はラテン語com-panis、すなわちパンをともに食らうこと。カタログスペックを下調べしてこじらせる前に、そんな楽しい誰かとともに、ふらっと店先で匂いに誘われて、いつの日か、おいしいごはんが食べられますように。

 

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Esse quam videri

 

〈ザ・グレーヴス〉はたんに“金ぴか時代”の黄金の玩具というだけではない。そもそも時計の歴史において、複数の複雑機構を搭載したグランド・コンプリケーションのなかでも、高級時計製作の最高峰をきわめ、“スーパー・コンプリケーション”の称号を獲得した時計は数えるほどしかない。たとえば、ブレゲの伝説的な〈マリー・アントワネット〉がそれだ。これは悲劇のフランス王妃のために製作された透明な文字盤を備える懐中時計だが、24の複雑機構を持つ〈ザ・グレーヴス〉は、ほかのあらゆるスーパー・コンプリケーションをも凌いでいた。どれだけ歳月が流れ、技術が進歩しても、この時計が技術的な最高到達点に位置していることに変わりはない。すべてが計算しつくされ、職人の手で仕上げられたスーパー・コンプリケーションは、コンピューターの登場以前から存在していた高性能な計時コンピューターなのだ。

 この大胆なパテックフィリップの傑作時計は人々の驚きと熱狂を呼んだ。

 時計コレクターはみな、〈ザ・グレーヴス〉を時計の歴史における大きな存在として位置づけてきた。しかし、この時計に駆使されている見事な技術というものは、この時計が放つ輝きのうちのかすかなきらめきにすぎない。これは、内気な社交界の大公〔ヘンリー・〕グレーヴスと、彼のライバルであった自動車王ジェームズ・ウォード・パッカードが、20世紀初頭に繰り広げた奇妙な戦いの勝者でもあるのだ。

 

 その「自動車王」が、時計の持つクラフトマンシップに魅せられた必然を理解するのはおそらくそう難しいことではない。ウォードにとって「完璧に機能する機械は同時にすぐれた芸術品」であらねばならなかった。「ナンバーワンの自動車」を探求する者が、当時の機械工学の最先端を行く時計にどうして魅せられずにいられようか。モータリゼーションが何を変えた? 時間を変えた、空間を変えた、その黎明期を牽引した彼が時計に惹かれる蓋然性は、あるいはそんな要素からも説明できるかもしれない。

 エンジニアとしての機知をもって一世を風靡したアントレプレナーがまさか、霊感商法まがいのブランディングに引っかかるはずもない。この完璧主義者は、本業ならざる趣味においてすらも、その水準を求めずにはいられなかった。

 例えば彼の所有したパテックフィリップ、ムーヴメント・ナンバー174623は、パーペチュアル・カレンダームーンフェイズを備えているにとどまらない。「愛する故郷であり、彼にとっての世界の中心であるオハイオ州ウォーレンの日の出と日の入りの時刻を表示する機能を搭載していたのだ」。緯度経度のデータが手軽に揃う時代ではない、PCに入力さえすればあとはオートマティカルに弾き出してくれるなんてこともない、手計算で、手仕事で、金属部品の組み合わせをもって、この機能は表された。もちろんこんなピンポイントなエディションが企画されるはずもない、ウォードがオーダーメイドで一から注文し、そしてパテックやヴァシュロン・コンスタンタンの職人集団は無理難題に見事応えてみせた。ひとつミッションを克服すれば、また新たなる課題が与えられ、そして再びブレイクスルーが果たされる。

 

 本書のダブル・キャストのもう一方、ヘンリー・グレーヴス2世に「ウォードのような才能や機械の知識はなかった」。しかし銀行創業者一族の彼には、むき出しの有閑階級の理論があった。直接に面と向かって雌雄を決するシーンなどついぞ現れることはなく、そしてもちろん顧客情報を垂れ流すほどにメーカーは愚かでもなく、しかし、ヘンリーの所有欲は頂を目指さずにはいられなかった。ウォードのような工学上の具体的なアイディアはなくとも、既成の先行作品に対して何かしらのプラス・ワンがあればいい、幸か不幸か、狂乱のギルデッド・エイジにあって、糸目をつける必要もないほどの富が彼にはあった。

