誰がために医師はいる

 

鼓動が止まるとき

鼓動が止まるとき

 

 ウッディ・アレンは「脳は二番目に好きな臓器だ」と言った。私は心臓に同じ愛着を感じている。まず、見ていて楽しい。そして、私は、それを眺め、停止させ、治して、再始動するのが好きだ。ボンネットの下にもぐって車を修理する整備工のように。私がようやく心臓の仕組みを理解するようになると、後の知識は自然と身についてきた。何しろ、若き日の私はアーティストだった。今は、絵筆をメスに持ち替えて人の肉体をキャンバスに見立てている。仕事というより趣味。作業というより楽しみ。そして、私はそれが得意だった。

 私のキャリアはおよそ普通でない変遷をたどった。物静かな学生から外向的な医学生へ。冷徹で野心的な若手医師から内向的な外科の開拓者へ。やがて、人に教える立場にもなった。ここまでの人生を通じて、私は心臓手術の何がそれほど魅力的なのかと人から何度も聞かれてきた。本書からその答えを読み取っていただけたらと思う。

 

 どこぞのドラマでもあるまいに、「私、失敗しないので」とはいかない。いかにも邦訳副題が示唆する通り、本書が拾うエピソードは必ずしもハッピー・エンド一色に彩られているわけではない。時に筆者に持ち込まれるのは、他の医師が匙を投げるような、つまりは、早晩の死が半ば約束された患者。同時代のスタンダードな医療では解決法を見出せない、しかし筆者はそこで「あきらめなかった」。既存の術式で至らなければ、新たな手段を講じればいい、そして時にエウレカの瞬間が訪れる。

 例えば患者ステファンは10歳の少年、「弁の閉鎖不全を伴う、末期の心筋疾患だった。従来的ないかなる心臓手術を試みても、少年にとどめを刺す結果に終わるだろう」。当時最先端の人工心臓をもってしても一時しのぎにしかならなかった。衰弱が進む中で一縷の望みは「ドミノ心臓」、つまり移植によって不要になった他の患者の心臓を譲り受けてステファンに移し替えるというもの。そしていざ、迫真の手術シーン描写に入る。

 

 午前915分、多数の氷嚢といっしょに箱に入れられた心臓が到着した。私たちは箱を専用の台に置くと、氷嚢を一つずつ注意深く取り出し、最後にドナー心臓をステンレスの皿に置いた。それは4度の生理食塩水の中で柔らかく冷たそうに見えた。肉屋の作業台に置かれたヒツジの心臓のようだ。しかし、私たちはそれを蘇生させる方法を知っているし、それが再び拍動してやるべき仕事をしてくれることに絶対の自信を持っていた。……

 ステファンの心臓は最後にもう一度空にされ、心膜の中で完全に役目を失ってだらりとしている。マルク[助手]はドナー心臓のトリミングに取りかかり、私は四本のプラスチックカニューレを切り取る作業を行った。カツマタ[助手、本書の監修者]がカニューレを彼の体から引っ張り出して捨てた。次は、ステファンの哀れな心臓を切除して新しい心臓を受け入れる準備だ。心臓を切り取ると、空の心嚢が残された。空っぽの心臓。興味深い眺めである。……

 ドナーの心臓は厳密に順序どおりに移植され、歪みなく正確に配置するよう慎重に調整された。当たり前のことのように聞こえるかもしれないが、ドナーの心臓は滑りやすく、湿っていて、目指す位置で保持することは容易ではない。……

 心臓移植はかなりシンプルな手術である。ドナーとレシピエントの心房組織をそれぞれ十分な厚さで深く重ねて隙間ができないように細心の注意を払って縫合していく。心房と大動脈を縫い合わせたら、大動脈の遮断を解除できる。これにより「虚血」時間が終了する。これは、ドナーから切除して以降冠状動脈の血流がない、生死にかかわる重大な時間帯である。……

 幸いこの心臓はステファンにとってどこをとっても完全に見えた。血液が冠状動脈を勢いよく流れて心筋を蘇らせた。しおれて薄茶色だった心筋は紫に近い色に変わり、ピンと張って細かく震えはじめた。心臓の回復過程が始まったので、切断された肺動脈間の最後の接合部を縫い合わせ、さらに入念に気泡を取り除いた。脳に空気が入ったらたいへんだ。

