眠られぬ夜のために

 

花粉症と人類 (岩波新書 新赤版 1869)

花粉症と人類 (岩波新書 新赤版 1869)

  • 作者:小塩 海平
  • 発売日: 2021/02/22
  • メディア: 新書
 

 

 本書は、私自身が取り組んできたスギ花粉飛散防止に関する研究内容を紹介するとともに、大学院生時代から4半世紀以上にわたって調べてきた花粉と花粉症に関する文献を整理してまとめたものである。理系の研究者である私のような者が『花粉症と人類』などという物語を書いてみようと思い立ったのは、生涯を捧げて花粉や花粉症と格闘してきた先人たちの涙ぐましい努力に敬意を表したいという願いに導かれた結果である。それはまた、かつて憎きスギ花粉を全滅させることを志し、復讐心に燃えて研究に取り組み始めた私自身が、やがて花粉の魅力にとりつかれ、花粉によって映し出される人類史・文明史を描こうと思うに至った個人的な物語とも重なっている。つまり、本書を通じて、これまで不当に憎まれ、忌避されてきた花粉の弁明に努めたいというのが、私の密かな願いなのである。

 

 これ、『花粉症と人類』じゃなくて『花粉と人類』じゃん。

 1章、2章と読みながら、そのようなことをはたと思う。

 試しにそのあたりからランダムにテキストを開いてみる。

 例えば24‐25ページ。

 

 実は日本語で「花粉」の語は、古く平安時代の『古今和歌集』に登場する。……

 残念ながらここでいわれている「花粉」は、病気がちな女性が顔色をよく見せようとして用いていた「おしろい粉」であると想像される。……

 では、私たちが愛してやまない植物の「花粉」の語はいつ登場したのか。管見の限り、それはシーボルトのもとで西洋植物学を学んだ伊藤圭介[1803‐1901]による『泰西本草名疏』(1829)である。……このときに「雄蕊」「花絲(花糸)」「雌蕊」「花柱」「柱頭」「雄花」「雌花」「雄雌両全花」などとともに「花粉」の訳語が作られた。

 

 あるいは36‐37ページ。

 

 記録に残る最初の花粉症患者は誰なのだろう? ……それはアテネのヒッピアスであるという。……

 ヒッピアスの発作的なくしゃみは、この時期に盛りのヒマワリの花粉によって誘発されたという。……

 しかし、このときヒッピアスは70歳前後であり、花粉症にかかる年齢としては、高齢にすぎる嫌いがある。……彼が花粉症だったと言い切るには、因果関係が少しく不明瞭であるといわざるをえない。

 

 系統的な先行研究がどうやらほぼ存在していないらしい中で、古今東西の文献を渉猟しつつそれと思しき記述を丹念に拾っていく、その細やかな筆致はまず感嘆を誘わずにはいない。

 しかし、人に話したくなるような雑学集的な面白みにやがて暗雲が立ち込める。そう、まこと妙味あるその表題に偽りなし、本書はあくまで『花粉と人類』ではなく『花粉症と人類』である。

 果たしていかなる嗅覚か、花粉に起因することすら知る由もなかった人々が、ただしその正体が文明病の類であることだけは感じ取っていた。それは19世紀のイギリス、主な症状はくしゃみや目のかゆみ、間もなく「夏カタル」「干し草熱」と命名されたその季節性の病が観察されたのは専らアッパーとミドルに限られた。バカは風邪引かないよろしく、間もなくこの症例は「貴族病」とのステータス・シンボルを勝ち取る。

 筆者は繰り返し力説する、「変わってしまったのは、花粉ではなく、実は、私たち現代人の方なのだ」と。

「日本人は果たして花粉症になるのだろうか? 欧米の医学事情に通じていた昭和初期の日本人研究者たちは、かつてこんな問いを立てていた。イギリスの貴族やアメリカの特権階級と比肩できるかどうか、不安と期待を覚えつつ調査を進めていた様子がうかがわれる。/……1980年頃まで、花粉症はいまだ珍病・奇病と見なされていた」。そして時は流れ今や、二人に一人は何かしらの花粉に過剰反応を示し、国民病の座を見事獲得するに至る。生育の早いスギの植林が推し進められた政策的な影響も無視はできないが、古くからスギ自体は列島に広く分布していたことを思えば、いかにも奇妙な推移と言えよう。