 彼らはかくして時計業界のゲーム・チェンジャーとなった。「ふたりの目利きは、突飛な思いつきに基づいた完全オーダーメイドの時計を、しかも自分ひとりが使うために作らせたが、そんな時計収集家は彼ら以前には皆無に等しかったのだ」。

 そうしてあるときヘンリーは言った。「『最も多くの複雑機構を搭載し、想像を絶するほど精巧な時計を作っていただきたい」。明快きわまる指示を語るなかで、彼は注文の核心とも言うべきポイントを、こう言い添えて念押しした。『とにかく、確実にミスター・パッカードの時計を上回るものを!』」。

 構想から製作に費やされることざっと8年、かくして彼のファミリーネームを冠された宿願の最高傑作〈ザ・グレーヴス〉は完成する。

「エナメルの文字盤はサファイアの硬度を持つクリスタルで守られており、ダイアモンドでしか貫くことができない。時計師たちがまだ部品を自作していた頃の作品で、使われている部品の数は900点以上にもおよぶ。部品のほとんどは米粒なみに小さく、その厚みは髪の毛ほどしかない。そして430本のネジ、110個の車、120個以上のさまざまな可動部品、70の宝石が24の複雑機構を生み出している。この膨大な数の複雑機構には、1時間ごとに作動するさまざまな時計機能、西暦2100年に一度だけ調整が必要なパーペチュアル・カレンダー2本の秒針を備えるスプリットセコンド式クロノグラフ機能などが含まれている。小文字盤にはニューヨークの日の出と日の入りの正確な時刻が表示され、また別の小文字盤には月の相が表示されている。ミニッツ・リピーターはロンドンのウェストミニスター宮殿にそびえる大時計塔ビッグ・ベンの鐘と同じメロディを奏でる。しかし、これらの機能はこの時計の見所のほんの一部にすぎない。いちばんの目玉はなんと言っても、マンハッタンの夜空を彩る星々――それも、正確な等級で示された星々――と天の川が浮かぶミッドナイト・ブルーの天球図が、実際の天の運行に合わせて回転する機構だ」。

 

 この時計、1999年のサザビーズにて11002500ドル(手数料込み)で落札された。さらに本書上梓後の2014年に再上場され、なんと2320スイスフラン(同上)で競り落とされた、という。

 オタクの無償の愛が世紀を隔てて青天井な報われ方をした、そんな主旨をもってあるいはこのレヴューをまとめることもできるのかもしれない。

 しかし本書には、どうしようもなくバカバカしさを覚えずにはいられない事実が記載されもする。これらグレート・コンプリケーションをめぐる一連のオークションには、実はとんでもないキー・プレイヤーが君臨している。それはつまり、パテックフィリップ本体に他ならない。株式市場における自社株買いの価格操作と何ら異なる点を持たない。

 かつて自分たちが製造した時計を、数十年の時を超えて自ら買い戻しブランディングの素材にする。当主に言わせれば、「時計は人類の文明発展の一部」であり、その歩みをアーカイヴスとして残すのは彼ら自身の使命だ、とでも社会的意義とやらを説明してみせるのだろう。

 しかし私たちはそこにウォードやヘンリーにおけるような、まさしく採算度外視の気配をただの1ミリたりとも感知することができない。現代において例えばパテックフィリップを買い求めるとは、そのマッチポンプのコストを負担させられる試みに他ならない。そしてその行為をもって市場価格の下支えになっているとみなせる者が顧客たる地位を引き受ける。