 マルクの提案で、ステファンの新しい優秀な心臓を人工心肺装置で一時間休ませることにした。……細動は自然と止み、血液を駆出し、時間とともに強さを増した。やがて人工心肺装置も容易に外すことができた。

 

 そして、本書は臨床をめぐるもうひとつの側面を伝える。手術中の筆者が不意にブリティッシュ・ジョークをねじ込む。

「『携帯のアドレス帳からドイツ人をすべて削除したんだ』。ここで一呼吸。『今は、ハンス・フリーってわけさ』」

 めげずにさらに重ねる。

「『ヒッポ(かば)とジッポの違いは何だと思う? ヒッポはすごく重くて、ジッポはライター(少し軽め)だよね』

 またしてもすべった」。

 人間はかくあれかしと願うほどに、ストイシズムに自らを晒し続けることなどできない。患者の死の度に打ちひしがれ、立ち止まることなど許されない、次なる患者が待っているのだから。現に「ストレスを感じている外科医は仕事をうまくこなせない[。]……ストレスは判断力を低下させ、手を震わせる。事実、ストレスは私の仕事にとって致命的だ」。

 皮肉にも、社会的使命感云々のお題目を唱える医師と、「仕事というより趣味。作業というより楽しみ」と言ってのける医師を比較すれば、概して後者の方が未知なる成果をひねり出してみせる、それはまさしく他の業種と同様に。病院の理事会や保険システムに抗ってまで、所詮言わされているに過ぎない意識高い系が自らの信念を貫き通す場面など、リアルではまずもってお目にかかれやしない。「私、失敗しないので」が仮に現実にいたとして、それはノー・リスクを選り好んで、その外側の患者を文字通り見殺しにした結果でしかない。

 

 もっとも、単に好きというだけでは、筆者のスキルは説明されない。

「手術のスピードを上げるには何が必要だろう? それは性急さでも手の動きの速さでもない。実際にはそれとは正反対だ。整然と執り行い、不必要なことはせず、一針も省略せずかつ反復を要さずに縫合を行う。つまり、人が『手術が速い外科医』と言うとき、動きの速さではなく、脳と指先の接続がポイントになる。それは生まれもった資質であり、どれだけ練習を積んでも手に入らないものなのだ」。

 どれほどまでにフットボールを愛そうとも、その熱意だけでディエゴ・マラドーナの左足に似せることなどできないように、誰しもが神の手にたどり着けるわけではない、その誇りが筆者を支える。

 能力を持った者には、それを正しく行使する責務がある。

 

 誰がために医師はいる。

 筆者ならば躊躇なく答えるだろう、まず自分のため、その限りなき好奇心を通じて培われた技術をもってはじめて、患者への応答責任は生まれる。

Red Is the Old Black

 

 

 赤毛は昔から“異分子”と見られてきたが、興味深くも不可思議なことに、それは白い肌をした異分子なのである。……人々はいまだに、赤毛に対する偏見は言葉や態度で表す――それが肌の色や、宗教や、性的指向の話なら、もはや支持しようとか公言しようとは夢にも思わないであろう、配慮に欠けた考えを。……つまり、男性の赤毛は悪に通じ、女性の赤毛は善に――というか、少なくとも性的魅力に――通じる。……

 いまも昔も、赤毛にこういうことは付き物だ。赤毛の存在、そして赤毛に対する態度――文化的類型化、文化的慣習、文化的発達――は、歴史上のある時代・ある文明から、別の時代・文明へと、ときに思いもかけない形で、多くの場合あらゆる理屈と常識をも無視してつながっている。2000年以上前のアテナイで見られた赤毛トラキア人奴隷の影響から調べはじめて、ファストフード・チェーンのキャラクター、ドナルド・マクドナルドに行き着く。隔離集団における潜性遺伝の特徴と遺伝的浮動について調べていき、ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』の“野人”で終止符を打つ。絵画に描写されたマグダラのマリアを追っていくと、いつしかドラマ『マッドメン』の女優クリスティーナ・ヘンドリックスにたどり着いている。

 

 本書を手に取りめくってみると、まずはカラフルな口絵の数々全33点が待ち受ける。その中にあっても一際目を引くエドガー・ドガ《髪結い》をはじめ、赤毛をめぐるのどかな表象史で本書を彩ることができたなら、どんなに幸福だっただろう。

