「先生、部屋を整理していたら変わったものが出てきまして」
「埋蔵金でも出て来たかな」
ある意味では埋蔵金には違いない。もしくはガラクタかもしれないが。
「瞭司の……三ツ矢瞭司の研究ノートです」
小沼はわずかに顔をしかめた。6年も前に亡くなった教え子の名だ。(中略)
熊沢は紙袋から分厚い大学ノートを取り出した。300ページ以上に及ぶ冊子は、ちょっとした辞典ほどの重量がある。(中略)表紙を開くと、記号と英単語でびっしりと埋めつくされたページが現れた。癖のある右上がりの字体。余白にまでメモや走り書きがあふれ、手垢やインクでところどころ汚れている。(中略)
〈以下にコラッツ予想の肯定的証明を示す〉
小沼は身を乗り出し、食い入るようにノートを見つめた。そこに記述された記号は、ほとんどが現代数学に存在しないものだった。未知の言語で記されたノートをたっぷりと凝視し、やがて小沼は顔を上げた。(中略)
熊沢はこの一文を最初に読んだ瞬間を、鮮明に記憶している。部屋の整理中に発見したノートを開くと、最初に飛びこんできたのがその一文だった。証明の意味がわからないにもかかわらず、それが誤りではないと直感した。(中略)
コラッツ予想は名高い未解決問題のひとつである。1930年代にドイツの数学者コラッツが提示した問題で、数学を研究したことがある者なら誰もが耳にしたことのある難問。問題そのものは子どもでも理解できるほど平易だが、いまだ証明の手がかりすら見いだされていない。(中略)
「証明に間違いはないと思います」
「根拠は?」
数学的な裏付けなどない。根拠と呼べるものはひとつだけだ。
「これを書いたのが、三ツ矢瞭司だからです」(中略)
これまでに、熊沢はおびただしい数の天才たちと会ってきた。アメリカ時代には目がくらむような才能たちと交流し、帰国してからも日本が誇る頭脳と呼ばれる人々と出会った。それでも、瞭司以上に〈数覚〉に恵まれ、明確に数の世界を見ることができた人間はいない。いつかマスメディアが名付けた〈21世紀のガロア〉というレッテルは、決して過剰な誉め言葉ではなかった。
瞭司は普通の天才とは違う。数理の子とでも呼ぶべき存在だった。
〈数覚〉と呼ばれる概念がある、という。その提唱者であるフィールズ賞受賞者小平邦彦が言うことには、「数学が分かるとは、その数学的現象を『見る』ことである。『見る』とは或る種の感覚によって知覚することであり、私はこれを数覚と呼ぶ」。
それをどう呼称するかはともかくも、フィクションとノンフィクションとを問わず、この〈数覚〉というミステリーはあまたの作り手たちの想像力をかき立ててきた。
例えばグレゴリー・ペレルマンをめぐるマーシャ・ガッセン『完全なる証明』、ポール・ホフマン『放浪の天才数学者エルデシュ』、あるいはジョン・ナッシュの伝記的映画『ビューティフル・マインド』、アラン・チューリングについての『イミテーション・ゲーム』、たぶん小川洋子『博士の愛した数式』もこうした列に付け加えるべき作品なのだろう。
そんな彼らにはある種の共通点が観察される、つまり、〈数覚〉と引き換えに世に社会性と呼ばれるような何かをトレード・オフさせている、としか思えない、という。
彼らの業績をいくら列挙されたところで、世の中にはそれが何を指しているのかすらも杳として知れない、知るつもりもない、ただし、アネクドートの数々をいじり倒して物笑いの種にするくらいのことは誰にでもできる。それはちょうど藤井聡太の棋譜を他の指し手と識別することなどできない大衆が、天才という響きとお食事情報だけをひたすらに貪っていくのと限りなく同じ仕方で。そうして彼らはひたすら消費されてきた。
こうした〈数覚〉にまつわる物語をたどるとき、ひとつの原型とでも呼べる人物の存在に必ずやぶち当たることとなる。
その名をシュリニヴァーサ・ラマヌジャンという。
インドの上位カーストに生まれ落ちはしたものの、決して英才教育を施されたわけではない。栴檀は双葉より芳しと幼き日からその非凡な才を周囲に見せつけてきたわけでもない。
彼を数学の道へと導いたのは、受験のためにたまたま出会ったたった一冊のテキスト。どうやらそこを糸口に彼は〈数覚〉とつながる。一度インスピレーションを触発された彼は、夢の中、流星が降り注ぐがごとくに次から次へと定理が舞い降りるさまを我が身を任せ、そして目覚めるや否や、そのお告げを紙に書きつけたという。
ところで彼にはひとつ極めて特異な点があった。それらの証明という作業にとんと関心を示さなかったのである。
しかし幸運にもラマヌジャンには、ゴッドフリー・ハーディという、自身をインドからケンブリッジへと引き上げた恩師であり理解者があった。弟子のメモ書きを受けて師が検証作業にあたる、彼にはそんな幸福な協働関係があった。
対して本書の主人公、三ツ矢瞭司はあるときを境にそれを失う、パートナーがひとりまたひとりと脱落し、そして誰もいなくなった。
瞭司にとってのハーディが去った研究室で、その後任教授は彼に告げた。
「きみには経過を飛ばして、いきなり結論に至る癖がある。まるで予言者だ。実際、高等な知性は予言に近い。しかし、その予言が正しいことをどうやって他人に説明する? それができない限り、その理論は憶測でしかない。答えを言うだけなら誰だってできる」。
