この本のもとになったJ-WAVEの放送は、番組プロデューサーの高知尾綾子さんのご発案で実現しました。きっかけは、2019年4月のこと。娘の羽夏が、学校でミュージカルに出演することになり、メインキャストの一人だというので、喜んだ父と一緒に観に行くことになりました。その際に高知尾さんもお誘いし、私の車でシアターへ。1時間弱のその道中、おしゃべり好きな父は沖縄返還の日のことをずっと話していて、私が相槌をうったり、ときおり質問をはさみながらのドライブでした。このやりとりは川平家では日常のひとコマだったのですが、同乗していた高知尾さんは「初めて聞く話ばかり」「二人の掛け合いがおもしろい」と興味をもってくださり、「お二人の対談を番組にしませんか?」と声をかけていただいたのです。「沖縄慰霊の日」に放送できたのも何かのご縁、それこそ「冥加」だったと、いまでは思います。
父は、戦前・戦中・戦後を生き抜き、生き残ったからこそ、「沖縄の人びとに放送という形で尽くしたい」と放送局経営の術を学びます。その地は、かつての敵国アメリカ。そこで、妻となるアメリカ人女性と出会うことに。息子の私が言うのもちょっと変ですが、まさに台湾、沖縄と日本、そしてアメリカの歴史の一片を象徴する父の個人史。その壮大さには驚くばかりです。
「米留組」の先駆者として放送メディアを修めた後、当時唯一の民放ラジオ琉球放送(RBC)に川平朝清が入社するのは1957年のこと。そして彼の牽引によりテレビのオンエアがスタートするのは1960年、もっとも当時は本土の録画フィルムが空輸されており、同時中継が可能になるには、東京オリンピック直前の1964年9月1日を待たねばならない。
一連の経緯は、必ずしも本書において力説されているわけではない。おそらくほとんどの読者にとって、この数ページのくだりはさしたる印象をもたらすことなく通り過ぎていっただろう。しかし川平朝清個人のキャリア、否、沖縄という地の歴史において、この時系列はあまりに象徴的な意味を帯びる。
テレビにおける全国ネットワーク、いわゆるキー局の編成には決定的な画期が存在する。それが1959年のミッチー・フィーヴァーである。ご成婚パレードを全国津々浦々へと送信すべく、あるいは必要な機材を確保すべく、地方局間の協力関係の構築がこの出来事をもって促進された、というエピソードは、もやは通説として今日へと語り継がれている。
この瞬間、言い換えれば、つまり、沖縄は国民的なこの熱狂の蚊帳の外にいたことになる。皇太子なる、いずれは「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」へと即位するものをめぐるこの祝祭を彼らはオン・タイムでこの目に捉えることを許されなかったことになる。1960年、岸信介政権下の日米安保改定においても、アメリカ統治下の沖縄は蚊帳の外だった。あるいは佐藤栄作内閣における70年安保においても、同じだった。
あるいは逆に、1970年12月のコザ暴動は、ほとんどの日本人において遠き他国の出来事としてやり過ごされた。
そんな沖縄が急転直下、日本へと組み込まれる。
国際法的に見れば一時預かりではある、とはいえ多大な犠牲を払って勝ち取った土地である、ましてやベトナム戦争の最中にあってこの「太平洋の要石」は重要性を増してすらいる、従ってそう易々とアメリカが手放すはずがないではないか、そのような多数派の見立てとは裏腹に、放送人である朝清には取材を通じてある感触があった。アメリカはむしろ日本への返還を望んですらいるのではないか、と。
在日であるという限りにおいて、米軍基地の管理は日本の防衛庁(当時)が担っている、「つまり、住民が直接占領軍――当時は『進駐軍』と呼んでいるんですが――と接触することはない。住民と米軍の間には、防衛施設庁といった日本の官庁が入っている」。ところが、沖縄はなまじアメリカのコントロール下に置かれているため、米軍が住民との直接交渉に挑まねばならない。こうした矛盾を解消するには、いっそ「施政権は日本に返還したほうがいうのではないか」、この予感は間もなく現実化する。朝清は確信を込めて語る。「だから、『名実ともに返還』ではなくて、アメリカは『実』をとる。『実』とは何かというと、アメリカ軍の基地の自由使用です。日本は『名』をとり、名目的に施政権を返還してもらう。両者の利益が一致して合意に至った」。
この醒めた眼差しは、やがて現実によってある種の裏づけを得ることとなる。「実際、施政権返還のあと、外務省や防衛庁の閣僚たちは、米軍と沖縄の人びととの間に入ってきて、沖縄のためではなく米軍のために代弁しているように、私には見えましたね。