 多田富雄の論を引きつつ、筆者はこの変化を説く。

「日本人がスギ花粉症になることができたのは、免疫学的に解釈すれば、単に周囲のスギ花粉が量的に増加し、侵入してくる『よそ者』が増えたことによって排除機構が作動するようになったというよりは、日本人の免疫的『自己』の内部にスギ花粉アレルゲンのイメージが内在するようになり、『非自己化』する仕組みが獲得されたといったほうがよい。つまり、『よそ者』であったスギ花粉は、いまや日本人の『自己』と表裏一体をなす『非自己』になったのである」。

 かのノヴァーリスは渾身のアフォリズム集に『花粉』なる表題を与えた。ブラウン運動の発見を物理学にもたらした霊験の源も、他ならぬ花粉だった。知恵の実をかじる経験に似て、「よそ者」としての花粉が織りなす美しいオーラを朗々と謳い得たのも遠い昔、一度文明病に憑かれた現代人はもはや「非自己」としての花粉に苛まれる「自己」を語ることしかできない。

 

うっせぇわ

 

 

 本書ではさまざまな観点から制服についてアプローチした。

 制服はどうやって定められたか制服史を振り返るとともに、いま、制服にとってどういったことがトレンドなのか、制服モデルチェンジの歴史と現在、学校が高校生に着てほしい制服、高校生が大好きな制服、制服メーカーが作りたいデザインなどの最新情報を詳しくレポートした。一方で制服を自由化した学校、自由化から制服を復活させた学校を検証し、制服のあり方について問題提起した。

 最後に、これらをまとめながら制服が教育の世界にどのようなインパクトを与えてきたか、「制服の思想」として考察してみた。

 

 本書内、たまらなく違和感に苛まれた箇所がある。

「服装に関しての具体的な規定はいっさいなく、通学服への指導もまったく行っていません。学校のしおりに、『服装は高校生らしく端正であること』と記載されている程度です」。

「服装や髪型も自由ですが、中学生・高校生にふさわしいものでなけれなりません」。

「服装や髪型の自由さが目立つのですが、我々が本当に求めているのは『内面の自由』です。つまり外から律されるのではなく、自分の中に揺るぎない基準を作りなさいということです」。

 これらのコメントはいずれもが私服通学を認めている学校の校長によるものである。そして、そのいずれもが毎年の旧帝大合格者数上位に名を連ねる名門校である。もちろんそこには「勉強ができるご褒美が私服、勉強できない罰が制服なのか」という一目極めて分かりやすい図式も透ける。

 けれども、読み進むにつれてはたと気づいた違和感の正体はそれではなかった。つまり、ここで校長たちの想定しているだろう「高校生らしさ」といういかにも名状し難いコードが、制服を導入している他校に準じるものに過ぎない、という点にある。より有り体に言えば、忖度を「自由」と言い換えているだけのこと。名門校に通う彼らは、たとえ多少の反発ポーズを呈したところで所詮、偏差値や年収チャートには末永き忠誠を誓う、ここでいう「自由」とは、その前提下で語られる「自由」でしかない。

 

 古来、学問は既存の知識の非自明性を切り崩し、新たなパラダイムを構築することを通じて発展を遂げてきた。理に合わないものを見出す者は必ずや己が知性を異議申し立てのことばへと変えずにはいられない。ところが、そうした理性の歩みの端緒となるべき学校なる現場で、自身の権威を疑う作法すら知らない者が教育を担い、「自由」を語る。

