Ribbon in the Sky

 

 サラブレッドthoroughbredという単語は、徹底的に磨き抜かれた血を意味する。

 ゴドルフィンアラビアンダーレーアラビアンバイアリーターク、中東より持ち込まれたこの三大始祖の血を用いて最速の競走馬を作り上げる、遡ること300余年、そうして英国の貴族たちは後にサラブレッドと呼ばれるゲームを立ち上げた。

 レースという名の優勝劣敗の淘汰を重ねて、そこで能力を証明したほんの一握りの上澄みだけが、自身の遺伝子を後世に残すことが許される。

 その選択からあぶれたものは――屠殺される。

 

 この世から競馬がなくなってもかまわないのではないか。

 かつて、そう考えていたときがある。競馬がなくなれば、悲惨な目に遭う馬もいなくなる。

 だが、事はそう簡単には運ばない。

 日本全国に数万頭のサラブレッドがいる。彼らは競馬があるからこそ人に養われているのだ。競馬がなくなれば、彼らのほとんどがこの世から去ることになる。

 犬や猫とは違い、一頭の馬を養うのに、年間で最低百万からの金がかかる。

 競馬が馬の繋養費をまかなっている。

 野生の馬に人が手を加えることで生まれてきたのがサラブレッドだ。彼らは人なしでは生きられない。そして、人は競馬がなければ彼らを養えない。

 それが現実だ。

 

 種牡馬として生き残れるか、それとも――

 その瀬戸際に立たされた一頭の競走馬がここにいる。エゴンウレア。命名の由来はスティービー・ワンダー'Stay Gold'、それをバスク語に訳したもの。

「エゴンウレアは多くの競馬ファンに〈シルバーコレクター〉と呼ばれている。GⅠなど重賞の大レースでも活躍し、23着にはよく来るのだが、どうしても勝ちきれないからだ。/……賞金額で言えば、GⅠ馬と遜色のない馬だった。

 だが、勝ち鞍がない。GⅠどころか、GⅡGⅢといった重賞でも勝ちきれず、シルバーコレクター、あるいは史上最強の2勝馬と呼ばれて今日に至っている」。

 小ぶりの身体をしならせてレースに挑むものの今一歩の差で惜敗を重ねる、かつてファンはその姿に凡庸な努力家という像を見ていた、一生懸命走ってはいるのだけれどもそれが残酷な才能のリミットなのかいつも少しだけ足りないのだ、と。

 しかしその獰猛な本性はやがて周知のものとなる、才能の限りを尽くし一生懸命走ってようやく善戦マン止まりなのではなく、桁違いの天才が一生懸命走っていないからこそ善戦マン止まりなのだ、と。

 

 月日は流れ、キャリアは晩年に近づきつつあった。

 そして、崖っぷちにあったのは、馬のみならず、その周囲に集う人もまた同様だった。

 そのひとりが、「わたし」こと平野敬。腕を買われてこそいたものの、とある暴力沙汰の責任を取って門別競馬場を追われ、今は故郷の浦河で装蹄師として生計を立てつつ養老牧場を営む。近隣の牧場の生産馬という縁からエゴンウレアと携わることとなる。

 そしてもうひとりが、和泉亮介。「わたし」の幼なじみであり、競馬学校騎手課程の門を叩いた盟友である。かつての中央競馬のスター・ジョッキー、も、その絶頂の最中に薬物に手を染めていたことが発覚し服役、地位も富も名誉も失った。「わたし」の営む牧場も、もともとは亮介の実家だった。

 崖っぷち、ということでいえば、浦河という馬産地もまた、その正念場に立たされて久しい。かつて日本全土で年間1万頭以上が生産されていたサラブレッドも今や7000頭程度までその規模を縮めた。バブル崩壊後から相次いで地方競馬が閉鎖に追い込まれたことや、馬主というハイ・コスト・ロー・リターンの道楽の引き受け手がいなくなったことといった構造不況の影響がもろに街を直撃していた。三冠馬シンザンを輩出した栄光の時代も遠い昔、運動会と時に揶揄される寡占状態を形成する早来の大牧場の後塵を拝する。投入可能な資本の格差が裏打ちするこのギャップは、今後も開くことはあっても詰まることはない。見通しのつかない産業に後継者がそうそう見つかるはずもなく、3Kでおまけに低賃金という劣悪な条件ゆえ、その末端も専ら外国人労働者が担う。

