先生、どうか皆の前でほめないで下さい

 

 わたしはここに、ミール・ロシア語研究所の物語を書き留めようと思う。

 高校3年生から10年以上、多くの時間を費やしてここに学び、のちには教えることになった大切な母校。留学する機会に恵まれず、そもそも大学のロシア語学科に進学することさえ、当初はかなわなかったわたしが、それでもロシア語を身につけ、通訳や教官の仕事に就くことができたのは、すべてミールのおかげなのである。

 ミールには独自の教育法があった。それはごく単純なものだが、その代わり確実に身につく。留学や検定試験では決して得られない成果が、必ず得られるのである。ただしそのためには、教師と生徒が辛抱強く、学習を継続することが前提となる。そのことも記憶しておきたい。

 ロシア語のことしか考えていなかった青春の日々。いま振り返れば、あまりの恥ずかしさにいたたまれないほどなのだが、混乱する現在の外国語教育をもう一度考え直すため、恥を忍んでここに記すのである。

 

 先生、どうか皆の前でほめないで下さい。

 そんな現代に回顧するとき、「音を作る」このミール・ロシア語研究所の教育スタイルというのは隔世の感がある。いや、もはやアカハラパワハラと称される域にすら達しているのかもしれない。

 指導方法はシンプルといえばシンプル。教室内でひとりずつ順番に発音していく、暗唱していく、合格点がもらえるまで皆の前でひたすらに繰り返す、ただそれだけである。

 あえてそのレッスンに特異性があるとすれば、「ロシア人と同等の発音を目指さない」点にある。ロシア語には「ウダレーニエ」という規則がある、つまり、「音節のどこか一箇所が他に比べ強く、そしてすこしだけ長めに発音される」という。ミールのレッスンにおいては「音を作る」べく、この「ウダレーニエ」がカリカチュアされる。「ロシア人よりも大きな声で、しかもウダレーニエはずっと強調しなければならない」。ネイティヴのように話さない、そのことが生徒をかえってネイティヴに近づける。日本語向けに一度カスタマイズされた舌と耳をロシア語になじませるには、ロシア人よりもロシア人らしく話すしかない。YouTubeでは決して提供されることのない何かがミールにはあった。

 週に二回の修練とそのための念入りな予習を重ねていけば、必然的に「発音が驚くほど似通ってくる」。筆者に言わせれば、「そもそも発音練習に個性はいらない。/……訓練を受け、型を作るというのは、そういうことである」。そうして「ウダレーニエ」の誇張された、傍から見ればむしろ「個性」的ですらある、ミール固有の「型」は作られた。

 

「型」あればこその型破り、「型」がなければただの型なし。

 ただ月謝を振り込んで通ってさえいるだけでそれなりの「型」が整うわけもない。教える側も、教わる側も、相当な根気を注ぎ込んでようやっとできあがる。筆者自身が改めて講師に回って実感する、「まさに体力勝負であった」。

 しかしそんな労苦を現代の社会はおそらく認めようとはしない。今日においてこの手法を真似ようものなら、すわ公開処刑として糾弾されかねない。言語という各種規則の集積物において、どこに「個性」とやらが介在する余地があるというのか、そんな問いすらも想定できない輩が「個性」を叫ぶ。いついかなるときも彼らが唱える「個性」といえば、判で押したように無個性な、傾聴に堪えない量産品を超えない。

「日本ではすでに何十年も『暗記教育』が敵視されている。意味も分からず、ただただ丸暗記をするのは無駄であるばかりか、学習者の創造性まで奪うとでもいうように嫌われる。その代わりに、なにやら与えられたテーマを闇雲に調べたり、未熟なプレゼンテーションをさせたりすることが、推奨されるようになった。……

 そもそも基礎的な知識がないまま、なにかを調べたところで、入手した情報を判断することもできなければ、人さまに聞いていただけるようなプレゼンテーションをまとめ上げることも、不可能なのである。殊に外国語学習の初歩となれば、なにか調べるなんて土台無理な話。手持ちのカードがまったくないまま、ゲームをしろといわれても、途方に暮れるに決まっているではないか。だから暗唱して、手持ちのカードを増やすのである」。

 

 もとより少人数編成でしか実践できないミールのメソッドを享受できる生徒は限らざるを得ない。当時にしても道半ばにして心折れた死屍累々は連ねられていたに違いない。あるいは現代の教育心理学は他にもっと適した代替プログラムを提供できるのかもしれない。「それ以外に知らない」筆者の手によるこのテキストは、21世紀のアスレティックにおいてうさぎ跳びを推奨するがごとき徒労でしかないのかもしれない。

 しかし現代の、実学やら自己啓発やらを優先させた学校という名の「オフィス」から量産された、論理という「型」すらインストールしていない、会話すら満足に成り立たない魑魅魍魎の跋扈するさまを見るとき、ミールの泥臭さはどうにもまばゆく映ってやまない。テキストはやがて血となり肉となる。詰め込みを否定した末に生じたその余白を埋めたものといえば、単に肥大した自意識だけだった。

 ミールで暗唱を叩き込まれたことで通訳業務等引く手あまたのスキルを身につけた卒業生たちが共通の「型」を体現してみせていることは、そこで養われた知識がコモンであることを裏づける。翻って、「オフィス」育ちのコモン・センスなき彼ら「いい子」にできることといえば、自らの浅はかな思い込みを絶対視して、無謬性を喚き散らすことくらいしかない。かくして論破なる語は、瞬く間に彼らの決め台詞となった。ポスト・トゥルースに培われた、そんな愚かな権威主義者の頂が、例えばヴラヂーミル・プーチンだった。

 皮肉にも、ミールということばはロシア語で平和を指す。レフ・トルストイのあの長篇小説の表題にもこの語が用いられているという。

 ポイント・オブ・ノー・リターンをとうに越えた新しい戦中にあって、かすかな光明を求めて、今一度コモン・センスを涵養するには、皆の前でやり直すしかない、小さな教室からやり直すしかない、「型」からやり直すしかない。

 

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