はじめてのおつかい

 

大正天皇 (朝日文庫)

大正天皇 (朝日文庫)

 

〔1922年〕11月25日、裕仁皇太子が摂政になったその日、宮内省から天皇の病状に関する5回目の発表がなされ〔た。〕……これまでの発表に比べても、かなり詳細にわたる記述である。天皇が生まれてからの病状の推移が、具体的な年とともに細かく触れられている。誕生直後の脳膜炎に始まり、持病の風邪や腸カタルなどさまざまな病気にかかり、壮年期の比較的健康な時期を経て、「大正3、4年の頃」から再び生活に支障をきたすようになったこと、「大正8年以後」は避暑や避寒の期間を延長するなどして静養に努めたが、「御脳力」が日々衰退したこと、天皇の外見的な症状は「末梢機関の故障」が原因なのではなく、すべて幼少期の脳病に端を発する「御脳力の衰退」によることなどが明らかにされている。……健康であったころの大正天皇の記憶は忘却され、生まれながらの病弱な天皇というイメージが浸透していったのである。……天皇の病気を「重大問題」ととらえる牧野伸顕宮内大臣]の危惧は、君主制時の相次ぐ崩壊という対外的危機感によって増幅されていたのである。当時の政府は大正天皇のような、権威を失った「弱い」天皇ではなく、かつての明治天皇の「遺産」を正しく継承しながら、カリスマ的権威をもって国民全体を統合する「強い」天皇を必要としていた。……本書では、政府によって半ば意図的に作り出された風説の向こうにあるはずの大正天皇の実像に迫りながら、最終的には大正を中心に、明治と昭和を含めた近代天皇制全体の見取り図を描き出すことを試みる。

 

 学習院は中退を余儀なくされた、といってただひとりのお世継ぎへの英才教育を免れることなどできようはずもなく、結果、「病気による教育の遅れ→それを取り戻すための『詰め込み教育』→皇太子の健康の悪化→教育の遅れという悪循環が繰り返され」ていた、そんな負の回路に陥った若かりし日の明宮を救ったのが、有栖川宮威仁だった。巡啓に同伴し、その生き生きとした姿を目にした有栖川宮は一計を案じる。「皇太子の健康を回復させるためには、少数の東宮職関係者と相対するだけの狭く堅苦しい空間から皇太子を完全に解き放ち、一般の人々が暮らしている、より広い現実の生きた世界にさらすことが、何よりも必要」と見た彼が企てたのは地方巡啓、といってその「目的は、あくまで授業で学んだ地理歴史を実地に見学することにあるとする。つまり、この巡啓は天皇行幸のような公式の=政治的なものではなく、皇太子の教育の一環として行われる非公式の非政治的な『微行』だというのである」。

 本書の記述の中心をなすのはこの「微行」をめぐる記録。ただしここでの試みは、単に公式文書を改めてさらい直して、それを羅列するだけの作業ではない。

 例えば沼津御用邸での滞在時のこと、猟に出た皇太子は気づくとひとりはぐれ、通りすがりに道を尋ねる。「お茶漬でも食べて行かつせえ」と勧められるも辞退する。相手はまさかそれが皇太子であろうとは夢にも思わない。あるいは新潟では、早朝、宿泊地をそっと抜け出してひとり公園を散歩する。

 それはあたかも『ローマの休日』か『水戸黄門』のワンシーンのよう、しかしそれ以上に、この天真爛漫を前に想起せずにはいられないプログラムがある。『はじめてのおつかい』。小馬鹿にするつもりは毛頭ない、籠の中の鳥が束の間の自由を味わう、その伸びやかさが必ずや見る者、読む者を引きつけずにはいない、その一点でどうしようもなく両者は相通じるのである。そして逆説的に、それほどまでに世間を知らず、否、世間を知らされずにこの時既に父にまでなっていた男の肖像に戦慄を覚えずにはいられない。

 生まれからして禍々しさを帯びる。他に四人の兄弟を持ちながらもすべて生後間もなく他界し、ただひとりの生き残りとして万世一系を託される。病弱の血は彼をも蝕む。数多血の宿命に縛られて苦吟する皇太子が、たかが散歩、たかが日常会話に瞬間替え難き生の充溢を見る。暗雲の切れ間から寸刻射し込む曙光は、だからこそ瑞々しい、だからこそ痛々しい。

 

 そしてもちろん、本書が単に私的抒情詩で終われるはずもないところに、なおいっそうの痛みが走る。

 フィールドワークとして立ち上がったこの行脚の旅がまさか政治性を免れるはずもない。例えば北海道訪問に際して、「皇太子は道内各地で好んでアイヌに接したが、それが彼らをして『和人』と同じ『臣民』としての自覚を促す役割を果たしていたことは、容易に想像できよう」。

 そして嘉仁は海を渡り、朝鮮半島の土を踏む。中でも親密な関係を取り結んだのが、当時まだ10歳に過ぎない韓国皇太子の李垠だった。帰国後も韓国語習得に意欲を見せ、後に李垠が留学で日本を訪れていた際にも度々面会を持ったことで知られる。その彼はまさか、自らが日韓友好を演出する具として持ち出されたことなど知る由もない。もっともその効果はほぼ皆無、どころか火に油を注いだのかもしれない。伊藤博文率いる「統監府は義兵運動そのものを鎮圧することはできなかった。……皇太子が訪れた190710月には107回だった日本軍と義兵の戦闘回数は、11月になると倍以上の265回に激増し、それ以降も毎月200回を超える状態が続いている」。

 

 そして、本書が示すだろう大正天皇の痛々しさは今日へと通う。

 筆者の記述が成立したのは、時の新聞がその言行をつぶさに伝えていたからに他ならない。ここに成立するのは、「天皇が見えない大元帥であり、『現人神』とされていたとすれば、皇太子はあくまで見える人間であった」というその図式。父・睦仁によって具現された見えざるものとしての天皇は、やがて玉音放送をもってはじめて声を聞かれる存在としての子息・裕仁へと引き継がれよう。そしてその間にはさまれる時の皇太子・嘉仁のあり方は、「戦後巡幸で全国を回った昭和天皇の姿を先取りするものであり、それに着目することで、なぜ戦後も天皇制が象徴天皇制として残ったのかという重要な問題が見えてくるように思われる」。

 明治天皇はキヨッソーネの手による「御真影」をもって知られた。大正天皇は新聞その他の写真をもって知られた。そして活動写真をもって広く知られるところとなる皇太子裕仁はやがて、万単位の臣民とともに「旗行列や分列式、万歳、奉迎歌や君が代の斉唱などを媒介としてまさに一心同体となる」。

 時代に応じた天皇のありようは媒体の選好を通じて決せられる。次なる皇族像が媒体を決することはない、媒体が次なる皇族像を決する。