デカメロン

 

 土橋義明は、北海道立衛生研究所に所属する研究員である。……北海道大学で生物学を修めた研究者だ。今年で32になる。

 本来なら独身気ままな生活を楽しみつつ、札幌の研究室で応用動物学の臨床研究に勤しんでいるはずだった。これまで縁もゆかりもなかった礼文島に乗り込んできたのは、ひとえに命じられた職務のためである。

 戦前、昭和11年。小樽に住む女性が膨満感を訴え、診察を受けた。上腹部が膨れていることから肝臓疾患を疑われたが、実際には従来の肝臓病とは異なる病変に冒されていた。……

 エキノコックス症。エキノコックスという名の寄生虫による感染症である。国内での発症例は極めて稀であった。

 その女性の出身地が、礼文島だった。

 エキノコックス症の発症が認められる前から、礼文島にはこの島固有の風土病とされる病があった。……

 その症状は、大人の腹がある日、男女関係なくせり出し始め、まるで妊婦のように膨れ上がり、やがて黄疸が出て死に至るというものだ。エキノコックス症の症状そのものだった。……

 そこで本年[1954年]、礼文島に研究員を一人、長期間派遣して、正確な感染経路をつきとめるための調査、並行してエキノコックス症感染予防の啓発を島民に行うことになったのだ。

 そこで派遣研究員として白羽の矢が立ったのが、土橋だった。

 

 このテキストは、2021年から『小説推理』に連載された作品の単行本化だという。

 それが寄生虫にせよ、ウイルスにせよ、あからさまにアフター・コロナの世界の風景を前提に綴られた感染症文学の典型である。

 もちろん、その感染の仕方はあまりに異なる。エキノコックスにおいては、ヒトからヒトへとその輪が広がっていくことはない。ヒトに寄生して発症するには、イヌやネコ、キツネといった宿主の存在を媒介として要する。

 エキノコックス症が認定されたその直後にあっては、あくまでそれは孤島に固有の「風土病」であると見なされていた。言い換えれば、この礼文島において抑え込むことさえできれば、寄生虫そのものの感染の連鎖もまた、断ち切ることができる。ネズミの絶滅は無謀だとしても、野良を含めたイヌなどの終宿主を全頭駆除できてしまえれば、必然的にヒトへの感染経路は絶たれることになる。

 土橋に託された真のミッションとは、まさにこの浄化作戦だった。

 

 新型コロナにおいても、人々は同様のプランをおそらくは思い描いていた。実際、過去に成功例はあった。発症が確認された地域を隔離した上で、そのサスペクトの網を狭めてやがて感染源を断ち切る、こうしてエボラやSARSパンデミック危機は回避された。

 この小説の中の礼文の人々には、どこかあのダイヤモンド・プリンセス号の光景が――あのお粗末な――オーバーラップせずにはいない。豪華客船でのクルーズツアーの夢はどこへやら、隔絶のために降りることも許されぬままに、さりとて感染爆発を止めることもできず、最終的に死者13人、感染者712人を記録した。

 公衆衛生を錦の御旗にクオリティ・オブ・ライフが差し出される。あくまで「協力要請」の名のもとに飼育されていたペットが召し取られていく、その光景におそらくは読者はあの「自粛」のお願いという意味不明なポストモダン・ランゲージを重ねる。

 

 そして私は読み進むにつれて、ほとんど言いがかりのような仕方で、本書の中に現代に固有の、あるいはコロナよりも余程重篤な病への苛立ちをどうにも隠せなくなっていく。それはすなわち自己責任という病、社会の問題が個人レベルへと吸収されて一見解消されたかに取り繕う、論理と倫理が混同された、愚劣極まるあの病について、である。

 主人公の土橋は、飼い犬の殺処分をめぐって仲違いを余儀なくされた少年のもとに出向いて、そして詫びる。傷心の少年を前に彼は思う、「その原因は、あらゆる道理を飛び越えて、やはり自分なのだ」と。

