それが私の生きる道

 

 修学旅行から帰った翌日のしかも土曜日に学校があるのはどうかと思うけど、僕だって特別な事情がなければ風邪で寝込んでるなんて言い訳せず、ちゃんと登校したはずだ。でも今日だけじゃないんだな。僕は明日も明後日も寝込んでて、あと何十日か、事情次第じゃ何百日でもおかしくない。事情っていうのは、今始まったこれ――高校二年の東京修学旅行の思い出――をいつ書き終えるのかということだ。……

 あの修学旅行で取り込まれた水分が体から抜けないうちに、急ぎあの修学旅行のことを、潤沢な涎でもってだらだらあ書き上げなきゃいけない。舌の根も乾かぬうちにってことじゃなければ、あの日のことは一生わからないままだろう。そんなのはごめんだから、こうして学校行く間も惜しんで書き始めたわけだ。それに、教室に入って彼らと一言二言交わそうもんなら、僕はもう修学旅行について書く気なんかなくしてしまうに決まってる。その瞬間に予期する甘酸っぱい未来は、僕に生唾を飲み込ませるはずだ。僕は固い意志をもってそれを拒み、こうして一人、涎を垂らし続けることを自分に強いる。画面の上にべたべたの、二度と行かない宝の地図ができれば上出来だ。

 

 数年前から「僕」こと佐田誠が通う高校の修学旅行では、その二日目に全日自由行動というカリキュラムが組み込まれている。自由と謳ってはいるものの、班単位で予め行程表を申告して許可を受けた上で、すべての生徒に配布されるGPSにより位置情報を教員が逐一把握する、ITの発達が可能にした、そんなカギ括弧つきの自由にすぎない。

 クラスの「モブキャラで脇を固め」たような、スマホのアドレスすらも互いに知らないその班の、スケジュールを決定するための、高校生に固有の気だるさ漂うミーティングのためのミーティングの席上で「友達は俺と僕と私だけ」の「僕」は、メモに日野と書きつけ、他の6人のメンバーを前に決然とその意志を告げる。

「みんなは行かなくていい……勝手に一人で行くから」

「僕」の叔父が暮らしているらしい街、それが日野だった。「僕」の生後間もなく父は離婚、母とは3歳のときに死別、以後祖父母のもとで育てられるも、叔父とは「僕」が中三のときに家族が喧嘩別れしてそれっきり、連絡もつかない。手紙の宛先に記された住所を頼りにそんな叔父のもとをたずねる。

 それ以外に何の目的もない、特筆すべきアミューズメントもない、その街に向かう。「僕」ひとりきりのはずが、紆余曲折を経て、男子4人でパーティーを組むことになる。他方で、GPSは残りの女子3人に持たせて、彼女たちは班で事前に申請した通りのルートをたどることでアリバイを確保する。午後5時に新浦安のオリエンタルホテル――ブライトンではなさそうだ――到着がマストのこの「自由行動」のタイムリミットは1529分日野発の中央線特別快速。

 

「本物の読書家」では常磐線の車窓を捉え、『旅する練習』では我孫子から鹿島を徒歩でめぐり、『皆のあらばしり』では栃木城にて密会を重ね、『パパイヤ・ママイヤ』では木更津に住まう。

 かように関東ローカルどさ周りを描いてきた作家が、今回もまた、主人公に旅をさせる。

 しかしその旅の意味は、一見すると、これまでのものとは趣を異にする。

 奇しくも作中、国語教員が宮沢賢治「イギリス海岸」の話をはじめて曰く、「自分は、溺れてる子供を助けることはできないから、せめて一緒に溺れてやろうとしか考えてなかったって」と。

「僕」を除いた3人には、日野行きに何の得があるでもない、違反というマイナスのインセンティヴしか設定されていない。この作品において、彼らがこの選択をあえてする理由といえば、まさに「僕」と「一緒に溺れてや」ることの他にない。行動を共にすることは「僕」を水難から「助けること」をどうやら意味しない、そこにあるのは「一緒に溺れ」るコミットメントに過ぎない。しかし、あえてするそのコミットメントが、「母親の愛情を知らずに育つと、やっぱり何か欠陥みたいのがあるのかな?」、「自分が何を望んでるかわかったことなんて一度もないね」と『伊豆の踊子』のごとき葛藤を抱える「僕」の何かを変える、一見。古来の旅文学の常套、行きて帰りしその通過儀礼を経ることで何かしらの変身を経験する、そんな系譜に本作もある、一見。