 本書は制服の向こうに万学の礎たる批判的精神の欠如を透かす。

 勉強に専念することと外見などに気を取られること云々の相関性にしても同じ、ここで問われるべきも制服ではなかろう。学問の楽しさを伝えられず、それどころか苦行として強いることしかできない、系統的に組み立てられないから強迫的な丸暗記へと押しやることしかできない、そうした教員サイドの有害性こそが第一に咎められねばならないのに、なぜか彼らは規律強化の手段としての制服論を語り出す。自身に内在する問題については気づく能力すら持たない。

 制服によって貧富の差を覆い隠すことができる、という古典的な議論にしても同様、多少表面を繕ったところで貧困や階級という問題は何ら解決されることはない。

 私服通学を廃止して、制服を導入したとある公立高校の場合、その決断を下した当時の校長が言うことには、「制服をきちんと着てみてほしい。『よーし』ってやる気が出て、しゃきっとなる。学校を背負っているという誇り、学校に対するプライドをもつことができます」。

「プライド」とやらの有無が制服で決まる、らしい、この輩の世界線においては。基礎的な論理力すら携えずに恥ずかしげもなく放言を垂れ流す彼に学校制度と関わるべき適格はあるのだろうか。

 

 そして、生徒はある面、教員の上手を行った。

「『名門校』に生まれ変わるためには、生徒に選ばれる学校づくりが必要となり、そこでは、生徒に選ばれる制服を意識せざるを得なくなった。どんな制服か。俗っぽい言葉でしか言い表せないが、かわいい、かっこいいデザインである。……ここでは管理されているという受け止め方は希薄であり、かわいいものを着ているという意識が強い。……制服の思想において、かわいいという生徒の感受性が、指導という名の管理を駆逐してしまった瞬間だ」。

 かわいいは正義、こうして彼らはジェンダー・ロールの再生産を能動的に引き受ける。

 といって、広報ステーションよろしく、ここでもやはりゆるふわは問題を深化させる助けを与えるに過ぎない。

 制服を着せられた生徒たちは、その多くが大学を経由しつつ、やがて社会へと流れ着く。一度まとった制服の内面化の呪縛は、そうそう解けない。

 遡ること半世紀、その点を花森安治はかの有名な「どぶねずみ」論をもって見事に喝破した。

「このごろの連中は、どういうものか、学校にいるときは、一向に制服を着たがらないでもって、ひとたび世の中に出たとなると、とたんに、うれしがって、われもわれもと制服を着る、という段取りになっているようだ」。

 この伝説的編集者はリクルーターがまとう画一的なルックを揶揄して「制服」と評した。

 自律性も論理的思考も問題解決能力も養われなかった彼らは必然、前例踏襲のマニュアル、縮小再生産を志向する他ない。たかが服装ひとつですらこのありさま、そんな彼らが実務において差別化を果たし得ないとして何の驚きがあるだろう。

 

 筆者の取材に応じた大学教授の弁。

「自分たちの社会は自分たちで作る。それが私たちの暮らす市民社会です。とすれば、自分たちの学校は自分たちで作る、という機会を十分に保証することが、学校の使命だとも言えます」。

 民主主義の練習に頓挫した教育を経て送り出された人々が民主主義を機能させられない、制服型社会の当然の帰結だ。それを見事に暴露する瞬間がある。

「全国の学校に制服の有無、制服の種類を問い合わせたところ、回答拒否がいくつかあった。『職員会議ではかって決めます』という信じがたい対応もある。……制服の有無を答えるのに『主体的に判断』できない。こんなことで、生徒に『主体的に判断』する力を身につけさせることができるのか、と皮肉を言いたくなる」。

 もっとも、私学は専ら積極的に応じてきたという。理由は明快、宣伝の機会と見たに過ぎない。

 