 そんな負け犬たちが、一頭のサラブレッドに一縷の望みを託す。

「本気で走れば誰にも負けまい。ただ、彼を本気にすることのできる人間がいなかったのだ」。

 エゴンウレアを触発できるのは挫折を知る男たちだけ、そんな彼らが華麗なる賭けに打って出る。

 

 働かざる者食うべからず。

 血のドラマがどうしたこうしたとわめいてはみても、サラブレッドとは所詮が経済動物である。

 人間の、人間による、人間のための家畜、この性質において、ウシやニワトリと競走馬を隔てるものはない。殺されることを予め織り込まれていなければ、生まれてくることすら許されない。

 はずなのに。

 ここで食肉産業と同一線上に位置づけることに、いささかの抵抗を感じずにはいられない。

 つまり、ここでも動物個々の生態学的なありようがそうさせるのではなく、換金性とは異なる人間中心主義がある種のためらいをもたらすのである。ウマ科ウマ属という雑多なボックスから一頭一頭に血統表を紐づけて、さらにその唯一無二性をいやがうえにも引き立てる名付けという儀式を経由した例えばエゴンウレアが、スーパーで切り身のパックとして並べられた、生前の顔立ちなど知る由もないブタと果たして同じだと本気で言い切れるのだろうか。

 稀代のクセ馬という物語を帯びたが最後、我々にはもはや彼をただの家畜だとはみなせない。

 そんなものはすべて人間の都合でしかない、しかし人間は現に人間の都合の中を生きているのである、そして人新世のただ中でサラブレッドは人間の都合の最たるものの中で生きているのである。そんなところに意味を求められても、ノーリーズンとしかいえないのである。

 

 奇しくも、この小説のあり方がサラブレッドという仕方に通う。

 有り体に言えば、先行する競馬系フィクション作品群、例えば宮本輝優駿』、田原成貴土田世紀ありゃ馬こりゃ馬』、ゆうきまさみ『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』、つの丸みどりのマキバオー』、本島幸久『風のシルフィード』らと比べて、これといって何かディープインパクトのある話をしているわけでもない。敗者たちが手を取り合って栄光を目指してトゥザヴィクトリーに立ち上がる、その基本プロットからして既にスポーツに限らず古今東西ベタベタの王道物語である。あけすけに言えば、セックスや暴力の描写などは昭和かとつっこみたくなるような、この時代に恋愛とかいう中だるみを誘発するだけの挿話なんてどうでもいいからブロマンスでもっとキュンキュンさせてくれよと言いたくなるような、そんな代物である。

 では、そうした作品群から何が異なるといって、それはつまりステイゴールドという一頭の競走馬なのである。興味がない者にしてみれば、毛色の違いに多少目が行くくらいで、馬なんてどこまでいっても馬である。実際問題としていえば、ヒトが100メートルを8秒フラットで走ることのないように、とうにハイエンドに到達しているだろうサラブレッドにベルカーヴの標準偏差を逸脱した突然変異的存在など現れることはない。つまり、和牛や地鶏にさしたる食味差がないのと同様に、現実には競走馬に個体識別を要するようなキャラクターなどない。さらに言い換えれば、人間なるコンテンツが顔も名前も持たない入替可能、入替不要な計算関数でしかないように。しかし筆者にしてみれば、他のどの歴代の有象無象でもなく、この一頭をモチーフに何かしらの物語を紡ぎ出さずにはいられない。

 人はそこに時に「しをかくうま」を見てしまう。


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 競馬なんてなくても人は生きていける。小説なんてなくても人は生きていける。

 いや違う、人はパンのみにて生きるにあらず、言葉に生きる、神に生きる、紙に生きる。

 

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