デカフェ

 

 本書は、2017年から2019年にかけて、みすず書房より刊行された『中井久夫集』全11巻の解説をもとに、大幅に加筆修正をおこなったものである。中井の逝去にあたり、長年の担当編集者であった守山省吾氏より、通読することで中井久夫の生涯を浮かび上がらせることができるとして、一冊にまとめることを勧められた。

 

 と、あとがきにおいて本書の編まれた経緯を知ってなお、どこかしらモヤモヤとしたものが残る。

 一見して、なんとも捉えどころのないテキストなのである。巻末に30ページにもなる年表が付されているにしては、系統的なクロニクルをめざして書かれた形跡はない。テーマ史として成り立っているようにも見えない。全集に添えられた解説がベースなのだから、そちらに当たらないことには意味内容がつながりようがないといえばそれまでなのだが、それでもなお、このライティングが各々への詳らかなアンサーを構成しているわけでないことくらいは読んでみれば一目瞭然なのである。

 ものすごく雑な言い方をすれば、目的意識がない、あるいは本書に即せば、「因果律」がない。

 

 だがしかし、もしかしたらこのアプローチこそが筆者から中井への至上のメッセージを形成しているのではないか。

 あるいは全き誤読に過ぎぬのかもしれないその気づきのきっかけは、たまたま同時期にローテーションで読んでいた別のテキストだった。それは、マイケル・ポーラン『意識をゆさぶる植物』、カフェインをめぐるくだり。

 カフェインこそが近代を作った。それは巷間しばしば語られるように、単にコーヒーショップというサードプレイスが近代市民革命をセットアップするための情報交換の場を提供していたというにとどまらない。カフェインがもたらす没入性こそが、近代的な生産性を可能にした、そうポーランは展開する。

「合理主義者にとってこのうえない理想の薬となったコーヒーは、ヨーロッパにかかっていたアルコールの霧を晴らし、人の集中力を高め、細部に目を配らせ、そしてまもなく雇用主も、それが生産性をめざましく向上させることに気づく」。

 コーヒー・ブレイク、ティー・ブレイクは労働者たちが憩いの時間を得るために必要としているのではない。むしろ、使用者が彼らの生産性にブーストをかけるためにこそ不可欠なのだ。

 カフェインを使うのではない、カフェインに使われる。こうしてできあがった近代という名の生産性至上主義社会、カフェイン・ブースト型社会へのアンチテーゼこそが、中井久夫という人を、いや『中井久夫 人と仕事』というカフェインのカの字も出てこないこのテキストをさりげなく貫いているテーマなのかもしれない。

 

 本書の折々に登場するキーワードのひとつが、「継ぎ穂」である。この語は「『あのー』や『えー』といった間投詞や、『ね』や『さ』『よ』といった文末の結び方を指し、これによって会話はスムーズに進行する」。単に意味内容の作用のみを突き詰めるならば、これらフィラーはあってもなくてもよいはずの、むしろノイズの類のものである。

 ところが中井の観察によれば、統合失調症の患者において、この「継ぎ穂は虚空にひるがえるばかりである」。この「継ぎ穂」は、「連歌のよう」に相手方の次なることばを引き出そうとはしない。向かい合う対話の相手に対して「継ぎ穂」が「継ぎ穂」として機能しない。一見自己完結しているかに見えることばを放つ「彼らが自閉的であるといわれるのは、強固な壁を内面の周囲に廻らしているからではない。彼らは、実は風の吹きすさぶ荒野に裸身で立ちつくしているのである」。彼らは寄り道を知らない。彼らは己の中に純化され切ったことばを持つ。彼らのことばは他者によるブラッシュ・アップを必要としない、彼らは他者を必要としない。彼らはless is moreな近代を体現する、カフェインによって目的へとまっしぐらに駆り立てられるあの近代を。

 

 奇しくも中井にとって、「書くことは明確化であり、単純化」であった。そう自ら「書く」その瞬間に中井は必ずや己を統合失調症患者に重ねていたことだろう。その自縄自縛からの解放の隘路を彼は絵画に見た。

「言葉はどうしても建前に傾きやすいですよね。善悪とか、正誤とか、因果関係の是非を問おうとする。絵は、因果から解放してくれます」。

 カフェインと並ぶ、あるいはカフェイン以上の、近代の創始者とはすなわち活版印刷だった。音声によるあやふやな伝言ゲームの曖昧を排した、「明確化であり、単純化」の粋であるこのコピーという技術に「継ぎ穂」はいらない、対話はいらない。一方通行のメディアがもたらしたグーテンベルクの銀河系は、その副産物として例えば精神医学の助けを必要とする患者たちを量産した。

 そこに中井は絵画療法を差し出した。「言語は因果律を秘めているでしょう。絵にはそれがないんです。だから治療に威圧感がない。絵が治療しているというよりも、因果律のないものを語ることがかなりいいと私は思っています」。その企図は、逆説的に「因果律」の塊だった。

因果律」によって研ぎ澄まされた近代にあえて「因果律のないもの」を投げ入れる、かなり強引に言い換えれば、それはカフェインを抜く作業に限りなく似る、さらにそれを別の詩人のことばをもって言い換えれば、「ただあることを以てある手を」差し出すことを意味する。

 

 そして中井にとって「因果律」を解き放つ術もまた、まさに「言語」の中にこそあった、それはつまり詩の「言語」の中に。

 彼の定義によれば、「詩とは言語の徴候的使用であり、散文とは図式的使用である」。「詩」の言語の選択には、韻律や音節による文法的な必然はあっても、「因果律」に基づく意味的な必然はない。そこにはただことばのためのことば、〇〇のために奉仕することのない、自己目的化した「言語」だけがある。

 最相葉月の手による、紛れもなき「散文」であるはずのこのテキストは、どこかこの「詩」の定義に似ていやしないだろうか。

 

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