 生徒会の抗議にもかかわらず、論理的な説明もなく一方的に制服の導入を決めた校長は、高笑いを決めてみせた、という。

「校則を変えるというのは校長先生の仕事だから、君たちの意見は関係ないよ」

 なるほど、後の社会でも繰り返されるだろう学習的無力感のインプリンティングとして、この態度はいかにも申し分ないものだ。あらゆる場面で、予め飼い慣らされている人々は、それでもなお抵抗を試みる姿に必ずや冷笑を浴びせてくださることだろう。自らに正のインセンティヴを設定できない彼ら、どうあがいても有能にはなれない彼らにできることといえば、他人を引きずり下ろすことでできる相対的な優位に束の間うぬぼれることだけ。

 かくしてめでたく教育に起因するパフォーマンス低下というツケをいずれ社会は払わされる、いや、既に払わされている。イノヴェーションの定義、次なる時代は学習に基づく失敗への否定を通じて開かれる。校則や制服すらやめられない非合理的な前近代社会に、未来などあろうはずがない。

はじめてのおつかい

 

大正天皇 (朝日文庫)

大正天皇 (朝日文庫)

 

〔1922年〕11月25日、裕仁皇太子が摂政になったその日、宮内省から天皇の病状に関する5回目の発表がなされ〔た。〕……これまでの発表に比べても、かなり詳細にわたる記述である。天皇が生まれてからの病状の推移が、具体的な年とともに細かく触れられている。誕生直後の脳膜炎に始まり、持病の風邪や腸カタルなどさまざまな病気にかかり、壮年期の比較的健康な時期を経て、「大正3、4年の頃」から再び生活に支障をきたすようになったこと、「大正8年以後」は避暑や避寒の期間を延長するなどして静養に努めたが、「御脳力」が日々衰退したこと、天皇の外見的な症状は「末梢機関の故障」が原因なのではなく、すべて幼少期の脳病に端を発する「御脳力の衰退」によることなどが明らかにされている。……健康であったころの大正天皇の記憶は忘却され、生まれながらの病弱な天皇というイメージが浸透していったのである。……天皇の病気を「重大問題」ととらえる牧野伸顕宮内大臣]の危惧は、君主制時の相次ぐ崩壊という対外的危機感によって増幅されていたのである。当時の政府は大正天皇のような、権威を失った「弱い」天皇ではなく、かつての明治天皇の「遺産」を正しく継承しながら、カリスマ的権威をもって国民全体を統合する「強い」天皇を必要としていた。……本書では、政府によって半ば意図的に作り出された風説の向こうにあるはずの大正天皇の実像に迫りながら、最終的には大正を中心に、明治と昭和を含めた近代天皇制全体の見取り図を描き出すことを試みる。

 

 学習院は中退を余儀なくされた、といってただひとりのお世継ぎへの英才教育を免れることなどできようはずもなく、結果、「病気による教育の遅れ→それを取り戻すための『詰め込み教育』→皇太子の健康の悪化→教育の遅れという悪循環が繰り返され」ていた、そんな負の回路に陥った若かりし日の明宮を救ったのが、有栖川宮威仁だった。巡啓に同伴し、その生き生きとした姿を目にした有栖川宮は一計を案じる。「皇太子の健康を回復させるためには、少数の東宮職関係者と相対するだけの狭く堅苦しい空間から皇太子を完全に解き放ち、一般の人々が暮らしている、より広い現実の生きた世界にさらすことが、何よりも必要」と見た彼が企てたのは地方巡啓、といってその「目的は、あくまで授業で学んだ地理歴史を実地に見学することにあるとする。つまり、この巡啓は天皇行幸のような公式の=政治的なものではなく、皇太子の教育の一環として行われる非公式の非政治的な『微行』だというのである」。

 本書の記述の中心をなすのはこの「微行」をめぐる記録。ただしここでの試みは、単に公式文書を改めてさらい直して、それを羅列するだけの作業ではない。

 例えば沼津御用邸での滞在時のこと、猟に出た皇太子は気づくとひとりはぐれ、通りすがりに道を尋ねる。「お茶漬でも食べて行かつせえ」と勧められるも辞退する。相手はまさかそれが皇太子であろうとは夢にも思わない。あるいは新潟では、早朝、宿泊地をそっと抜け出してひとり公園を散歩する。