 ふたりが変えた時計市場のゲームのルールは今やすっかり逆戻り、コレクターとはすなわちメーカーが差し出す既製品をただ買い集めるだけの――それも専ら投機のために――存在へとめでたく回収された。彼らは決してその精密な機械仕掛けにときめきなどしない、ヴィトンやエルメスやグッチと同じ、記号に対して脊髄反射を示すに過ぎない、彼らが唯一高鳴ることができるのは値動きだけ。

 そもそもこの産業が精密機械工学の先端を走っていたのも遠い昔、身も蓋もないことを言えば、複雑機構のその結果などスマホの液晶でいとも簡単にディスプレイできてしまうこの時代に、仮によほどのマニアが現れて並外れた一点ものがオーダーされ、なおかつそれを体現する技術力の貯えがあったとしても、それが金になるとわかれば、早晩メーカーはマイナーチェンジのレプリカに限定数点を謳って大々的に売り出すだろう。そして投資家とやらの手に渡ったそれらは、他の美術品と全く同様に、誰の目に触れることもなくどこぞのポートに移されて、ただひたすらに寝かされる。ベンチャーと同じ、9件がポシャっても、1件が跳ねれば、トータルをプラスで回せる。生じた不良在庫なんて一刻も早く損切るに限る。かつてウォードを刺激しただろうクラフトマンシップはそこにない、まともな人間が触発されるべきイノヴェーションの余地が市場のどこにあるというのか。

「そのよさは持ち主に訊けAsk the Man Who Owns One」とは、ウォードがかつて自社に与えたキャッチコピーだという。自らが愛した時計をめぐるこの行く末を草葉の陰でどう思う。

 

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夏色

 

 今夜にでも、何かが起きるのではないか。そんな気がしてしまう。いや、そんな気なんか全然しない。

 そんなはずはない。

 何も起こらない。

 何も起こるはずはない。

 いつも通りだ。

 何事もない。

「虹のかかる行町」

 

 同工異曲というフレーズがこれほどあてはまる短編集も珍しい。

 良くも悪くも一貫している、このテキストが切り取るのは、「何も起こらない」はずの日常に、もしかして何かが起きているかも、という不安の裂け目。

 巻頭作「虹のかかる行町」が切り取るのは、「少なくとも、誰もが誰もの顔を知っていた。そして大概、誰もが誰もの、学年を把握していた」、そんなローカルな街の人々、主に子どもたちの日常。

 保育園の運動会のワンシーン、玉入れのカウントの最中、少女はふと焦燥に駆られる。「もうなくなる。今度こそ、この次で終わりだ」。後ろを向くと、そこにいるはずのクラスメイトがいない、周りを見渡しても、母の姿はない。家に帰りたい、でも、帰れなかったらどうしよう。

 基本をいえば、概ねただこれだけの話がオムニバス形式で繰り返される。何気ない日常、さりげなく芽生えた不穏がじわりじわりとインフレーションを来たし内面を蝕んでいく。それでも結局、「何も起こらない」。

「かえる」も構造的には限りなく同じ、溝でカエルの卵を拾ってきた息子に母が返してきなさい、と命じたきり、なかなか家に戻らない。その様子を見ていた姉は、自分がちゃんとついていってあげていれば、と後悔しきり。

 現代的な文脈に即せば、陰謀論者のロジックとの類似性云々とトピックを展開することもできなくはないだろう。スマホなきおそらくは昭和あたりが舞台に据えられているとはいえ、書かれた同時代コンテクストに従えば、むしろたぶんそうして読み解かれるべきテキストなのかもしれない。もっとも、ここに立ち込める空気からの闇落ち云々はこじつけとしか思えないのもまた事実ではある。

 

 ストレートに言えば、ある面で退屈ではある。

 しかし、それは仕方がない、「何も起こらない」退屈な日常でなければ、そこにはらりと垂らされた戦慄の匂いが引き立たないのだから。それはあくまで私たちの日常、すなわち退屈の似姿でなければならない。