 DNAのスキャニングによる限り、赤毛――そしてほとんどの場合、同時に白い肌とそばかすを伴う――をもたらす劣性遺伝子が人類に発現したのは、今日多く観察されるスコットランドアイルランドではなく、アフリカからの北上を目指し中東に至るまでのどこかの地点。爾来、いかにも見た目に特徴的なこの性質は、単に髪のカラー・バリエーションの一角という以上の地位を割り振られずにはいない。例えばポンペイフレスコ画に描かれるのは、「ただの赤褐色の髪をした女性ではなく、カエサルの愛人であり、アントニウスの恋人であり、王国を危機に陥れ、征服よりも死を選んだクレオパトラ――赤毛の典型として本書でも繰り返し言及する、魅惑的、官能的、衝動的、情熱的で、燃えるような赤い髪をした男たらし――なのである。彼女の髪が赤色に見えるのは、私たちがそう見たいからだ。赤ほど似つかわしい色がほかにあるだろうか?」

 本書を読む者ならば、誰しもがただちに気づくことだろう。例えば淫乱、例えば野蛮人、例えば道化、ルッキズムの権化としての「赤毛」が、限りなくステレオタイプとしての黒人論と図らずとも通じていくそのさまに。ただし同時にややこしくも、そこには合わさるのはほとんどの場合、白い肌。

 そうしたねじれは、英国王室における赤毛の出現をもっていよいよその頂を極める。時は16世紀、女王エリザベス1世は赤い髪と白い肌をもって自らをブランディングしてみせた。奇しくもイングランドのフラッグと同じこのカラーリングが、宮廷周辺で大流行を見せる。男は髭を、女は毛髪をこぞって赤く色づけた。染料はルバーブのような天然素材、もしくは硫酸。肌に至っては鉛白、副作用は当然に鉛中毒。

 ある調査によれば、「実際の人口に占める割合はわずか(ゆえに注目に値する)2~6%あたりだというのに、赤毛のキャラクターを使ったテレビ・コマーシャルが全体3分の1にものぼる」。ジュリアン・ムーアも赤い、マイケル・ファスベンダーも赤い、そしてベネディクト・カンバーバッチはキモい、じゃなかった、赤い。

 さりとてこれらを根拠に、ルッキズムから羨望の対象へ、という物語を描き出すには、まだあまりに遠すぎる。今もなお、赤毛をいじられ自殺へと追い詰められるティーンだっている。ジンジャーイズムが決して消えたわけではない。だとしても、もし仮に旧来からの変化が認められるとすれば、「赤毛の人たちはどんどん共同体を形成しつつある」こと、共に手を取り、「ステレオタイプをまずは把握する。そのマイナスの面を否認する。それらに戦いを挑む。……自分のイメージとして気に入っている面は受け入れ、それを利用して前向きで希望の持てる何かを作り出す」、そんなプロセスを知ったこと。

 オランダ、ブレダで開催される世界最大の赤毛フェス、その地を訪れた筆者は知る、「赤毛の人はどこを居場所と感じるのか? あれほどさまざまな場所を起源と言えるなら、故郷はどこなのか? その答えは見つかった――まさにここだ」。

「故郷」という安全基地を持たずして、人は闘うことなどできない。

 

「壮大なお芝居」

 

 幣原喜重郎は、評価の相半ばする外交官・政治家ではなかろうか。「協調外交」の推進者だったのか、「弱腰外交」を展開したに過ぎなかったのか、あるいは日本国憲法「第九条」の発案者なのか否かといった具合に、戦前・戦後双方で幣原に対する評価は分かれている。「善玉」「悪玉」とでもいうべき二分法的な理解の間で揺れ動く、論争的な存在でもある。

 本書では、そうした状況をいったん脇において、組織人としての等身大の幣原を描こうと試みた。選民たるエリートではあるが、彼とて戦前・戦後のさまざまな局面で多くの苦悩を重ねたに相違ない。ならば、そこに寄り添った幣原像を描出しようというのが執筆を通じての一貫した立ち位置だった。

 それゆえ、「幣原外交」という既存の枠組みや通説めいた評価、「現実主義」「理想主義」といった概念をア・プリオリに措定して、そこに彼の思想や行動を当てはめることは控えた。レッテル貼りというべきそうした手法は、歴史研究としてはほとんど無意味に思われる。そうではなく、「外務省記録」を紐解き、意思決定過程や文書回付状況を一つひとつ丹念に追うことによって、組織のなかで奮闘する幣原の姿を丁寧にあぶり出したいと考えたのである。