 

 少なくとも個人的な感想として、一見、という躊躇と保留をここに強調せざるを得ないのには理由がある。なぜならば、作中の「TSUNAMI」言及そのまま、「見つめ合うと素直にお喋り出来ない」から。いや、もっと言えば、「見つめ合う」こと、コミットすること、リアルとやらにはすべからく、「お喋り」したくなるような何かなんてものははじめから設定されていないから。それは感情とやらのオーバーフローに由来しない、GPSで捕捉可能で捕捉不要なみすぼらしい実存(笑)を相手に紡ぎ上げるべきことばなんてものがはじめから存在していないからに過ぎない。「震えた心から出た言葉なんか、僕は信用しない」。この世に「震え」なんてものはアル中の手か、西野カナの歌の中にしか存在しない。

 それでも「僕」が叔父に会いたいと思った根拠とて、つまるところは彼の残していったお下がりの自作PC、および、ふたりで買いに行ったキーボード、この二点をめぐるフェティシズムの残滓でしかない。ツールを使って日々「書くことはただひたすらに無感覚」で、それでもなお「僕」はその作業に没頭せずにはいられない。当然に、神器のヘイロー効果の下駄を履いているに過ぎない叔父とたとえまみえたところで、後光が瞬時に消えるという他に何が起きることもない。

 そしてその日常とやらは書くことにもまして「無感覚」で、この「自由行動」をめぐる「思い出」とてそれ自体は、イマジナリーな叔父においてそうあったように、「教室に入って彼らと一言二言交わそうもんなら、僕はもう修学旅行について書く気なんかなくしてしまう」ような何かでしかない。この現象は一連の感動がことばを超越しているからではない、キーボード経由のことばの方が現実を超越しているからに過ぎない、現実がことばの下位存在であるからに過ぎない。タイピング速度よりもはるかに貧弱で鈍重な世界の中で、果たして「僕」が何を声に変える必要があるだろう、スマホの液晶をフリックする必要があるだろう。だから「僕」は学校をさぼって、ただ自分のためにテキストを綴ることに戻っていく。「僕は一人で書くのでなけりゃ、誰のことも何のことも考えられないんだ」、いや違う、「書く」ことに比して「誰のこと」も「何のこと」も一顧だにすら値しないというに過ぎない。

 たかが半日の旅で何かが変わる、そんな絵空事絵空事であって何が悪い? 吃音障害持ちの班員のフレーズを「半分以上は適当にどもらせてる」ように、「半分以上は適当に」出来事を脚色して何が悪い? 修学旅行で「僕」が東京を訪れた、それ以外のすべてが、あるいはそれすらも、全きフィクションであって何が悪い? 作品内の世界線において、班のメンツが本当に「一緒に溺れ」てくれたか、などもはや問う必要はない。宮沢賢治――実際はそれ以上に『ライ麦畑』な気はするが――を手引きに、「何かがこみ上げてくる」そのフィーリングを訳もなく物語化できてしまう、そしてその「涎」にリアリティを見ることができてしまう、そのことの方が重要なのだ。たぶんリアルの街並みに転がることもないだろうサード・プレイスや安全基地が、社会学等のテキストの中でならば、いくらでも参照可能であるように、「溺れ」がこの世界に生じるかなんて奇跡を待ちわびる必要などない、現に人間はこうしてわけもなく書けてしまう、読めてしまう、この変わらない、変われない世界の中で。全きフィクショナルな空間で充足可能な何かを、「僕」のPCとキーボードだけで充足可能な何かを、なぜ私たちは今さらRPGのモブキャラ未満の8bitで記述可能な量産型に求めなければならないのだろう。

 

 現実に意味はない。虚構には意味しかない。現実には表象しかない。

 奇しくも私が最初に読んだ乗代作品「本物の読書家」の一節にこうある。

「わたしは心に血をためながら、それでもなお事実より小説を知りたいと思う。静かな興奮に目をつぶり、事実なんてくだらぬものと断定したくなる」。

「一緒に溺れ」ることを知らぬ「事実」とやらが、有史以来「事実より小説を」と言わしめるほどの機能不全の惨状を来しているのならば、いっそ「小説」を「事実」にコピー・アンド・ペーストしてしまえばいい。フィクションの中のコミットメントをスクリプト化して擬製する、その手続きに問われるべき内面などひとつとしてない。

 虚構が現実を模倣するのではない、今や現実が虚構を模倣する。

 

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