1949年から、アメリカ陸軍省はアメリカ政府の軍事予算を用いて、沖縄の若者を対象にアメリカの大学で学ぶための奨学制度を実施した。……この留学制度は、1970年が最後とされたが、毎年、少なくとも20名、多い年には90名近くの沖縄の若者が大学で学ぶためにアメリカへ渡った。……
アメリカに留学した者たちを指す「米留組」という呼称は、アメリカ統治下の沖縄を生きる人々にとって、特殊な眼差しや感情を表現するものであった。
特に、日本への復帰運動が激しさを増す1960年代の沖縄において、「米留組」に対する風当たりは厳しく、「向米一辺倒」や「米軍の親衛隊」と呼ばれた。つまり、「米留組」という言葉には、政治色を帯びたステレオタイプが含まれていたのである。……
本書は、戦後の沖縄からアメリカに留学した若者――「米留組」と呼ばれた人々――についての物語である。「米留」制度がアメリカの対沖縄統治政策においてどのように位置づけられていたのかを、アメリカの公文書館所蔵の一次史料から明らかにし、留学経験者たちのライフストーリーを通して、当事者の視線から「米留組」の軌跡を辿る。
「米留組」の沖縄社会における位置づけを象徴する、とある歴史的な事件がある。
それは1963年の出来事、時の高等弁務官ポール・キャラウェイは、「米留組」の親睦団体である「金門クラブ」の講演に招かれる。その席上、「琉球政府で働いていた琉球人は効率性に欠け、また無責任である」とこき下ろす傍らで、米留組の「諸君はもはや、琉球列島での指導者」であると褒め殺してみせた。まさにこの場で飛び出したのが、「現時点において〔沖縄の〕自治は神話である、自治は存在していないAutonomy at the present time is a myth; it does not exist」との発言だった。
もっとも、この反共主義者の言説の是非はここではひとまず脇に置こう。今着目すべきは、彼がこのテーゼを掲げたのが他ならぬ「金門クラブ」であったという点である。このことがいみじくも米軍と沖縄の特異点としての「米留組」をクローズアップさせる。
紛れもなくこのキャラウェイ流のTPOは、アメリカ側から見た「米留組」への意識の反映だった。この留学制度は「琉球の若い男女を海外で教育し琉球の専門的な役割を担わせること」を趣旨に設けられた。それは少しばかり悪趣味な見立てをもって言い換えれば、「反共産主義の要」としての沖縄を担える、トロイの木馬を養成する試みであった。地上戦の舞台となった焼け野原から、かつての敵国本土へと渡る、その落差は必ずや彼らに衝撃を与えずにはいない、いや、民主主義陣営のとりことして魅了されずにはいないだろう。そうして感化されたエリートたちがやがてはアメリカと一心同体の理念を掲げて、冷戦の闘士を担ってくれよう、そのことは事前に行われた思想調査からしても明らかで、それが彼らの意図した「自治」だった。
しかし「米留組」の見たアメリカは、当人たちの自画像とは大きく隔たるものだった。
そのひとりは「ワンダーランド」の夢が打ち砕かれるショックを綴って言う。「アメリカの民主主義の精神を学びにきた留学生にとって、その矛盾[人種差別や経済格差]は、アメリカ的生活様式のすべてを拒絶させるほどの絶望を招くものだった」。
確かに「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」には、「終戦直後の沖縄での貧しさが吹き飛んでしまいそうな感動」や「桁外れの豊かさ」があった。「初めて見た水洗トイレの、溜まっている水で顔を洗ってしまったこと。チャイナタウンからの夜道、校内近くの道路脇で立ち小便をしているのを警備員に見られ大騒ぎになったこと。シャワーを浴びるのにカーテンをバスタブの内側に入れるものだと知らず、シャワーの水で部屋中を水浸しにしてしまったこと。サラダが出てきて、野菜を生で食べさせるなんてウサギと思われていないかと驚き、食べなかったこと。ピッチャーに入っている牛乳を飲みすぎてお腹を壊したこと」……その何もかもがカルチャー・ショックだった。
