「私」こと辮髪のジョン・ワトソンが名探偵と初めてまみえた際のこと、彼は突然こう言った。
「華先生は新彊の戦場でずいぶん手柄を立てたことでしょう。お怪我をなさったのは、伊犁での戦ですか?」
あっさりと言い当てられたことに開いた口のふさがらぬ「私」を前に、香港のシャーロック・ホームズこと福邇は説明を継ぐ。
「華先生に武芸の心得のあることは一目瞭然、さらに威風堂々とした軍人の気風が明らかに見てとれるから、武官の出身に違いない。生まれが福建ということはわかっているが、顔には久しく砂塵にまみれ、日に晒された苦労の痕が見てとれる。きっと長いあいだ、少なくとも二、三年は故郷を離れ、辺境の地に駐留していたせいに違いない。体の動きからは、左の肩と右脚に怪我をして治ったばかりだとわかる。まだ、半年か一年ほどしかたっていないでしょう。ところで、回教徒が辺境を騒がせ始めて十数年になるとはいうものの、数年前にすでに平定されている。だから、怪我をしたのは、今年の初めの伊犁の領土を奪還したときのことに違いないでしょう」。
――オマージュというべきか、パロディというべきか、インスパイアというべきか、はたまた百周二百周して盗人猛々しいというべきか。
これまでに世界中でこすりにこすられ倒して陳腐と呼ぶ気すらもはやしないほどのこの手の表現を今さらながらに改めて焼き直すためだけに――しかも驚くべきことに、ほぼ各章ごとに初対面の人物を前に同様のくだりが繰り返されるのである――、まさかこの作品が企てられたわけではおそらくはない。
解かれるべき謎などあくまでもマクガフィンにすぎない。本書の真の主役とは、彼らが躍動するその舞台、19世紀末の香港にこそある。
作中、福邇が宣言する。
「人の志はそれぞれです。……兄上から見れば、香港など英国人に割譲してやった辺鄙な所で、国と民族の恥なのでしょう。でも、私は香港が気に入っているのです。中華と夷狄が雑居し、ヨーロッパとアジアが隣りあっているからこそ、香港が好きなのです。私がここに留まろうと決心したのは、西洋のものを中国式に役立てる香港のさまざまな制度を学び、その長所を取って短所を捨て、いつかわが国が強国となり、改革を進めるときに新しい道を開くためです」。
そんな香港を筆者は切り出す。
ゆえに、異邦人である一読者はしばしば置いてけぼりを食うこととなる。
とある事件の鍵を握っていたのが北京官話と広東語のギャップだったと言われても、例えば『名探偵コナン』にしばしば現れるしょうもない語呂合わせが他言語にはどうにも翻訳し得ないだろうように、ただポカンとしている他にできることなど何もない。たぶん香港人ならばたちまちピンとくるだろう歴史的なキャラクターや事件についても、訳注等を参照した上でなお、私個人が咀嚼できたものとは思い難い。
しかしそんな招かれざる客が何を喚こうが、本書の価値は何ら棄損されることがない。
香港の街に「荷李活道」なる通りがある。英語名にしてHollywood Roadという。ヒイラギの木にちなむ、カリフォルニアの映画の聖地にあやかって名付けられたわけではない。この地の気候になじまない受難の荊の象徴が英国人によって持ち込まれ、やがて立ち枯れ、その名のみが残った。かつてあっただろう呼称は抹消された。土地の風土すらも知らぬ侵略者に蹂躙されて、踏みにじられて、それでもなおこの地を愛する、その苦みを分かち合わぬ読者など、書き手はもとより想定しない。
そしてその上でなお、満洲より流れ着いたこのエリートは西洋と東洋を止揚させた「探偵科学」を志向してやまない。
「犯罪事件の捜査というものはね、今風の言い方をするなら、いわば『科学』の一分野なんだよ。それは私ひとりが考えついたものではなくて、昔からあるんだ。すでに南宋の時代には……あった。欧州で似たような著作が発表されたのは、何百年も後のことなんだ。しかるに、後から発展した西洋科学のほうが追い越して、今ではわが中国をはるかに凌駕しているわけだ」。
かつてウィリアム・シェイクスピアが、古のリチャード二世やヘンリー四世をメインに時代劇のかたちを借りて戯曲家当人が生きたその瞬間の世相を切り出さんとしたように、この筆者もまた、1880年代の香港に現代の香港をトレースさせる。そうして香港の読み手たちは、その叫びを己と同期化させる。
朝廷のおこなうことが正しくなかったら、朝廷が天下を正すこともできないじゃないか。……庶民が法律を遵守しなければならないのは当然のことだが、それにもまして、朝廷は綱紀を正さねばならないはずだ。それなのに、朝廷が悪事をなすとはどういうことだ。私は法による統治を信じているからこそ、困難に遭っている人を助け、無実の罪を着せられようとしている人の疑いを晴らすために探偵になったんだ。法による統治によってのみ、大清は国を強くし、安定させ、政治を正して民を安んじることができる。私はそう信じているんだ。
おそらく本書は、ミステリーという形式に仮託してこうしたメッセージを忍ばせるために記された。私のごとき香港の地に通じぬ者にその真意を噛み締めることはできない。