 そのテイストを貫いてくれていれば、そういうものとして読み続けることはできた。どうということのないことをこの世の終わりのように捉えて漠然と絶望するくらいなら、誰にだって身に覚えがあることだろう。時間になっても保育園にママがお迎えに来ない、ママがボクのことを嫌いになってバイバイしちゃったのかな、正解、門の前でママ友同士くっちゃべってたただけ、みたいな。

 しかし、そこに妙な肉づけが施された瞬間から、私はどうにも興覚めに誘われずにはいられなくなる。

 それは単に私にホラー心、SF心が決定的に欠けているせいなのだろう、とは思う。しかし例えば「わたしをじっと見上げる彼の二つの眼の奥で、極小の赤いランプがともった。この子は、こんな子だっただろうか」(「飛光」)といかにも意味深にほのめかされても、宇宙人にマインド・ハックされるとかそんな話、現実には絶対にありませんから、とまるで入り込めなくなってしまう。

 例えば映画『惑星よりの物体X』は、冷戦を背景としたスパイ、赤狩りの寓意として没入を促すことができた、なぜならば、非日常のフィクショナルな舞台の下敷きに時代性という日常が横たわっていたから。

 しかし本作は、ノスタルジアで装飾された日常にアクロバティックな想像の飛躍をぶち込む。当事者にとっては大真面目、しかし傍観者にしてみれば、「何も起こらない」ことがもとより分かり切っているから、妄想乙、くらいしか言えなくなってしまう。まさに「わたしが思い描いたことはほんとうにはならない」(「かえる」)のだから。

 そんなことより、遊びに行ってきます、と自転車で元気に出かけていったバカ息子が、10分後に砂利道の駐車場でずっこけて顔を血まみれにして帰ってくる、とかの方が訳分からなさ過ぎて、圧倒的に怖くない? ちなみに、小一の私の100パーセント実話です。そしてその数年後、同じく自転車絡みで、バカ娘は母の目の前でブレーキをかけずに下り坂を爆走して空を飛び、そのまま気絶して救急車で運ばれ、ところがなぜか打撲と擦り傷くらいで済んだという。私が親だったら、不条理性において楳図かずおをはるか凌駕するこんな珍獣どもに囲まれて、メンタルヘルスを完全に壊されて、幻視のひとつも見たり、壁に向かって話しかけたりして、もしかしたら変な壺を買わされたりしていることでしょう。

 そこには意味も必然も何もない、注意力や運動能力の未熟な子どもは頼みもしないのに何とはなしに怪我をするし、老若男女問わず今日も明日も誰かしらが何かしらの仕方であっけなく死んでいく、それらを指して「何も起こらない」日常という。

 フィクションのアクシデントには何かしらのロジックがある。

 現実のアクシデントには大数の法則のランダムピックしかない。

「何も起こらない」、それこそが怖い、と私は思う。

 

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死にたくなったら電話して

 

「私」こと三ツ橋由嘉里は27歳の銀行一般職、恋愛経験ゼロだが一応婚活らしきことをしていないこともない、「それぞれの焼肉の部位がイケメンに擬人化してミノくんとかトモサンとかカイノミンとかがライバル心と仲間意識と自尊心とコンプレックスとの間でゆるっと仲良くしたり仲違いしたりする日常系焼肉漫画」である『ミート・イズ・マイン』オタ。同僚から合コンに連れ出されるも所詮は数合わせのかませ犬、腐女子アウティングにさらされて自棄酒をあおり歌舞伎町の路上で酔いつぶれたところを通りがかりのキャバ嬢、鹿野ライに助けられる。彼女は言った。

「私死ぬの。だからお金あげるよ……理由は分からないけど私はこの世界から消えなきゃいけない。そんな気がするとかじゃない。私は消えなきゃいけない。生まれた時から決まってる、それが私にとってこの世界で唯一無二の事実」

 由嘉里は反発する。

「私は認めませんよ人は生きてなきゃだめです。死んだら全部終わり。私は自分が大切な人にはできる限り長生きしてもらいたいです」

 そうして二人の奇妙な同棲生活がはじまる。

 