 たぶん世の中のまっとうな読者はこのシーンに涙を誘われるのである。公衆衛生の大義をもってしても、少年からペットを奪い取った罪は拭えやしない。泣きじゃくる少年の「正しいんだ、って言って、よ」のかすれ声を前に、「正しい。けど、許さなくていいから」と告げて肩を抱きしめる男の姿は、必ずや感動的なものと映っていることだろう。

 邪な私は思わずにはいられない。意味が分からない、と。医学的な正当性の担保された手続を実行したに過ぎない公務員である彼のどこに、良心の呵責とやらを読み込むべき余地があるのだろうか、と。

 たぶんこの問い立ては、筆者においては一貫したテーマとして設定されているに違いない。

「研究者が拠り所とするデータや専門用語よりも、人間の心のありようが見えるデータ」であるとか、「『一般人』がただの対象ではなく血の通った個人の集団であると考えるようになった」といった仕方で、頻繁にパラフレーズを繰り返していることからしても、その点は明らかだろう。

 だからこそ、この問い立ての気持ち悪さがより際立つのである。社会の問題を個人化して付け替えたところで何ひとつ解決しやしない、それどころか「その原因は、あらゆる道理を飛び越えて、やはり自分なのだ」なんていうヒロイズムを振りかざしたところで、現実には問題を隠蔽する作用しか持たない、なにせ少しでもまともな思考力があれば、問題の所在が「自分」ではなく「道理」の正否の他にありえないことなど一目瞭然に知れるのだから。

「感染地域では、飼育県が野ネズミを口にしないよう管理する、手洗いの励行、沢水は沸騰させる、山野草の生食は控えるなどの対策が必須である」、たかがこれしきの対策ですらも、「一般人」という視座を与えることではじめて獲得される。百人いれば百人の「血の通った個人」の暮らしがあって、という相対視の拒絶、抽象化の拒絶をもっては決して引き出すことができない。

 感染症のプロジェクトにおいてあくまで参照すべきは「データや専門用語」であって、「人間の心のありよう」などあくまで科学コミュニケーションを成り立たせるための、日常レベルの実践を促すためのテクニックに過ぎない。「昆布採りの期間中に殺生を嫌がる」という「漁師たちの迷信」にあえて従って剖検を一時停止するという土橋の決断に、営業担当者がクライアントへの表向きの恭順を示すギヴ・アンド・テイクのビジネス・マナーとの相違点はひとつとして見出すことはできない。こんな計算問題は倫理ですらない。

 意味も分からぬまま受けさせられる予防接種を痛がって泣き喚く子どもに、その注射の担当者はいかなる罪悪感を覚える必要があるだろう。

 

 こうした通俗道徳の罪深さは、パンデミックを前にしてこそより重篤な結果を招く。論理に従って規定された法の支配を、人間のあさはかさは軽々と裏切っていく。

 すべて成功は合理性に由来する。すべて失敗は人間性に由来する。

「道理を飛び越え」たければ勝手にそうすればいい。愛着とやらを優先して飼い犬を匿い続けたあげくに、エキノコックスに苦しみもがいて死んでいけばいい。もちろん、彼らは不条理にもその自己責任を背負い込もうなどとは決してしない。せいぜい抑止力といえば村八分への恐れに過ぎない。己が知性に従って最適の「道理」を選び取る、そんな日は彼らに決して訪れやしない。

 明ける日を決して知ることのないポスト・コロナの世界の中で、人々は今日もマスクのひとつもしないまま、好き勝手に遊び歩いていることだろう。そしていざ感染すれば、自己責任はどこへやらで医療機関で大立ち回りを演じてみせる。もちろん「道理」なき彼らは、その不要不急の行動が招いた他害のリスクなど決して認めやしない。タッチパネルよりももっとずっと平板なこの地上を旅することに、感染症パワハラといった各種リスク以上のいかなる意義ももはや横たわり得ない。

「研究と調査とデータで現実を変えていくべき人間が、結局精神論に行きついてしまう」、この肖像に果たして愚かしさの他に何を見ることができるだろう。

 

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