しかし他方でその「絶望」に打ちひしがれた者もあった。軍用船に揺られて大陸を渡る、その旅路からして既に「屈辱」ははじまっていた。「船室は、エンジンやスクリューの音が鳴り響き、狭く暑苦しい場所だった。……食事は狭いスペースでの立食で、棚の上から食器が滑り落ちないように手で押さえつけながら食べた。/……早朝から寝棚周辺や娯楽室の掃除をさせられ、それを将校が検査をし、掃除が行き届いていなかったらやり直さねばならなかった」。学費のために「朝6時から夕方6時まで、およそ12時間も苺畑の畝と畝の間をしゃがみ、小さな輪のついた板車に乗せた箱にへたや茎をつけたまま苺を摘んで入れ」ていった青年は、「この調子だとさつま芋だけ食っても沖縄がよかったのではと本気で思ったこともあるほどだ」。南部ルイジアナに送られた別の者は、「アフリカ系アメリカ人の友人と本屋にいる時に、『有色人種は出て行け』と言われたこともある。本屋の店主は、……『周囲の人が嫌がるから連れてくるな』と言い放った」。
それは何より彼らに自らのアイデンティティを自問自答させる経験であった。ある者は自己紹介の際に「OKINAWAはJAPANではないと言われてしまった」。本土から留学してきた「日本人学生に『アイヌと同じ人種でしょうか』と聞かれることもあり、……日本人との付き合いの中で、沖縄とは日本人にとってそれだけの認識しかないのかと思い、同時に『日本人』としての自己認識を拒絶されたように感じたのだ」。
矛盾に苛まれながら、それでもなお、「米留組」にとってアメリカは民主主義への覚醒を誘わずにはいなかった。
ひとりの女性留学者は、軍用の飛行機でサンフランシスコに降り立った時に目撃したある光景に驚愕する。「白人の男性がエアポートのフロアーを掃いていたんです。その時ですね、私は白人の男性でも掃除するんだと思いました」。何よりも彼女に衝撃を与えたのは、「自己の内面にある無意識の人種とジェンダーのヒエラルキー」への気づきだった。「沖縄の基地では、自分の家に沖縄の女性をメイドとして雇い、ミシンを踏ませて洋服を作らせる。また沖縄の男性を庭師として雇う。彼ら(アメリカ人)はのほほんと生活しているんですね。……洗脳されていたんです」。
沖縄県知事を務めた大田昌秀は、この地での出会いが「その後の私の人生における最大の財産」と述懐する。「ある日、『デイリーオレンジ』という大学が発行する新聞の記事で、ある犯罪事件の加害者が黒人であったことが強調して書かれていた。白人の時は白人と書かない。メキシコ人の友人と一緒に抗議しようという話になった。クラスでもそのことについて議論し理解を得た。授業後、新聞部に足を運び抗議すると、編集スタッフは彼らの意見に理解を示した。『黒人』という表現を消すことができたのだ。『そういうことができるのがアメリカの良いところ』だと気づいた。その経験は、大田さんにとって、アメリカ社会における人権をめぐる抗議の申し立てとその成功体験であったのだ」。
そもそもからして「沖縄には、琉球王国時代より『留学』を通じて海外からの先端知識を得ながら、社会を形成してきた歴史がある。/……沖縄にとって『留学』は、中国、日本、アメリカなどとのかかわりの中で社会形成をする過程においての重要な装置となってきた」。彼ら「米留組」は、その歴史の正当後継者としての顔を持つ。
かのアレクシス・ド・トクヴィルは言った。「一国についてしか知らぬ者は、実はその一国についてすら知らない」。戦後において「ワンダーランド」を踏みしめた彼らは、その経験を通じて、まず何よりも沖縄を知る者として帰還した。それはもちろん、単にエドワード・サイードの云うオリエンタリズムの視点を獲得するのとは別の仕方で、ましてや米軍の企図とは別の仕方で、むしろその非対称性に彼らはおそらくは他の誰よりも自覚的だった、いや、自覚的にならざるを得なかった。
当時「金門クラブ」の会長を務めていた川平朝清は、キャラウェイの回し者と糾弾されるその渦中に会の意義を宣誓した。「私たちは、英語という言語能力を使って、琉球人を代表して発言することを決して忘れません。同時に、私たちは、アメリカの政権や政策の良いところを、公正且つ適切に表現できるだけの自信を持つべきです」。