 それはあたかも『ローマの休日』か『水戸黄門』のワンシーンのよう、しかしそれ以上に、この天真爛漫を前に想起せずにはいられないプログラムがある。『はじめてのおつかい』。小馬鹿にするつもりは毛頭ない、籠の中の鳥が束の間の自由を味わう、その伸びやかさが必ずや見る者、読む者を引きつけずにはいない、その一点でどうしようもなく両者は相通じるのである。そして逆説的に、それほどまでに世間を知らず、否、世間を知らされずにこの時既に父にまでなっていた男の肖像に戦慄を覚えずにはいられない。

 生まれからして禍々しさを帯びる。他に四人の兄弟を持ちながらもすべて生後間もなく他界し、ただひとりの生き残りとして万世一系を託される。病弱の血は彼をも蝕む。数多血の宿命に縛られて苦吟する皇太子が、たかが散歩、たかが日常会話に瞬間替え難き生の充溢を見る。暗雲の切れ間から寸刻射し込む曙光は、だからこそ瑞々しい、だからこそ痛々しい。

 

 そしてもちろん、本書が単に私的抒情詩で終われるはずもないところに、なおいっそうの痛みが走る。

 フィールドワークとして立ち上がったこの行脚の旅がまさか政治性を免れるはずもない。例えば北海道訪問に際して、「皇太子は道内各地で好んでアイヌに接したが、それが彼らをして『和人』と同じ『臣民』としての自覚を促す役割を果たしていたことは、容易に想像できよう」。

 そして嘉仁は海を渡り、朝鮮半島の土を踏む。中でも親密な関係を取り結んだのが、当時まだ10歳に過ぎない韓国皇太子の李垠だった。帰国後も韓国語習得に意欲を見せ、後に李垠が留学で日本を訪れていた際にも度々面会を持ったことで知られる。その彼はまさか、自らが日韓友好を演出する具として持ち出されたことなど知る由もない。もっともその効果はほぼ皆無、どころか火に油を注いだのかもしれない。伊藤博文率いる「統監府は義兵運動そのものを鎮圧することはできなかった。……皇太子が訪れた190710月には107回だった日本軍と義兵の戦闘回数は、11月になると倍以上の265回に激増し、それ以降も毎月200回を超える状態が続いている」。

 

 そして、本書が示すだろう大正天皇の痛々しさは今日へと通う。

 筆者の記述が成立したのは、時の新聞がその言行をつぶさに伝えていたからに他ならない。ここに成立するのは、「天皇が見えない大元帥であり、『現人神』とされていたとすれば、皇太子はあくまで見える人間であった」というその図式。父・睦仁によって具現された見えざるものとしての天皇は、やがて玉音放送をもってはじめて声を聞かれる存在としての子息・裕仁へと引き継がれよう。そしてその間にはさまれる時の皇太子・嘉仁のあり方は、「戦後巡幸で全国を回った昭和天皇の姿を先取りするものであり、それに着目することで、なぜ戦後も天皇制が象徴天皇制として残ったのかという重要な問題が見えてくるように思われる」。

 明治天皇はキヨッソーネの手による「御真影」をもって知られた。大正天皇は新聞その他の写真をもって知られた。そして活動写真をもって広く知られるところとなる皇太子裕仁はやがて、万単位の臣民とともに「旗行列や分列式、万歳、奉迎歌や君が代の斉唱などを媒介としてまさに一心同体となる」。

 時代に応じた天皇のありようは媒体の選好を通じて決せられる。次なる皇族像が媒体を決することはない、媒体が次なる皇族像を決する。

星のかけら

 

  米国で広がる科学不信に迫る取材では、地球温暖化懐疑論を広める保守系シンクタンクを訪れたり、……創造博物館で創造論を信じる人たちの話に耳を傾けたりしました。科学不信の背景を知るために、学会に参加して研究者の講演を聞き、インタビューをしました。