 

 旧来の幣原をめぐる評といえば、例えば小村寿太郎の正統後継者、すなわち、ポーツマス条約をもって「軟弱外交」と国民的な憤怒を誘い、遂には日比谷公園を炎上させるに至った。あるいはヘンリー・デニソンの愛弟子、注ぎ込まれたその外交のエッセンスをやがてワシントン会議をもって結実させた国際協調主義の先駆者。そして、その理念ゆえ、宮家の東久邇終戦管理内閣の後任として首相を委ねられ、新憲法に携わる。

 本書における議論は、これらの側面を何ら否定するものではない。ただし、早々にそうしたパブリック・イメージを揺るがすような「はなはだ乱暴な話」が披露される。

 日露戦争の開戦を釜山の地で迎えた幣原は、その優位を確定させた奇襲攻撃の成功に実は一役買っていた。当時、ロシアが朝鮮半島の情報を本国へと送信するためには、日本の管理下に置かれた電信を用いる他に手段を持たなかった。日本海軍がロシア商船を拿捕したとの報を受けて、幣原は一計を講じる。電信をただちに遮断して、結果、ニュースの本国到着を遅延させることに成功した。かくして「ロシア政府は、開戦機運の高まりを察知する機を逸」した。

 

 張作霖爆殺事件を引き起こした田中義一を批判してはいるものの、いみじくも西園寺公望が喝破した通り、実は「幣原外交」もまた、通説とは裏腹に、優れて近似的な性質を秘めていたことが指摘される。本書でしばしば「対英米協調」なる語が呼び出される。そのアクセントはあくまで英米にある、必ずしも国際フレームを前提とはしない。この一語をもって、例えば満蒙権益の確保を腐心する幣原の――というよりは当時の外務省、もしくは政府の――スタンスを見事に凝縮させてみせる。

 だとすれば、幣原の指揮下で中国の「革命外交」との衝突が引き起こされたのは、歴史の必然だったのかもしれない。彼にしてみれば、「もし自己の本意でなかったとの理由で、すでに調印も批准も終了した条約を無効とすることが認められるならば、世界の平和、安定はいかにして保障し得られるか」。そして気づけば、「条約の神聖」を蹂躙する中国や列強による「日本包囲網」は見事形成されていた。幣原や重光葵が諦念の中に見出すせめてもの着地といえば、両国の関係が「堅実に行き詰まる」こと、そしてその妥協点さえも柳条湖をもって決壊する。

 そしてその苦境にあって、外相である「欧米派の幣原は、亜細亜派である谷[正之]の政策に同調し、リーダーシップを十全に発揮しなかった。換言すれば、亜細亜派と欧米派の両政策派閥間の懸隔はこのときある程度解消され、従来ほど鋭く対立しなくなっていた。なぜなら、幣原自身『満鉄第一主義』を掲げ、満蒙権益の確保を政策課題の第一に掲げていたからである」。かくして国際連盟における協議もまた、「堅実に行き詰ま」った。

 

 政治の表舞台からは一度姿を消した幣原が、戦後にあって「最後のご奉公」に担ぎ出される。「幣原内閣の使命は、GHQとの折衝を通じて占領政策を遂行し、民主国家として再生するための基盤を整備することだった」。とはいえ、「実のところ幣原自身、憲法改正の必要性を感じていなかった」。GHQによって提示された憲法試案に対しても、例の「ジープ・ウェイ・レター」が示すように極めて後ろ向きだった。かの戦力不保持を訴えたと目される男が、である。

 かくして幣原の多面性を訴え続けた本書最大の山場を迎える。221日の首相‐元帥会談を境に幣原は「憲法第九条の『発案者』となった。発案者は自分だと唱え続け、それを墓場までもっていくことを決意した幣原は、壮大な芝居を打つことになったとはいえまいか」。