ある時期までの瞭司は「予言者」でもよかった、誰かしらがそれを補完してくれたのだから。しかし、その誰かのロールを自らが担わねばならなくなった瞬間から彼の崩壊がはじまる。本書の構成によれば、彼は〈正しさ〉に追い詰められて身を滅ぼす。しかし真相は違うのかもしれない。才能の限界とやらに打ちのめされたでもない。〈正しさ〉を分かち合える誰かを失った瞬間に、孤独になった瞬間に、彼はクラッシュした、それは遍く凡人たちがさしたるインセンティヴを提示することもない薬物に手を伸ばすのと全く同じルートをなぞるように。
ハーディという僥倖に恵まれたラマヌジャンですらも、宗主国から遠く故郷へのホームシックに駆られて、枯れるように若くしての夭逝を余儀なくされた。ましてや伴走者もライバルも失った瞭司がアルコールに蝕まれて、半ば自殺のような孤独死に至るのは必然だった。
たぶん彼に未解決問題をめぐるノートを残させたのは、〈数覚〉のひとしずくではない。「今解けなくても、死ぬまでに解けばいい。自分に解けなければ、他の誰かが解けばいい。だから問題を解くことに挫折はない」、そんな「誰か」への希望を託した遺書だった。
セルフ・ネグレクトの淵にあって、オノレ・ド・バルザック『知られざる傑作』よろしく、その表記法は一見およそ理解しがたいものだった。「他の誰にも僕の風景は見えない」はずなのに、そうしたかたちでしか綴ることはできずとも、彼は「誰か」への手紙としてその証明を託さずにはいられなかった。何もかもがタッチパネルで置換可能な、世に飛び交うコミュニケーションのためのコミュニケーションというノイズとは違う、彼には数学の他に「誰か」と共有可能な言語はなかった。孤独の中でなお、「誰か」を渇望せずにおれない、その叫びをコラッツ予想の証明に結晶させた。
「理論は厳然と存在する。創造するのではなく、見出すのだ」。
今この瞬間にたとえ人間がこの宇宙から消滅しようと、それでも星々はケプラーの法則に従って回り続ける。人間が「創造」したかに思える虚数iは、その人間を失ってなお、量子力学の世界にはたと顔を覗かせることをやめない。
人間存在の有無を問わず、〈正しさ〉はそこに横たわるかに見える。然らば「見出」されるべき〈正しさ〉こそが数学の尺度である、とは件のG.H.ハーディは考えなかった。彼が言うことには、「絵描きや詩人のパターン同様、数学者のパターンも美しくなければならない。色や言葉のように、概念も調和をもって組み合わされらなくてはならないのだ。美こそが第一の評価基準である。この世界に、醜い数学の永住の地はない」。
以下に引用するのは、素数が無限にあることの証明である。
reserve n, p for Nat;
theorem Euclid: ex p st p isprime & p>n proof
set k=n!+1;
n!>0 by NEWTON:23;
then n!>0+1 by NAT1:38;then k>=1+1 by REAL1:55;
then consider p such that
A1: p is prime & p divided k by INT2:48;A2:p< >0& p>1 by A1,INT2: def5 ;take p;
thus p is prime by A1;
assume p< = n;
then p divides n! by A2, NATLAT:16;
then p divides 1 by A1, NAT1:57;
hence contradiction by A2, NAT1:54;
end;
theorem p:p is prime is infinite
from Unbounded(Euclid);
ちなみにこの書き手はAIである。どうやら背理法を使っているような気配はあるが、そんな知った風な口を利いても仕方ない、マーカス・デュ・ソートイに言わせれば、「わたしのようなプロの数学者が見ても、まったく意味不明! 人間が物語を語るときのやり方とまるで対応していない。ある意味で問題は、言語の壁だったのだ」。
数学において〈正しさ〉のみを突き詰めるならば、早晩人間はAIにその座を明け渡すことを余儀なくされることだろう、もしくは既にそうなっているのかもしれない。しかし彼はその見立てを完全に否定する、なぜならばAIは「美」を分かち合う「誰か」を持たないから。
こういってしまうと、数学者でない人のほとんどがショックを受けるかもしれないが、数学者も〔「バベルの図書館」のホルヘ・ルイス・〕ボルヘス同様、ストーリーテラーなのだ。その物語の登場人物は数であり、図形であり、それらの登場人物を巡って数学者が作り出す物語が証明なのだ。わたしたちはこれらの物語に対する自分の感情的な反応に基づいて選択を行い、どれが語るに足る物語なのかを判断する。(中略)
数学は創造されるのか、それとも発見されるのか。なぜ創造されると感じるのかというと、選択という要素が含まれているからだ。確かに、誰か他の人にも考えつけたかもしれない。でもそれは、エリオットの『荒地』やベートーベンの「大フーガ」についてもいえることだ。音の選び方はじつにたくさんあるが、ほかの人にもこれらの偉大な作品を作れたとはとうてい思えない。たいていの人が驚くのだが、数学のなかにも、それと同じくらい自由がある。