 取材を繰り返すうちに、人は科学的に考えることがもともと苦手なのではないか、と考えるようになりました。人類が進化の末に獲得した「生きる知恵」と、科学が発達した現代社会に求められる「生きる知恵」には、根本的なずれがあるのではないか、と考えるようになりました。

 数百万年にわたる長い人類の進化を考えれば、「ごく最近」といえる時期に誕生した科学に、私たち人類はまだ適応できていないのかもしれません。

 

 本書内にあってもとりわけ興味深い調査結果が引かれる。

「高校の生物学教師の約13%が『創造論』など神が進化に関与したとする説を積極的に授業で取り上げていることがわかった。……進化論をきちんと教える先生は約28%にとどまった。/……残り約60%の先生はどんな教育をしているのだろうか。研究チームが最も問題が大きいと考えているのは、実はこの約60%だ」。

 ある面、「13%」に関しては楽観的に構えていてもそう問題はないのかもしれない。放射性年代測定や博物学等によるエビデンスを黙殺して、論拠なき聖書無謬主義へと没入できるカルト信者の数など、多少の伸び縮みこそあれどんな時代においても、マイノリティの座を脱することはほぼないのだから。

 むしろ本書が指摘する通り、本当に根深いのはこの「用心深い60%」の存在に違いない。ポスト・トゥルースへと突き抜けた「13%」はそもそも会話が通じない物体としてたやすく捨象できよう。しかし、この「60%」を説得するための技法を考えるとなると、これはかえって困難を極める。いかに論拠を羅列して創造論的なるものに対する優位を示そうとも柳に風とやり過ごし、あまつさえ両者を並列的に扱う自身をフェアネスの体現者と信じて疑おうとすらしないのだから。

60%」の作り出すこの光景、進化論が論争の種になるわけでもない日本においてさえもどこかデジャヴュを覚えるものがある。説得的な根拠すら持たないものを「論」として甘やかし両論併記、公平中立などとのたまってはばからない、「用心深い」といえば聞こえはいいが、つまりは論理的であることを自ら放棄した存在としての、そう、メディア、そして国民である。

 Science not Silence. この世界にあって、沈黙は追認以上の意味を持たない。その態度を日和見主義などとは言わない、単に共犯関係と言う。

「『知識が増えると共通の理解に到達してわかり合える』という素朴な教育観の限界」とやらを筆者は軽々に口にしてみせる。なるほど確かに、正論で追い詰めれば追い詰めるほどに反発を誘う、という事象は世間知としてしばしば観察されるものには違いない。しかし、そこには一点根本的な誤謬が潜む、つまり、理論ですらない稚拙な自己正当化にあたかも「知識」の一片を認めようとするその徒労の限りにおいて。

 主意主義か、主知主義か。前者への相対的なバイアスを指して言っていただろう語は、いつしかその字義通りの意味しか持たなくなって久しい。その語の名を、反知性主義anti-intellectualismという。

 

「頑なな心を解かすのは、データではなく、共感なのだ」。

 コミュニケーションを通じて聞く耳を引き出そう、その科学版、いかにも聞こえはいい、そして決して欺瞞を超えない。欺瞞でしかあれない根拠は二つある。

 ひとつ、ありとあらゆる修正主義、陰謀論においてそうあるように、聞くに堪えない戯言にいかに耳を貸してみたところで、相手方からの譲歩は決して引き出されない。マイノリティ差別を考えてみれば分かるだろう、苦しみを訴える声が足りていないとはまさか思えない、にもかかわらず問題の解決は前進どころか隙あらば後退の兆候を示す、この現象において一方当事者の「共感」なき愚昧の他にいかなる理由を求めることができようか。

 ふたつ、「心を解か」し得ない根本的な要因として、科学に限らず、そもそも彼らにはコミュニケーションが足りていない。そのファクトは先の大統領選において改めて示された。レッド・ステートにおいてすら都市部は青く染まり、逆にブルー・ステートにあっても地方部は赤く染まる、人口密度や帰属可能なコミュニティの有無に従って投票行動、思考のベクトルは規定される。気候変動にも進化論にも耳を貸さない彼らには基本的な接触さえも欠けているのに、ことさら科学コミュニケーションの重要性を説いたところで、そのラインにすら立てていない実情を何ら癒すことはできない。

