東京は夜の七時

 

 1949年の下山事件をイギリス人作家が取り上げる。といってまさか、アメリカの公文書館あたりから新たに超ド級の資料が掘り出されたわけではない。本書においても、あるものは国鉄総裁の職責の軋轢に耐えかねて、あるいは不義を理由としての自殺をもってその結論とする。またあるものは断固、他殺を主張する。もっともその中にあっても、真犯人をめぐる見立ては、正反対の様相を見せる。つまり一方はソ連による指令を受けてのアカ首謀説を云い、他方では、GHQによる暗殺説が唱えられる。無論、先行書籍の域を何らはみ出すものではない。

 筆者においても、すぐれてフィクショナルな一応の結論らしきものはほのめかされるが、しかし本書にあってこの事件は実のところマクガフィンに過ぎない。「解決の謎」へと飲み込まれた住人は、アウトサイダーと決して真相を共有し得ない。

 では何を書いているのか。

 

 便所を出て、廊下を引き返し、廊下のはずれの自分の事務所のほうに向かった。机の上の電話が鳴っているのが聞こえるが、足取りは早めなかった。事務所に入り、ドアを強く閉める、机の上の電話はまだ鳴っている。棚へ行き、引き出しを開ける、電話はまだ鳴っている。安物の中国酒の瓶を出し、引き出しをぴしゃりと閉める、電話はまだ鳴っている。瓶を持って机に戻り、椅子に戻る、電話はまだ鳴っている。机の椅子にどさりと座り、酒の瓶を机上の原稿用紙の束の上に置く、電話はまだ鳴っている。酒の瓶を見る、じっと見つめる、それから電話機を見て、また酒の瓶に目を戻る、と、そこで電話が鳴りやんだ。酒の瓶を取り上げ、栓をはずした。栓を置き、机の上の汚れた空のコップをとる。瓶をコップの上に持っていき、瓶を傾け、コップに酒を満たす。瓶を置き、コップを灯りにかざす、窓から射し入る灯りにかざす、川からの灯りにかざす、窓から射し入る灰色の湿った光にかざす、川からの灰色の湿った光が窓の雨粒にともる、光が窓をつたい落ちる、彼は酒を見た、コップの酒を見た、コップの中の濁った茶色い酒を見た、そして瞬きをした、彼は瞬きをした。

 

 この文章がいかにも象徴する、カットは細かく入れ替わる、といって物語内時間はさして流れやしない、情報量もそうは増えていかない。

 実にこの文体こそが、作品世界をあらわす。本書は三つの時間をクロスさせながら展開される、すなわち事件の発生した19497月のトーキョー、時効間近、オリンピック前夜の東京、そして昭和の火の消えかかる1988~89年の東京。あるときは、「アヴェニューAを走り、アヴェニューWに折れ、鉄道の高架をくぐり、呉服橋の交差点を過ぎ、八州ホテルを左手に見ながら白木屋のある角を左折し、日本橋を渡って川を越え、また左折をし、横丁に入り、今度は右折、また右折、それからまた横丁に折れる」。あるときは、「ガードの下をくぐり靖国通りを進み、交差点をいくつも越え、路面電車の線路の脇を歩き、神田須田町、小川町と過ぎ、さらに靖国通りをたどり、神保町に入」り、古本屋を物色した後、揚子江飯店で「五色涼拌麺、炒飯、餃子6個、グラス1杯のビール、老酒の小瓶を注文する」。そしてまたあるときは、京橋の明治屋で買ったアンズジャムをパンに塗りながら、窓下の旧岩崎邸、すなわちかつての本郷ハウスを眺める。

「別の時代というものはないのか、別の時間はないのか」。

 本書の主題は紛れもなくトーキョーである、文体と同じく、占領下から遅々として変わるところのない。