ブリックスアンドモルタル

 

『パラサイト 半地下の家族』の驚異的な成果は、優れた内的な成就があってこそ可能だった。2020年のとてつもなく大きな成功は、2000年の小さくて揺るぎない出発から始まり、歳月が流れる間に呼び寄せた共鳴だった。それは、突然訪れた例外的な幸運ではなく、絶え間なく立ち現れる限界を一つひとつ突破してきた後に実った果実だった。その間には『殺人の追憶』や『母なる証明』もあったし、『グエムル―漢江の怪物―』もあった。『スノーピアサー』や『Okja/オクジャ』もあったし、『ほえる犬は噛まない』もあった。好みは人それぞれ違うだろうが、この七編の中に平凡な作品は一つもない。ユーモアと哀愁と皮肉で煌めくポン・ジュノの世界は、私たちを虜にした。そうやって20年が過ぎる間、ポン・ジュノ監督の映画が公開されるたびに文章を書き、彼に会って話をすることができたのは、私にとって大きな幸運だった。

 

 2007年の対談の中で、筆者は既に指摘している。

「監督はありきたりのジャンルを新しく変奏することに、いつも興味を感じているようです。『殺人の追憶』は刑事のバディムービー、『グエムル』は怪獣映画のジャンルに属すると言えますね。……しかし両映画は該当ジャンルの慣習に従いながらも、同時にそれにひねりを加えたり逆らったりする要素や表現もまた、とても多いですよね? 『殺人の追憶』は刑事ものでありながら、事件が未解決のまま終わります。怪獣映画では、怪生命体の本格的な登場を最大限遅らせることで、緊張感やリズムを作っていくのが常です。一方『グエムル』は序盤から、それも昼間から怪獣が登場して走り回ります」。

 いかにも後の『パラサイト』を予告する。この映画の場合は、バレる? バレない? アウト? セーフ! のサスペンス・スリラー。そもそもなぜに彼らが紙一重を演じるか。万事が行き当たりばったりの、「無計画こそが計画」と言い張る他ない、綱渡りの日々を生きざるを得ない下層家族だから。そうした階級社会論が織り込まれることで、一介のジャンル・ムービーの枠が吹き飛ばされる。

 

母なる証明』のクライマックス、バスの車内で主人公の「ヘジャが踊りながら、ほかのおばさんたちの間に入っていく最後のショットでは、激しく揺れるカメラアングルと、沈みかけている夕日の強烈な赤い光のために、人物が区別されずに一つの塊に見え」る。そしてポン・ジュノが秘話を明かす。このシーンを成り立たせるには、「周辺にビルや山があってはいけません。西日がバスに差し込むには、道路は南北に延びていなければならない。撮影できる時間帯も限られていました。……角度を正確に合わせるには、一月初めに撮らなければならないという計算になりました。……本当に心配していました。日が沈むまでの20~30分の間に撮らないといけませんから」。

 このダンスにラスコーリニコフの接吻を想起するのは気のせいか。進行方向をクロスして、水平に大地に向かって開かれる。紅白の差異はあれども、このモチーフ、『スノーピアサー』に反復される。世界の秩序を表すような縦の規律に翻弄される物語の終わりにおいて、「それまで前だけを見ていたカーティスは、横を見ろと言うナムグン・ミンスの要求と、後ろを見ろと言うウィルフォードの要求の間で最後の選択をしなければならない」。そして彼は下を見る。「人類ではなく、人間を選ぶ。エンジンルームの下の狭い空間で惨めな仕事をしている少年たちを見たからだ」。そして横の扉を突き破った少年たちは、列車の外の雪の世界へと投げ出される。

 

 レビューをするのに困る、結構な頻度でそんな本に出会う。大半は単に毒にも薬にもならぬ引っかかりのなさゆえに、そして本書の場合は、その論のいちいちがあまりにももっともでありすぎるがゆえに。

 その観察が凡庸で表面的ということではない、どころか精緻に組み立てられた完成度の高さゆえに、これといって異議を差し挟む余地もなく、ページがひたすらに繰られていく。シーンの対応関係、過去作との比較、キャラクターの名前に籠められた意味、社会コンテクストの参照、そうしたトピックのいずれにおいても圧倒的な論理性が発揮される、そのプレーンさゆえ、まるで誰の手によっても一連の指摘はなされ得ただろうとの錯覚を抱かせるほどに。

 言い換えると、筆者の匂いがしない。もちろん、こんな戯言は限りなくいちゃもんに近い何かでしかない。

 ハイ・エンドな工業製品が差別化を喪失して規格品へと着地するあの感覚、過剰なウェル・メイドがもたらす摩擦のなさをまるで掣肘するかのように、本文は、筆者から未来への足跡について問われたポン・ジュノのこんな返答をもって締められる。

 

「あの人の映画は本当に変わっていた」、そんなコメントが一つあれば、満足すると思います。それが、芸術家たちが究極的に追求することではないでしょうか。その人でなければならない必然です。それがこの大量複製時代に唯一、芸術家が享受できる栄誉でしょう。「あの人の映画は本当に変わっていた」「あの人が死んだら二度とあんな映画を観ることができないだろう」、そんな足跡なら本当にうれしいと思います。