 筆者は「壮大な芝居」を云う、そして現実にはそのような「芝居」が演じられていない、だからこそ、今日に至るまでのもはや決着しようもない論争を誘う。

 ふと本書序盤の記述が頭をよぎる。

 デニソンとの間でのあまりに有名なエピソード。氏の手による「日論戦争勃発の直前、開戦回避を目的とした日露談判の訓令電報の草稿」を目にした幣原は、外交文書のバイブルとたちまち魅せられ、譲ってくれるよう懇願した。「請われたデニソンはそれを手に取ってしばし見返していたが、やおら立ち上がるとストーブの前まで歩み寄り、突然その綴りをストーブに放り込んでしまった。/……驚いた幣原が、燃やすくらいなら自分に譲ってくれてもいいではないかと詰め寄ると、デニソンは諭すように答えたという。/日露談判はその結果がよくも悪くも小村外相の責任でなされたもので、自分はあくまで速記者として関わっただけである。だが、あなたがこの書類を持っていると、日露談判の電報を作成したのは実はデニソンだと周囲に話すだろう。それは困る。そういう記録を残すべきではないと判断し、焼却したまでである」。

 記録を残すことの重要性、記録を残さないことの重要性、そんなことを本書に学ぶ。

「柔弱は生路なり、強硬は死路なり」

 

 新憲法制定の経緯については、当初から大きな謎がある。最大の疑問は第9条の戦争放棄条項が設けられた事情だろう。

 ダグラス・マッカーサー最高司令官が率いる連合国総司令部(GHQ)が持ち出して起草を命じた「押しつけ」なのか、それとも日本側の発案なのか。GHQの「押しつけ」であるなら、幣原氏は「日本国憲法をつくった男」というよりも「日本国憲法をつくらされた男」ということになる。

 謎は70年が過ぎた今も解明されたとはいえないが、一つだけはっきりしているのは、この問題の鍵を幣原氏が握っているという事実である。

 

 194510月、マッカーサー内閣総理大臣就任後間もない幣原と面会を果たし、その場で「婦人参政権の実現、労働組合の結成奨励、教育の自由化、秘密警察等の廃止、経済の民主主義化」という5つの改革を指示する。この段階ではまだ軍備の不保持、交戦権の否認への言及は見られないことは確認できる。

 その原則が現れるには年をまたがねばならない。改憲にあたって書き込まれるべき必然については既に周知のところ、極東委員会の介入を前に、平和主義をトレード・オフに天皇制維持の既成事実化が急がれた。ターニング・ポイントとなるのは1月に持たれた元帥‐首相会談の席上、この点も明白、しかし両者のいずれが口火を切ったかとなると、これが杳として判然としない。

 一方のマッカーサーは男爵亡き後、米国議会の公聴会で幣原の発案であることを明言している。といって、それを裏づける会談の議事録が残されているわけではない。この突然の証言は日本側にしてみれば寝耳に水で、時の外相・吉田茂をはじめ、閣僚は軒並みGHQ説を唱える。朝鮮戦争に日本軍を動員できないのは憲法9条の障壁による、そう咎められたマッカーサーが苦し紛れに責任をなすりつけただけ、との説には一定の説得力も認められる。

 対して、傍証と言えばややことばが過ぎるだろうか、しかしいずれにせよ、本書はこの「日本国憲法成立をめぐる最大の謎」の鍵を外交官・幣原喜重郎のキャリアに求める。

 

 エマヌエル・カントやバートランド・ラッセルといった仰々しい名を引かずとも、軍縮や不戦をめぐる問題意識は、とりわけ第一次世界大戦を受けて、世界の外交官、政治家には広く共有されていた。事実として、1928年には武力ではなく折衝に基づく解決を志向する不戦条約、いわゆるケロッグブリアン条約は日本を含む主要先進国によって締結されていた。そして当の幣原自身も、ワシントン会議における海軍軍縮の合意締結に一役買い、既に国際的な知名度を確立していた。

 しかし、その協調主義的な姿勢は時に国内では「軟弱外交」との酷評を受ける。やがて軍部の台頭にあって、一度幣原は表舞台からの退場を余儀なくされる。そうして戦後復活を果たした老翁が、一連の意趣を返すべく、忸怩たる思いを晴らすべく、戦争ではなく交渉という先見性を明かすべく、軍事力の抑制を新憲法の条項に書き込んだとして、なるほど何の不思議があるだろう。

