片腕マシンガール

 

本物の読書家

本物の読書家

  • 作者:乗代 雄介
  • 発売日: 2017/11/24
  • メディア: 単行本
 

 

 縁遠い親戚を老人ホームに送り届けるのは珍しいことでもなんでもないが、歓迎すべきことでもない。大叔父上のことだ。……

「高萩までは、彼に送り届けてもらいたい」

 このご指名に心当たりがないわけではなかった。というのも、この人物に関しては、かねてからまことしやかな噂が一つある。川端康成からの手紙を後生大事に持っているらしいということだった。

 

 と、以後の道中をめぐるあらすじをかいつまんだところで、表題作「本物の読書家」を論じるに際して意味をなすことはない。例の手紙をめぐるミステリーの顛末を追ったところでそれが何になろうか。

 隣席に腰かけた謎の男との話の拍子に出た日付から、すぐさまそれがJ.D.サリンジャーの生年月日と勘づく「わたし」。トウェイン、ゴーゴリフローベール魯迅二葉亭四迷、ピンチョン、リチャード・パワーズ川上弘美と「わたし」が思いつくままにピックした作家の誕生日を涼しい顔で諳んじる男がバッグから取り出したるはシャーウッド・アンダーソン『黒い笑い』、それは奇しくも「わたし」の愛読書。

 舞台装置、人物造形の何もかもがあからさまな意図をもって不自然に配される。破綻との謗りを恐れてかのしゃらくさい帳尻合わせなどいらない、不自然でいい、むしろ本作においては不自然なほどいい、なぜならば、「わたしは心に血をためながら、それでもなお事実より小説を知りたいと思う。静かな興奮に目をつぶり、事実なんてくだらぬものと断定したくなる」、そんな「わたし」の小説なのだから。

 

 やがて物語は車窓に広がる蓮田を受けて生涯を独身で通した大叔父の追憶へと展開し、そして間もなくファム・ファタールのたたずまいを漂わせる乙女が降臨する、折よくも、不自然はなはだしくも。

 上り側のプラットフォームの屋根は中央に申し訳程度にあるばかりで、緑色のフェンスを背にしている陽にさらされた場所には、どこへ行くのか女子中学生が何十人も立ち並んで談笑している。

 その中にひとり、色素の薄い頬の高さまで髪を切り揃えた細い眼の可憐な娘がいて、わたしの気を引いた。田舎らしい長いスカートは、ダッフルコートの膨らみない裾からまっすぐ膝下まで降りかかって、折りひだの向こうに静かな空気を含んで軽く揺れていた。その内に秘められた空間のちょうど真ん中から、白い柔い足首が、左右等しく降りている。彼女の首から下の素肌が外気に直に触れるのは、膝下の最もしなやかな骨を埋めているはずのすねの辺りだけ。黒いソックスをまとった足首は、やがてなめらかな革靴に変じてしまったように見える。娘は電車を待ちながら、澄んだ冬の光を背に浴び、楽しそうに友人と話をかわしていた。

 きめ細やかに配された活字のデッサンは、にもかかわらず像を結ばず、風がそよぎ、陽だまりがきらめき、ただ清廉な透明を残して溶け去る。小林秀雄の言うことには、「美しい花」はあっても「花の美しさ」のようなものはない。ところが、このテキストには紛れもなく「花の美しさ」がある。「花」というフォームを授かる瞬間にほどけて消える、マターとしての「美しさ」がある。「花」という経験より出でて、そして決して「花」によって持たれることのない、映像でも、写真でも、絵画でも達せられることのない、あるいは朗読という仕方で声という肉を与えられることによってさえも失われてしまうかもしれない、ただことばによってのみなされ得る、純‐文学的な――誰も開きすらしないジャンルの婉曲表現としての純文学ではなく――「美しさ」がここにある。いみじくもimageの語源はラテン語imagoimitationと同根にしてその意はコピー、イメージはいつしか「美しい花」の似姿を離脱して、「花の美しさ」を求めはじめる。