僕に英語を教えてください

 

 

 一読すれば、それはあたかも家庭教師版『家政婦は見た』。

 体罰も辞さない厳格な母にしつけられた中学生は、学力的には十分に足りているはずなのに、いざ答案用紙に向かうと、「まるで石化する魔法にかかったかのように、頭から足先までカチコチに硬くなってしまう」、ゆえにスコアは常に振るわない。母への萎縮にその原因があることは誰の目に明らかだった。しかし「私」は間もなく気づく、夫から受けるモラル・ハラスメントを彼女が息子に向けて再生産しているだけだということに。

 その少年は「美しすぎることを除けば、……教師が求める理想的な生徒だった」。難関高校にも訳なく合格、そのふたりきりの祝いの食事の席で、彼ははじめて「私」に同性愛者であることを打ち明ける。それから数ヶ月後、彼からメッセージを受け取る、彼女ができた、と。もっとも、ボディ・コンタクトは何もかもが「気持ち悪くて吐きそう」で、つまりそれは単に部屋に隠していたゲイ雑誌を見つけてしまった両親へのカモフラージュだった。

 娘はADHDだ、と母は言った、だから「私の要求はとても簡単よ」、つまり、普段の成績にせよ、進学先にせよ、何の高望みもしない。しかし過去に数人のADHD持ちの生徒を担当した経験のある「私」はどうにもその評が腑に落ちない。家庭教師の目に映る彼女の問題は、集中力ではなく単に学力だった。そのことを夫に承服させるための口実が、ADHDだった。証券会社を経営する裕福な夫のもと、ラグジュアリーに囲まれた籠の中の鳥を母娘は甘んじて受け入れる。「何日か前、お前は美人だから将来の心配はいらないってパパが言ってた。キレイに着飾って、経済力のある彼氏を見つければいい。見つからなかったらパパが一生面倒を見るって」。

 

 この小説は、親子の葛藤の向こうに男性中心主義の呪縛を映す。

 ある女性は母から言い含められて育った。「この理屈を覚えておきなさい。世の中は、男が80点取ったら女は90点を取ることで、やっと同等に見てもらえるの。さらに重要なのは、たとえ90点を取っても心の中にしまっておくこと。決して男の前で自慢してはダメよ」。そう諭した母自身が、「女には人生を選ぶ権利はないし、女の進学のために散財するつもりはない」とキャリア・パスを早々に放棄させられた、そして英才教育を施した娘にも結局は同じ呪縛をかけてしまう。

 隣の芝生は青く見える。国民党一強時代が終焉を迎え、オードリー・タンや蔡英文を象徴に、一見あたかも、台湾社会はその陋習を振りほどいたかにも思える。しかし本書が描き出す実態と言えば、家父長に代わって学歴が各人の生涯を司る玉座に就いただけだった。「『成功』は、勉強面や仕事面のような、結果が目に見えるものだけを指していた」。かつてならば、あるいは「成功」とは、単にその時々の男の機嫌の良し悪しだったかもしれない、そうして子ども、とりわけ女性は自らを押しつぶすことを余儀なくされた。そうした父親の暴政は多少なりとも退潮したのかもしれない。しかし結局のところ、スコアリングによる統治がその勢力を増しただけで、子どもの何が解放されることもなかった。「旧世界」から「新世界」へと移り行く中で、むしろ数字という一目瞭然の可視化装置を通じて、その圧力は膨脹してすらいるのかもしれない。

 

 あとがきの中で筆者は言う。

「生徒の悩みを聞くという行為は、学習面においては全く意味がないように思えるが、実際は最も効率的な教育行為だ……/誰もが、悩みを聞いてくれる人を待っている。彼らの話に耳を傾け尊重してあげることで、私の話も聞いて欲しいと彼らに要求できるし、私の授業も尊重してくれる」。

 そうして培われた双方向性の実践から本書は紡がれた。

 良き家庭教師とはすなわち、良きカウンセラーである。

 

