三文芝居

 

 突然のメッセージで驚かれたことと思います。失礼をお許しください。

 仕事終わりに、いつものように何気なくフェイスブックの歌舞伎のページを覗いていると、未帆子という名前を目にしました。……

 未帆子という名はありそうで、実際はあまり見ない名前です。同時に、その名は私にとっては忘れられない名前です。すぐに貴女を連想しましたが、苗字が違ったので、最初は貴女であるとは考えませんでした。貴女が結婚されたというのは知っていましたが、その時、聞いた名前とは違う名前でしたから。……

 決定的だったのは、貴女のお友達の一人である方がアップしていた京都旅行の写真でした。……私はその写真に写っている四人のなかの一人、青いワンピースを着た女性の胸元に着いているネックレスに目が留まりました。

 解像度が今一つだったのではっきりとはわかりませんでしたが、かつて貴女がいつも身に着けていたティファニーのネックレスに似ていると思いました。その瞬間、この女性は貴女だと直感したのです。……

 その写真を何度も眺めているうちに、部屋の横の窓ガラスに四人の女性がうっすらと映っていることに気付きました。……

 私は写真をパソコンに取り込んで、大きく引き伸ばしました。……

 そこには28年前に亡くなった貴女の顔があったからです。

 

 書簡体小説という優れて古典的な形式が、フェイスブックという今日的なツールを媒介することでアップデートされる。

 この形式の特徴はなんといっても、書き手と書き手、このテキストの場合は、水谷という「私」と未帆子という「わたし」の2つの一人称の間を行き来する点にある。主観と主観が時に交わり、そしてすれ違う。双方がともに書きたいことを書ける、書きたくないことは書かない、その性質によって催されずにいない齟齬が、読み物としての出来不出来を決する。

 

 ソーシャル・メディア・プラットフォームを用いてこそいるが、何のコンセンサスをもってか、その最大の特性であるはずのチャット的な即時性を双方ともに回避する。むしろ船便を用いた往復書簡の時代でも懐古するかのように、そのメッセージの往来はしばしば、数ヵ月ものタイムラグを空けて営まれる。

 そんな中で、ネット経由で四半世紀ぶりに再開した彼らは、昔話に花を咲かせずにはいられない。彼らの出会いは大学時代に遡る。「私」こと水谷は演劇部を率いる脚本家兼演出家、そして「わたし」こと未帆子は部員の女優。

 その中で、「私」が未帆子に目を留めた契機を語る。その箇所が、本書全体のテーマをあからさまにマニフェストしているので、少し長くはなるが端折りつつも引用する。

 

 ある女の子がセリフをあまり覚えていなくて、私がちょっと怒りました。すると、その子は急に泣き出してしまいました。……

 貴女は彼女の次にその課題を演じましたが、呆れたことに彼女以上にひどい出来でした。……

 ところが、後で3年生の男子部員の一人から、貴女はわざとセリフを間違えたんじゃないかと言われました。……

 彼女の前に課題を演じて怒られた1年生のことを慮ってのことじゃないかというのです。……

 同学年の子の心の負担を軽くしてあげたいと思って、咄嗟にそんなことをする貴女の優しさにも驚きましたが、実はそれ以上に感心したのは、貴女の「下手くそな芝居」でした。わざと下手にやっているようには思えなかったからです。貴女の演技は、本当にずぶの素人が必死になってやっているとしか見えませんでした。その点で、一流の芝居だったのです。

 

 そう、この往復書簡は一貫して、互いが虚々実々の「下手くそな芝居」を演じることをもって成り立つ。つまり、知っているにもかかわらず、あえて知らないふりをし続ける。ここに書簡体小説という手法を取り入れるメリットが発生する。

 三人称を主語に据えたテキストならば、神目線の叙述者による、ある種の答え合わせを伴わせないわけにはいかない。裏設定はあえて書きませんでした、ではトリックのためのトリックとしての白々しさがどうにも滲み出てしまう。

 一人称のストーリー・テラーが実は嘘をついていた、というアガサ・クリスティアクロイド殺し』以来のいわゆる「信頼できない語り手」スタイルにおいて、叙述トリックや駆け引きというのは作者と読者の間で演じられるべき性質のものであって、物語内他者へと向けられたものではない。このアプローチで登場人物のみなに嘘をつかせてしまうと、事実関係の何もかもが担保されず、おそらくはそして誰もいなくなる。

 パーソナルでクローズドなやり取りの中で、水谷は未帆子のために「下手くそな芝居」を演じ、未帆子もまた水谷のために「下手くそな芝居」を演じる。他ならぬかけ合いの書簡体小説だからこそ、「下手くそな芝居」が成り立つ。

 オマージュとしか思えないとあるシーンから明らかなように、たぶん筆者が最も意識している先行作は谷崎潤一郎『鍵』なのかな、と個人的には推測されてならない。

 

 とは言ってみたものの、しかし本作においては、いささか解せない点がある。

 無知を装いつつも、徐々に小出しをしていく、その一連の「下手くそな芝居」をもって相手の弱みを握ろうとする。ネタバレを避けるためにどちらの話であるかはあえて記さないが、一方のプレイヤーにとってのインセンティヴがこの浅はかな企てによって保証されていることは分かる。そこには確かにキャラ造形の作用も発生している。

 しかし、もう一方のプレイヤーが同様に、けだるいまでにメロドラマじみた「下手くそな芝居」に深々とコミットするインセンティヴ、もっと言えばそもそもフェイスブック上で社交辞令を超えたメッセージに応じるべき理由がまるで見当たらないのである。読者に対しては確かにそんな秘密があったとは、とサプライズを与えることはできるかもしれない。しかし、終盤に明かされる重大事項をシークレットとして保留しておくべき別段の利益がこの一方当事者にはない。いや、そのインパクトを鑑みるに、そもそもブロックしないことこそが不自然に思えてならない。

 つまり、作品内世界における「下手くそな芝居」の必然が何もない。メッセージを往復させる相手に万が一にも知れていないはずもないだろうことがらをめぐって、それでもなお「下手くそな芝居」をふるまい続ける理由が、フィクションとして本書を消費する読者の存在の他に何もない。

 だからこそ、結果として思わずにいられない。読者として延々、トリックのためのトリックに付き合わされたのだ、「下手くそな芝居」を見せられ続けたのだ、と。

 

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