ですから『本土復帰』とか、ましてや『母国復帰』という言葉は使わないです。私はかたくなに『施政権返還』と言っています。もちろん、『復帰』して良くなったことの方が多いですし、それは私もちゃんと認めますけれどね」。
本書で詳らかに明かされるように、川平家は代々、琉球王朝に宮仕えしてきた名門エスタブリッシュメントである。朝清の祖父・朝彬は、王子の通訳として新橋での鉄道開業式典に立ち会い、「明治天皇や大隈重信、西郷隆盛や米仏の外交公使らとともに、陸蒸気と呼ばれる機関車に乗るという経験もしています」。こんなエピソードが次々と繰り出されるような血筋である。
放送人としての朝清の立身出世伝に、家柄由来のヘイロー効果がまさか作用しなかったとは考えられない。しかし彼が歴史の目撃者たり得たのは、「いまにして思えば、非常に良い教育をしてくれたと思います」、この「教育」の重要性ゆえに他ならない。例えば彼は台北での高校時代、戦時中であるにもかかわらず、英語を集中的に叩き込まれて、その経験がのちにアメリカ留学のための強力な利点をもたらすこととなる。その地にて彼は学ぶ、「放送というものは『public interest, convenience, and necessityのためにあるべきだ』と書かれていて/……これこそ沖縄に必要なメディアだという、そういう確信を得ましたね」。やがて彼は生涯の伴侶ワンダリーと運命的な出会いを果たし、そして三児をもうける。彼女は折に触れて息子に説いた。
「Don't forget who you are. あなたが誰であるかを忘れてはならない」と。「川平家であること、カンザスのウィーバー家であること、沖縄出身であり、アメリカ人の血が流れている、あなたが育ってきた基盤は何なのかを忘れてはならない。ステイタスではなく、どういう人物でありたいのか、己の生き方を見つめよ、というメッセージでした。経済的な成功ではなく、どういう価値観をもって人に接するか。周りの環境を向上させるために、自分に何ができるかを考える」。
1963年、時の高等弁務官ポール・キャラウェイの発言が激震を呼び起こす。
「現時点において〔沖縄の〕自治は神話である、自治は存在していない」。
衝撃のスピーチが放たれたのは、「米留組」の親睦団体「金門クラブ」の席上なのだが、ところでその発起人にして当時会長を務めていたのは、誰あろう、川平朝清だった。売国奴との集中砲火のその渦中、彼はこう反論した。
「私たちは、英語という言語能力を使って、琉球人を代表して発言することを決して忘れません。同時に、私たちは、アメリカの政権や政策の良いところを、公正且つ適切に表現できるだけの自信を持つべきです」(山里絹子『「米留組」と沖縄』よりの引用)。
いみじくも本書は、放送人の手によって、すなわち、憲法に刻まれた表現の自由によってその存在を要請された彼らによって、著された。
鬼畜米英と洗脳されて育ったはずの朝清は、彼らと触れ合いたちまちにして「あのイメージが、ガラッと変わりましたね。/……瞬時に変わるんですよ。だって、対応が実に紳士的というかね」。
太平洋戦争の唯一、日本における地上戦の舞台となった沖縄を「国破れて山河も残らな」いほどに焼き尽くした無慈悲なアメリカは、しかし「紳士的な」リベラリスト、ニューディーラーによる日本国憲法をその地に残していった。その中には、ファウンディング・ファーザーズの筆頭、言論人トマス・ジェファソン肝煎りの表現の自由も含まれていた。しかし、第二次世界大戦の後に生まれた幸福なユートピアの時間はそう長くは続かなかった。まもなく、冷戦とマッカーシズムの狂気の中で、アメリカはハンドリングが容易というだけで各地に強権的な傀儡政権を立てては安寧な暮らしを完膚なきまでに打ち砕き、極めて正当にも市民たちからの憎悪を買い、ところが彼らはその度、一向に恭順が示されぬことに深く頭を悩ませる。なぜ日本のように統治が捗らないのだろう、と。答えは簡単、「紳士的」でないから、である、「銃剣とブルドーザー」をためらいなく繰り出せるような連中だから、である。「紳士的」であることをやめた彼らのどこに「政権や政策の良いところ」を見出すことができるだろう、「公正且つ適切に表現」すべき何かを見出すことができるだろう。
川平朝清の歴史とはすなわち、アメリカの変質の歴史でもある。
そんな彼が問いかける。
「日本が本当に主権国家であるかを、皆さんにもう一度考えてもらいたい。つまり、主権国家ではありません、ということです」。