 

 本書のハイライトのようなやりとりが紹介される。

 ある会合でのこと、気候変動をめぐるスピーチの終わりに、男が立ち上がって口を開く。

「あなたの言っていることはわかるけど、私にとっての問題は、政府からエアコンの設定温度について指示なんてされたくない、ということだ」。

 エピソードを披露した教授はこの事象を「煙幕」と命名した。「『規制が嫌いだから』とそのまま言うと、わがままなだけだと思われるので、『地球温暖化の科学は疑わしい』という『煙幕』を使っているという構図だ」。

 

「科学の話をしていたのに、いつのまにか話題は米国の歴史だった」。

 このフレーズほどにテキストを見事に要約する術を私は知らない。反知性主義アメリカ史、世界史の到達点を本書は伝える。

Everybody's Talkin'

 

真夜中のカーボーイ (幻冬舎単行本)

真夜中のカーボーイ (幻冬舎単行本)

 

 

 別れてから一度も会っていなかった高校時代の恋人から、電話があり、頼みがあるので会いたいという。普通は胸が躍るところだろうが、40年ぶりともなると胸騒ぎの方が先に立つ。そして人間、60年近くも生きてくると、嫌な予感はたいがい当たる。……

 東京に出てきているから直接、会って話がしたいという。どんどん不安になって泳ぎはじめた目が、卓上のカレンダーにとまったのはそのときだ。

 そうか、今日は818日か!

 嫌な予感は早くも当たった。40年前、いや正確には39年前のこの日に、俺は最低な失敗をやらかして、二度と会えなくなっただけでなく、彼女の人生まで変えてしまった。そして今に到るまで、詫びのひとつもできていない。

 

 それしきの「嫌な予感」など、前振りですらなかった。再会した彼女は末期ガンに侵されていた。見るも無残に萎びた老女最後の願いは39年前の続き、共に見たロード・ムーヴィーを重ねるように、バイクで目指しそして頓挫した白浜行き。かくして「俺」は彼女とふたり、和歌山への旅路に出る。

 

「わかってへんよね。どこもかしこも、変えんでええことを無理やり変えて台無しにしてばっかしや」

「なんか、どこ行っても何やっても昔ほど楽しないのよ」

「若い子らがボーッとスマホ見ながらラーメン屋に行列してんの見ると、大阪も終わったなって悲しなるわ」

 冒頭から悪辣なまでに畳みかける「昔はよかったね」と「今どきの若い者は」の二本立て。その執拗さにひたすら困惑させられ、そして逆に、と深読みを働かせる。物語文学の定型ならば、起承転結を通じて何かが変わる。ビルドゥンクスロマンというにはあまりに齢を重ねすぎてはいるが、この場合ならば、誰かしら若きトリックスターをふたりの間に放り込んで、少しは見どころあるやんか、と認識の修正を促すといった具合に。なんなら死線をさまようという究極の通過儀礼の末、達観した風だった彼女が、一転生を懇願しはじめる、そんな展開だって描けないことはない。

 古来、成長譚の典型といえば父殺し、しかし彼らが接する若者にもはや克服すべき存在としての親など存在しない。だからエントリーシートの尊敬する人物欄に躊躇なく親族を記す。

 必然、彼らの目に映る世界にあって決して成長など起きない。39年ぶりの彼らが交わす会話といえば、ほとんどが昔の続きのアール・デコや建築論、あるいは80年代の甘美な記憶、挙げ句にはさらに遡って古の熊野信仰にすら行き着く、つまるところ、内蔵メモリの作動チェックに過ぎない。

 もっとも、合わせ鏡のようにスイングこそすれど、互いの何が変わることもない。過去によって繋がれど、共に歩むべき現在も、ましてや未来もそこにはない、だからこそ逆説的に彼女は「俺」を必要とする。変わらない、変わりようもない、なぜなら、「何も変わらないことは不幸ではないが幸せでもない」、モダンの果てをめぐる閉塞が主題なのだから。