 登場人物の誰しもが一方通行のすれ違いをひたすらに繰り返す。

 どうしたわけか、合コンで由嘉里に興味を持った男にデートに誘われるも、「一緒に時間を過ごすのが苦痛だった。ストレスだった。仕事の内容、好きな食べ物、休みの日何をしているか、宝くじが当たったらどうする? などの特に話すことがない男女が話すテーマを話すのが苦痛だった」。LINE上での言い回しから肉の焼き方に至るまで、何もかもが彼女には生理的に受け付けない。でも彼はそのことに気づく素振りすら見せない。

 母もまるで同じだった、「結局彼女は、女はコミュニケーションの生き物で、恵まれた人間関係さえあれば、幸せだと思っている」。「退屈な世界に生きている……退屈な想像力しか持ち合わせていない」彼女が自分にとっての常識の非自明性を疑う日など、生涯訪れることはない。

 しかし同時に由嘉里は気づく、自分がライに寄せている思いもまた、彼らの限りなき相似形をなしていることに。

 

 いのちだいじに。

 こんな命題がリアルとやらから引き出され得ないことくらい、誰だって知っている。

 赤信号を横切ろうとする救急車にもはや道を譲ろうともしない自動車の運転手が、いざ身内にコロナの火の粉が降りかかれば病院の窓口で大立ち回りを演じてみせて、かと思えば喉元過ぎれば熱さ忘れてただの風邪と喚き散らしては率先してGOTOに繰り出す。こんなクズども、つまりはごく標準的な一般大衆の生命に尊厳なんてあるはずがないことくらい、誰だって知っている。イディオムはきちんと教えてくれる、すべて人間をお連れすべきgo toの先にはhellしかない、あってはならない、それくらいのことは誰だって知っている。

 そしてそんな現実とやらが、既にサンプリング済みの消費行動データセットへと変換可能、変換不要な彼らのためにあることも。

 そもそもクズ過ぎる現実に参照に値するものなどひとつとしてない、だからこそフィクションを志向する。尊厳ある人間なんてどこにもいない、だからこそ人間の尊厳という真っ赤な嘘をでっち上げる、そのクズ過ぎる現実を少しでも変えるために。ところが、今日ではもはや小説の世界ですらも、これしきの命題を掲げることをためらわずにいられない。

 ある面で、この作品は『罪と罰』の好対照をなす。人を殺してはならない、この命題を理解できずそして侵犯したラスコーリニコフを変えたのは無垢なる娼婦ソーニャ。論理を超越したミューズの降臨を前に、凡庸なる人間はただそれを倫理と受け入れ、ひれ伏す他ない。割り振られた設定でいえば、由嘉里がラスコーリニコフで、ライはソーニャ、前者が後者を媒介にメタモルフォーゼを起こすことはあっても、その逆は成り立たない。

 そして案の定、ライは当然のように由嘉里のもとから姿を消す、つまり、最後まで由嘉里はライを繋ぎ止める論理をひねり出すことができない。

 ライもライで、「実験」をいくら重ねたところで、誰も何も変わらない、変わりようがないことをただ知らされて終わる。

 結局、何が起きる? 物語なんて生まれようがないのだから、ひたすらのフラットな日常系に萌えるくらいしかすることがない。

 

 別にそれでいいじゃん。

『ミート・イズ・マイン』のリアルイベントに参加した由嘉里は興奮交じりに語り倒す。

「もうね、行って良かったじゃないですよ。生きてて良かったですよ。生まれてきて良かったですよ。私を形作った精子卵子にひれ伏したいですよ。本当に心から、永遠にこの時間が続けばいいのにって思ってました。これってきっと恋愛感情の一種なんでしょうね。私には遠いものと思っていたし、好きな人には遠くから眺めていたいって、触れ合ってはいけないって思ってたけど、間違ってました。私は勇気が出なかっただけでずっと好きな人に会いたかったし、実際握手会に当選したらその一瞬に何を話そうって考えてたんです。まあ当選しなかったんですけどね。何を話すつもりだったかは秘密です。当たり前じゃないですかそれはトップ・オブ・プライベートです。この言い方間違ってますかね? 今もう幸福が駄々漏れてその勢いで他の大切なものも同時に流れ出して死んじゃってもおかしくないほどです」。