 他方で、終盤に至る本書の語り口はやはり、天皇を人質に断腸の思いで新憲法案を呑まされた、との有力説にいかにも根拠を与えるものとも見える。そこに次なるミステリーが残される。すなわち、これほどまでにデモクラシーの風を受けた先進的な外交スペシャリストをして、天皇制の護持に固執させたものとは何か。「大権」を剥奪され、「象徴」へと帰してなお、天皇天皇たらしめるものとは何か。所詮は「機関」でしかあれなかった存在に幣原が見たものとは何か。

 仮にもし「つくった」のではなく、「つくらされた」のだとすれば――さて憲法の第1章は、何にあてがわれているだろう。

 

 この高貴なる指導者の言を引くことで結びに代える。

「今日の時勢になほ国際関係を律する一つの原則として、或る範囲の武力制裁を合理化、合法化せんとするが如きは、過去に於ける幾多の失敗を繰り返す所以であって、最早我が国の学ぶべきところではない。文明と戦争とは結局両立し得ないものである。文明が速かに戦争を全滅しなければ、戦争が先づ文明を全滅することになるであらう。私は斯様な信念をもつてこの憲法改正案の議に与つたのである」。

1Q95

 

 被害と加害に対する社会の眼差しはオウム事件によって大きく転回し、高揚した被害者意識はその後の刑事裁判に影響を与えただけではなく、北朝鮮による拉致問題など多くの社会的イシューに対しても強い後遺症を及ぼしている。

 (中略)一審だけで終わった麻原法廷が、裁判が被告人を死刑に処すためのセレモニーと化す前例となったことは確かだ。

 相模原事件とその法廷は、この延長にある。植松聖の一審判決公判が近づいていくつかのメディアから提供された資料などを読みながら(タイミングが遅すぎると自分でも思うが)、麻原判決公判と同じ気配を僕は感じた。もちろん事件の詳細はまったく違う。社会やメディアの反応も比べられない。

 でも(特に法廷においては)何かが共通している。同じ何かがどこかで駆動している。しっかりと検証して歴史の教訓として獲得できていないからこそ、社会は同じ過ちをくりかえす。

 ……そう思ったからこそ、僕は植松への面会を決意したのだ。

 

 惨劇は障害者施設で起きた。その数か月前、衆議院議長にあてた例の手紙の中でも、「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」と彼は謳った。程なく勤務歴も明らかにされた。それら情報に接した誰しもが、障害者が障害者であるがゆえに狙われた凶行とみなしたことだろう。しかし、公判や接見の場において彼は度々、障害の有無ならざるとある「区別」に基づく標的の選定、もしくは安楽死の推奨を訴えていた。

 それはただ一点、「意思疎通」が取れるか、取れないか、だった。

 そうしたことばが細々と漏れ出す頃には、とうに世間におけるニュースの賞味期限など過ぎていた。なるほど筆者は「遅すぎ」た、ただしそれゆえ見える光景があった。

 

2020年の67日か97日」、日本が滅びる、彼は法廷でそう予言した。ソースは『闇金ウシジマくん』の最終巻とのこと、筆者は律儀に取り寄せる。「日本に大地震が起きる、横浜に核兵器が落ちる、日本が終わる、多くの人が死ぬ、そんな記述や要素はどこにもない」。

 初公判の際のこと、彼は右手小指の第二関節に歯を立てた。未遂に終わった翌朝のこと、彼は独房で第一関節を嚙みちぎった。心神耗弱を装うためのパフォーマンスならば、衆人環視の裁判所でのみ行えばいい。その推察の的外れを裏づけるように、彼は責任能力の減免を求める弁護方針には一貫して反発し続けていた。「もしもあなたの友人が、あなたに謝罪するためと言って小指をいきなり噛みちぎったなら、とりあえずは傷を気にしながらも、その過剰さと精神の傾斜の激しさにあなたは言葉を失うはずだ」。

 神奈川新聞はこう伝えた(以下、本書よりの重引)。

「植松に自身を『選ばれし者』と曲解させ、襲撃を決意させた〔イルミナティ〕カードの数字がある。『13013』だ。

『13』『0』『13』と分割すると、『B』『O』『B』と読み取れる。イラストのパイプをくわえた男が『BOB(ボブ)』。『伝説の指導者』という設定だ。

 植松はこの5桁を逆さから『3』『10』『31』と切り取り、『31』は加算して『4』と解読。語呂合わせで『さ』『と』『し』、つまり『聖』に結びつけ、自らをボブと重ね合わせた。事件半年ほど前から、『自分は救世主』『革命を起こす』と周囲に触れ回り始める」。

