シビル・ウォー

 

 何か月ものあいだ、私の心は地獄に向かっていたが、それはすべて白人至上主義や彼らの文化、その動機を書き記すためだった。そうすることで、彼らから力を奪うことができるからだ。彼らが暗闇のなかで組織的に活動する力を奪い、彼ら自身が望む恐ろしい悪魔となって活動する力を奪うことができる。彼らの髪の毛をつかんで明るいところに引きずり出し、悲鳴を上げさせることができる。私が本書を書いた目的はそこにある。……本書は、私の一種の報復であり、完全とは言いがたいながらも、近年のレイシズムの動向を明らかにした本である。憎悪というものが、それを目にした者に対しても、それを作り出した者に対しても、どのような影響を与えるかを描いた物語でもある。読者のみなさんを戦いに駆り立てるための手引書にもなるだろう。あなたや私にとって、そして、憎悪という不快な毒気のない世界に生きるべき黒人、ムスリムユダヤ人、トランスジェンダー、褐色人種のすべての子どもたちにとって、よりよい世界をつくるためにも、戦わなければならない。このじっとりと腐ったような悪臭を漂わせるレイシズムを明るみに出し、粉々に砕いて、根絶しようではないか。

 

 ネオナチどもに言わせれば、筆者は「ユダヤ人で、デブで、あばずれ女」、しかし本書の舞台は専らウェブの中にある。その空間でならば、あるいは人は誰にでもなれる。

 あるときは、「強い男性がリードし、しとやかな女性が立派に役目を果たす」、そんな白人至上主義者向けのマッチンブ・アプリに忍び込んで、ブロンドのアイオワ娘アシュリンになりすます。そこでの設定は、「父親が白人至上主義にのめり込んでいて、熱心な娘であるアシュリンは、父の考えに賛同し、軽食レストランでウェイトレスととして働き、週末は鹿狩りを楽しんでいる」。

 またあるときは、インセルアメリカ版チー牛サイトの会員、トミー・オハラに。そこでのパーソナリティは、「自分の顔立ち(貧弱なあご、低い鼻、真ん中に寄った目)や身長(よくて170センチほど)や膿んだニキビにひどくこだわるようになり、恋愛の機会に恵まれないのを見た目のせいに」する、歴史学専攻のミソジニー全開陰キャ大学生。

 またあるときは、別のサイトで他なるトミーに変身する。「ウェストヴァージニア州モーガンタウンの落ちぶれた倉庫作業員。妻が家を出てから自暴自棄になり、白人ナショナリスト運動に加わることで、ようやく自分を取り戻した。運動に参加する同志を支援するためなら何でもするつもりだ」。

 

 正直なところ、かなりの終盤に至るまで、本書の意図を掴みかねていた。

 例えばアシュリンは、「レイシズムミソジニーと欲望がどんなふうに混じり合っているかを突き止める近道」として、アプローチしてきたメンバーたちにラヴレターを書かせてみる。曰く「世界はこの美しさ、僕たちの美しさを破壊しようとしている。世界は僕たち白人が消えてなくなること、白人の子孫が途絶えることを願っている。白人の憎み、嫌っている。……僕たちの手で、世界に対して意志の力を働かせて、世界をイメージ通りに創り直そう」、あるいは「君には僕が望むすべてを兼ね備えてほしいと思う。敬虔なキリスト教徒で、多様性や多文化主義を嫌う保守的な女性であってほしいんだ。民族を理解する者こそが、自らの国土をもつのにふさわしい」。

 インセルのトミーとしてサイト上の書き込みを読み解いていった末に「見えてきたのが次のような関係性だ。つまり、ミソジニーが激しさを増すことで、人々は白人至上主義と反ユダヤ主義に染まり、白人の存続をもっともらしく懸念するようになり、今度はその懸念を暴力で表現し、疑似科学と人種差別の世界に喜んで足を踏み入れてしまうのである」。

 無論、こんな汚物に心身をさらしたダメージについては一定の敬意を払わねばならないのだが、そこから得られた観察については、別段目新しいものがあるとは思えない。幼児性を極めた彼らの被害妄想的な意識についても、あるいはそうしたものがユダヤ陰謀論といかに近しいものであるかについても、むしろ今日となっては定説的であるとすら言える。こうしたコミュニティの参加者が、一般に信じられているような弱者男性像とは必ずしも重ならないことは承前の通りだろうし、そこにマチズモが服着て歩く軍隊や警察の関係者が監視のためでも何でもなく常駐していることももはや常識ですらある。

 

 そう、観察記録として言えば、どうにも古臭くしか仕上がりようがないのである、なぜならば、対峙する彼らがおそろしく古臭い存在だから。

 そんなことは分かり切った上で、筆者はあえて潜入する、なぜならば、それが彼女にとっての戦い方だったから。

 彼らの害悪など既に周知のはずなのに、警察も司法も大手メディアも何の頼りにもなりやしない、だったら自分たちで動くしかない。「私たちの安全を守るのは私たちだWe keep us safe」、このテキストはあくまでそんな彼らと闘うアンティファの作法をめぐる、実践の書なのである。

 

 ひとりの男がまんまとアシュリンの罠にかかる。その彼は「ウクライナ人だが、アメリカ人の妻が欲しいと言い、私の気を引こうとしている。『白人だけのアメリカ合衆国』をつくることを目指しているので、そのために私を利用できるかもしれないと考えているようだ」。

 手がかりはチャットを通じて送られてきた何気ない一枚の写真、車のナンバープレートは、このネオナチ・チャンネル運営者の素性を驚くほどあからさまに教えてくれた。あとはそのことをベリングキャットにリークするだけ。記事が公開されるや否や、彼は自身のソーシャル・メディアのアカウントをすべて削除して逃走した。

 こうして「私は一人の暴力的ナチ信奉者を追放し、過激主義者の集団に混乱と恐怖の種をまいた。デヴィッドはおそらく、大量殺人犯になる可能性のある人物だった。どんな女性も罠の可能性があると思えば、彼らが白色人種を立て直し、望みどおりに白人の子どもの未来を守ることはできなくなるだろう。彼らが互いに不信感を抱き合えば、運動の結束は弱まるだろう。結束が弱まれば、彼らがもたらす被害は小さくなるだろう」。

 水は低きに流れる、どのみち次から次へと彼らのような分子が量産されてくる以上、たかが一匹を仕留めたに過ぎないこのしらみつぶしはほとんど徒労でしかないのかもしれない、しかしそれは今そこにある危機を前にしたアンティファが戦うことをやめる、その理由にはならない。

 アンチファシストは「攻撃は最大の防御」という言葉に沿って行動することはあっても、その根本的な目的はコミュニティを守ることにある。結局のところ、アンチファシズムは、ファシスト運動の高まりに対抗する受け身のイデオロギーである。メディアが描く姿から想像されるよりも、複雑で深みある精神であり、一貫した戦術と言えるだろう。過激主義者、その敵対勢力、リベラルな世界観とは必ずしも相容れない国家とのあいだにある複雑な関係をじっと見据えること、それこそが案ティファシズムと言える。だがなによりも大切なのは、憎悪が私たち全員を飲み込もうとしているこの世界で、アンチファシズムは、私たち自身、そして私たちの友人や隣人たちの安全を守るための手段となるということだ。

 

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