 このビート感にニヤニヤできれば、それ以上の何を持ち帰る必要があるだろう。

 ただし私たちは同時に知っている、この文字に肉声をまとわせた瞬間に、それがただのウザくてキモい何かに変わってしまうことを。

 2.5次元を熱弁できる、つまりは退屈なこじらせ方をしただけで本質的には3次元で末永くお幸せにな由嘉里と、そもそもにおいて2次元的な存在でしかないライ。

 いや、やっぱりよくなかった、身体性って、つまらない。

『ミート・イズ・マイン』、すなわち擬人化された牛の死体をめぐるカーニヴァル、人間は他なるものの肉、わけても人命を刈り取り貪るその瞬間に唯一、至高のエクスタシーで満たされる。

 すべて身体は、ただ殺されるためにある。

 

 ページを閉じてしばらく、なんとなく、記憶の扉が開くに任せる。

 例えば漱石『行人』のラスト。

「兄さんがこの眠から永久覚めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にもしこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします」。

 あるいはシェイクスピアのおそらくは最も有名なフレーズ、to be, or not to be, that is the question

 彼らがこの世に抱くいたたまれなさは、ひとえにことばに由来する。なまじことばを知ってしまったことで相容れぬ現実との齟齬を引き起こし、彼らはひたすら煩悶する。

「消えているのが私の本当の姿」。ライはすなわち、ことばそのものを寓意する、それは現実と決して交わり得ないものとしての。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネによる福音書1:14)。

 この小説においては、そのことばの側が、いのちだいじに、を率先して無効化する、現実の側からは決して導かれることのないその命題を。

 

 なんとなく、私の推しの話でもしてみる。

 間もなくメキシコで開催されるサッカー・ワールドカップ、私の注目はIan Nash、神出鬼没のポジショニング、骨惜しみなき献身性、大一番で決定的な仕事をする主人公補正、と誰がどう見てもMichael Jones以来の世界最高の左サイドウインガー。右サイドを切り裂き倒すSteve Powellの再来、Mike Wadeと奏でる柔と剛の両翼デュオはもはやチート以外のなにものでもない。イングランド唯一の不安材料といえば、クラブではCBしかやっていない、しかもパワープレイ適性も高くないJustin Whiteを頑なにストライカーとして起用し続ける脳みそのバグった監督の采配だけ。アルゼンチンのワンダーキッド、Juan Manuel Lopezからも目が離せない。

 いや、『Football Manager』の話ですけど何か。

 ティーンエイジャーから手塩にかけて育て上げた子どもたちが、ワンタッチ、ツータッチのフラッシュパスを一糸乱れずピタピタ繋いであっという間に敵陣深くに迫り、そこまでウルトラC級のアクロバティック・ムーヴをかまし続けたそのフィニッシュ、神トラップで相手キーパーをかわして、あとは無人のゴールに流し込むだけの簡単なお仕事でバロンドーラーが涼しい顔してポストにぶち当てる、こんな様式美にアドレナリンとコルチゾールを沸騰させた後では、リアルサッカーなんてトロ臭すぎてガチで3秒耐えられない。

 レギュレーションの設計に失敗したこの超ロースコア・ゲームにおいては、フィールド上でほぼ何も起きないまま90分がいたずらに過ぎていく。実況のバカ騒ぎとは裏腹に、ほとんどすべてのプレイがただの0.01も得点期待値を揺り動かすことがない、つまり何の意味もない、まるで現実の縮図をあらわすように。そんなみすぼらしい空回りにどうして目を向けるべき理由があるというのだろう。

 どんなシーンを見せられても、もう何も感じない。

 

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