捕らぬ狸の皮算用

 

 県境は一見、空間と空間を分け隔てているだけのように見えるが、なぜそこに県境が引かれるようになったのかを考えると、たちまち時間を背負った存在にもなり、深い意味が出てくる。

 県境マニアは、県の境界線の、この線からそれぞれの県の広大な県土がはじまっていること、そしてその境界線の歴史、そこに関わる人々の営みに思いをはせ、ただの一筋の境界線を地理や歴史をも含めた、立体的な魅力を持った「境目」として見ている。(中略)

 境界マニアはそういった目に見えない物語を肌で感じるために、さまざまな境界線をめぐるのである。(中略)

 この本がきっかけとなり「境界線に興味がある」という人々が倍増……とまではいかなくても、「そういう趣味の人がこの世のなかにはいるのだな」と、認知されれば幸いである。

 

 江島大橋、今日ではいかにも画像映えするその急勾配から名づけられた「ベタ踏み坂」との愛称で広く知られる。中海に架かるこの橋も実は鳥取と島根の県境をまたいでいるという。知らなんだ。

 カリーニングラードケーニヒスベルク)のようなものばかりを想像してしまうが、日本国内にも探せば案外と飛び地というのはあるらしい。福岡県大牟田市の中には熊本県荒尾市の飛び地が複数にわたって点在するし、三重と奈良の境にはどうしたわけか和歌山県北山村が自治体丸ごと飛び地として横たわる。

 せせこましくもこういった事例を見るにつけどうにも気になってしまうのは、郵便配達やゴミの収集、水道整備といった自治体的な実務管理。例えば、京都と奈良にまたがるイオンモールの場合、所在地こそ京都府木津川市となってはいるものの、地方消費税は敷地面積比に従って分配され、事件が発生した際には、「認知したほうが応急措置を講じたのち、犯行現場を所轄する警察へ引き継ぐ」という申し合わせができている、という。

 

 もっとも今日にあっては、単にこうした制度運用のガイドラインや県境設定の経緯を知りたいだけならば、たぶん検索をかけることでだいたいの答えは引き出せてしまう、わざわざ現地へ足を運ばずとも。

 その上で、あえてその場に立ってみることで見えるものだってある。

 例えば東京都練馬区と埼玉県新座市の場合、こまめに立て看板などで知らせるまでもなく、道を見れば一目瞭然、アスファルトのクオリティでくっきりとシマが割れる。

 県境クエストのラスボス、「福島県の盲腸県境」を訪れる。飯豊連峰は新潟と山形を裂くように走る。ただし実は、その狭間をかき割るように福島県が横たわる。最も窄まったところではその幅わずか1.0メートル、25000分の1の縮尺では0.04ミリメートル、地図上にはその通りを印刷することすらかなわない。

 福島に帰属する飯豊山の頂ともなれば標高2105メートル、岩場でうっかり足を滑らせれば即死、その山道を踏破する、ただ単に県境を塗りつぶす、そのためだけに。

 

 東京都町田市と神奈川県相模原市の境を車で走る、「○○県に入りました」というカーナビのお知らせのためだけに。結果、4キロほどの間に11度のアナウンスを聞く。

 これに味を占めた筆者、さらなる県境ループの音MADを求めて、和歌山と奈良の境界をなぞるように引かれた高野龍神スカイラインを探し当てる。一説には、わずか数キロの間に24回の越境を果たすという。

 そしていざ走り出す、もちろん「県境案内」機能をONに設定して。――ところが一度として音声は流れてこない。

「もちろん、県境が見られたという満足感はある。神武東征や南朝といった吉野の歴史を感じさせる森厳な山並みを眺めつつ、県境、さらにいうと、紀伊国大和国の国境でもあった境界を見られたことは満足だ、それはそれでよい。

 しかし、カーナビの県境案内で、それを深く実感できなかったという肩透かしは非常にショックであった」。

 そんなもんだよね、人生って。