 思春期に煩悶する、パターナリズムに呻吟する、そんな彼らに耳を澄ませる。

 いかにも美しい話である、しかしどこかしらわびしくもある。

 なぜならこの小説には、学問することそれ自体の楽しさや喜びがひとつとして滲まないから。

「私」が受け持つのは主に英語であるらしい。各々の習熟度に合わせて、カリキュラムを消化しているようだ。しかしその具体的な授業風景はまるで描き込まれない、各人の関心や弱点に合わせた事前準備の様子もない、なぜならば、時給の代償行為としてのそれがテストのためのテスト、仕事のための仕事、試験科目のための勉強でしかないことをおそらくは「私」自身が誰よりも熟知しているから。学歴競争のための科目を厭い、子どもたちへの同情を寄せているはずの「私」が、かえって他の誰よりも学ぶことの価値を毀損する。

 知は力なり、権威から理性へ、そうして開いたはずの近代の扉は実は幻想だった。単にその権威の地位が、父親や教師から偏差値へと明け渡されたに過ぎなかった。評価する側、される側、この非対称性は今日まで何ら揺らぐことはない。だからこそ、そうしたしゃらくさい世界から己を解き放つためにこそ、知性を磨き上げる、一読者の私はそう思う、ただし書き手の「私」はそう考えなかった。かくして自身のうちに何の動機づけも持たぬまま台湾版東大法学部へと進んだ「私」は、熱量の欠片もない点取り虫、AI未満のサルを再生産することしか、あるいはそれすらもできない。

 

 勉強とはまさしく読んで字の如く、勉めて強いられるものでしかない。

 対して字義通りに学び問う学問なるその営みを通じて、人ははじめて主体として思考する己を発見する。

 デカルトの文脈からの甚だしい逸脱であることをあえて承知でこう言おう、我思う、故に我あり、と。

 

 ここに一冊の本がある(実際はkindleだけど)。『僕に方程式を教えてください』という。

 その講義は少年院で行われる。受講者は小学校すらもまともに通っていないような未成年である。分数でつまずく、もしくはそこにすらたどり着かなかった彼らに対してであってさえ、筆者は他のどの科目でもなく数学であらねばならない理由を論ずる。

「論理的思考の視点から、数学教育は生活指導における自分の考え、経験を文章化するための論理的思考の基盤となり、彼らの『内面を言語化』する下支えになる」。

 単に彼らは数学を教えるのではない、自らの「不可触領域」を他者とコミュニケートするための基本を教える。

「心の扉には取っ手は内側にしか付いていません。外側には取っ手がないのです」。

 別に『子供はあなたの所有物じゃない』において、少年院のリアルとは違って、「私」へと開くべき「取っ手」を予め生徒たちが持っていることがおかしい、などと異議申し立てしたいわけではない。「私」がなぜ英語を生徒に向けて教えるのか、というそのモチベーションがまるで見えてこないことがひたすらに虚しくて寒々しいのである。例えば「数という考えそのものが、ものの個性を捨象し、単純な要素に還元して量や大きさを考える抽象的な概念そのもの」であるように、あえて外国語を媒介することを通じて、Iというものが入替可能な何かでしかないこと、I/you/theyへの圧縮を通じて身体や名前といった情報が捨象可能なノイズでしかないこと、SVOSVOCといったフレームに適宜挿し込まれるべき存在でしかないこと、論理や文法に従属する下位存在でしかないこと、延いては世に遍く人格というものが「抽象的な概念」でしかないことを学ぶ契機になる、学問を通じて公正を知る、公平を知る、そうしたマニフェストはひとつとして聞こえてこない。

 仕事のための仕事をこなすだけの「私」と、勉強のための勉強をこなすだけの生徒たちは、絶えず完全に同期化される。

 したいこともない、伝えたいこともない、そんな子どもたちになまじ学歴を授けたところで、本書が切り取った社会の風景を再生産する他に、彼らにいったい何ができるというのだろう。