 読むだにつらい。少なくとも私は、彼との間に「意思疎通」を通わせる自信はない。

 一方、司法は判決の場で断言した。

「病的な異常さはうかがわれず、能動性が逸脱した状態ではなかったものと認められる」。

 そして筆者は、「本気ですかと言いたくなる。植松にではない。青沼裁判長に対してだ」。

 

 陰謀論や優生思想への傾倒といい、彼がまき散らした単純化への誘惑は数知れない。彼が凶行へと至った真相は、多くの人々が想像するだろう通りのものをおそらくは超えない。筆者や記者が目撃したように、彼は「浅い」。「浅い」世界にお似合いの、「浅い」シリアル・キラー、それ以上の何かはたぶん出てきやしない。

 だが、それにしても、この法廷は異質だった。裁判員制度の導入を受けての迅速な決定を優先した末、類を見ない同時殺人に対して審理に割かれた期間はわずか1か月強、開かれた公判回数はたったの16。重大事件の被告人をめぐって、かつてならば問われていただろう成育歴のヒアリングはほぼ省略され、精神鑑定もごく軽々に処理された。かくしてこの「死刑にするためのセレモニー」の末、その通りの判決が下り、控訴もなされず、彼はいずれ拘置所で絞首台の日を迎える。

 公開法廷でのやり取りは極めて簡素に済まされた。結審した段階で以後の面会は遮断され、従って、確定囚からインタビューを採取することは事実上できない。彼の肉声を知る術は既に閉ざされた。

「大切なことは多面的に多重的に多層的に伝えること。早急に結論を出さずに悩むこと。だって世界は多面的で多重的で多層的なのだから」。

 かくして「大切なこと」が黙殺された、『A3』の麻原と同様に。

 

 無差別殺人を引き起こした、いわゆるローン・ウルフには概ねひとつの共通点が認められる、と犯罪学の界隈でしばしば語られる説がある。

 つまり、彼らは往々にして自殺願望が極めて強い。その鏡像的な裏返しとして、何らの関係も持たない赤の他人へと時に凶刃を向ける。

 そもそもにおいて「人は人を簡単に殺せない」、それはまず何よりも自分を含めて。そのリミッターを外させる説明関数として自殺において極めて強い相関が認められるのが、例えばうつ病統合失調症。だからこれらの診断持ちは、リスクの高さゆえ、生命保険への加入がほぼ認められない。さらに自殺そのものは、未遂を含めて、そもそも刑法上の規定を持たない、自殺幇助については条文が用意されているにもかかわらず。一般に言われる理由は、心神耗弱もしくは喪失を前提とした行為だから。ただし、その表裏としての殺人については、この法理は現状ほぼ適用されることがない。39条の争点として裁判所が耳を傾けるのは、専ら事理弁識能力の有無に限られる。

 そして、相模原に同じく鏡の反転を透かす。「意思疎通」の極めて難しい存在としての彼が、「意思疎通」を取れないと彼がみなした存在を抹殺していったのだとしたら――。

 

 本書終盤、記事の引用に添えて、興味深い指摘がなされる。

「そもそも新聞の場合、社説や論説委員の記事などは例外にして文章に『僕』や『私』など一人称単数の主語は使わないことが原則だ」。

 そしてペーストされた記者は、相模原の現地に踏み入ったその足跡を「私」として残した。

 森は言う。「結局のところ一人称単数の主語を書かない理由は、客観性や中立性を実現するためではなく、客観性や中立性があるかのように装うためだ」。

 私は思う。「意思疎通」のプラットフォーム共有を前提とした「客観性や中立性」が装いようもなくもはや成立しないからこそ、この記者は「私」という書き方をせざるを得なかったのだ、と。

 面白い指摘はさらに続く。

毎日新聞は、全国紙としては日本で最も早く(95年)、記事の署名化(バイライン)に踏み切っている(地方紙では十勝毎日新聞が半年早い)。署名化の意味とは何か。その記事は署名した記者の視点であることの宣言だ」。

 1995年。つまり阪神大震災の年、地下鉄サリン事件の年、そしてアニメ版『エヴァンゲリオン』の年。

 そして人々は今日もゼロ成長の世界の中で、四半世紀前のセカイ系の焼き直しを享受する。