 

 ベトナムの傷を去勢モチーフに仮託しただろう1960年代のジョーはバスに乗り込み、ニューヨーク次いでフロリダを目指す。カメラを振れば他の乗客が映り込み、車窓が流れゆく。バックグラウンドを詳らかに語らずとも、ポリフォニーを生成するにほんのワンカットあれば事足りる、そして同時にテキサス・カウボーイの疎外は暴かれる。周縁より迷い込んだ彼にできるせめてもの抵抗といえば、ラジオを抱きしめノイズ・キャンセラに代えることくらい。

 対して失われた現代日本の彼女が用意する移動手段は、真紅のメルセデスのオープン・カー。二人きりのその車内に響くのは、破綻を知らないモノフォニー。

 

 彼女から生前の形見分けとしてカルティエのモデルAを贈られる。もっともそれは故障持ち、「俺」は処遇を考える。

「再び時を刻ませるには部品を交換しなければならないが、あのように美術品としての価値も高い時計の場合、たとえ不動でもオリジナルの部品が揃った状態を保つべきだとする判断もある。

 どちらがいいか彼女の意見も聞いてみようと思っていたが、もはや相談するまでもない。デコの形見となる時計の針は、止まったままにしておくべきだ。一番輝いていた頃の時間を永遠の今に封じ込めておくために」。

 結局、「俺」は最後まで再び時を前に進めるべき理由を見出せない。言い換えれば、病によって予めピリオドを突きつけられた彼女が延命を望む理由などもはやない。なぜならば、社会からは既に流すべき時間など失われているのだから。

 

「何も変わらないことは不幸ではないが幸せでもない」。変わりようのない永遠の現在に吊るされた人々、何が足りないわけではない、何もかもがある、それゆえ「何も変わらない」。

 例えば「海外からの情報が今とは比べものにならないほど乏しかった時代。洋楽邦盤のライナーノートは想像に基づく迷解説、歌詞カードは聞き間違えた原詞をさらに誤訳した珍ポエムの宝庫だった。おかげで聴く側の想像力も膨らんで、あれこれ推測し合う楽しみもあった」。

 欠損ゆえに「想像力」の余地があった、それはつまり、「俺」や彼女が輝けるビジネスチャンスでもあった。「記憶に残るんは結果より過程」、足りないピースがあれば埋めてしまえばいい。そして今は何もかもが足りている、それゆえ何もかもが物足りない。彼らの従事する出版もアパレルも何もかもが再生産を超えない。加わるものといえばせいぜいがコストカットのための奸智。サイジングの失敗を追認するためにでっち上げられたビッグ・シルエット、グッチを典型にあまりの開き直りぶりにもはや神々しさすら錯覚させる丸出しのロゴ――トレンド、すなわち成金向けのおもてなしなどバブルで既に消費済みのデジャヴュに過ぎない。

「最近、80年代カルチャーって評判悪いやん。何も残さんかったみたいにいわれて。ほんでも当時は充分すぎるほど楽しかってんから、それでええやんなぁ」。

 そう、何も残さなかった、ゼロ成長社会を誘発する数多の因子を除いては。

 

 現代の若者にひとつだけうらやましいことがある、と彼女は言う、スマホがあること、そうすれば連絡が絶えることもなかったのに、と。そしてすぐさまそれを打ち消す。ないからこそ生まれるきらめき、今日もしかしたらつながらない、その危うさが恋を恋たらしめていたことに間もなく気づく。

 すべて消費行動に既定のスクリプトを超えるものなどひとつとしてない。リアルのことごとくは難なく掌へと圧縮される。何もかもがタッチパネルで表示可能、置換可能、組織化可能、無知な子どもの夢から覚めて、突きつけられ、宙づりにされ、さりとて死ねない。

 そしてただ一切は過ぎていく。