うっせぇわ

 

 

 本書ではさまざまな観点から制服についてアプローチした。

 制服はどうやって定められたか制服史を振り返るとともに、いま、制服にとってどういったことがトレンドなのか、制服モデルチェンジの歴史と現在、学校が高校生に着てほしい制服、高校生が大好きな制服、制服メーカーが作りたいデザインなどの最新情報を詳しくレポートした。一方で制服を自由化した学校、自由化から制服を復活させた学校を検証し、制服のあり方について問題提起した。

 最後に、これらをまとめながら制服が教育の世界にどのようなインパクトを与えてきたか、「制服の思想」として考察してみた。

 

 本書内、たまらなく違和感に苛まれた箇所がある。

「服装に関しての具体的な規定はいっさいなく、通学服への指導もまったく行っていません。学校のしおりに、『服装は高校生らしく端正であること』と記載されている程度です」。

「服装や髪型も自由ですが、中学生・高校生にふさわしいものでなけれなりません」。

「服装や髪型の自由さが目立つのですが、我々が本当に求めているのは『内面の自由』です。つまり外から律されるのではなく、自分の中に揺るぎない基準を作りなさいということです」。

 これらのコメントはいずれもが私服通学を認めている学校の校長によるものである。そして、そのいずれもが毎年の旧帝大合格者数上位に名を連ねる名門校である。もちろんそこには「勉強ができるご褒美が私服、勉強できない罰が制服なのか」という一目極めて分かりやすい図式も透ける。

 けれども、読み進むにつれてはたと気づいた違和感の正体はそれではなかった。つまり、ここで校長たちの想定しているだろう「高校生らしさ」といういかにも名状し難いコードが、制服を導入している他校に準じるものに過ぎない、という点にある。より有り体に言えば、忖度を「自由」と言い換えているだけのこと。名門校に通う彼らは、たとえ多少の反発ポーズを呈したところで所詮、偏差値や年収チャートには末永き忠誠を誓う、ここでいう「自由」とは、その前提下で語られる「自由」でしかない。

 

 古来、学問は既存の知識の非自明性を切り崩し、新たなパラダイムを構築することを通じて発展を遂げてきた。理に合わないものを見出す者は必ずや己が知性を異議申し立てのことばへと変えずにはいられない。ところが、そうした理性の歩みの端緒となるべき学校なる現場で、自身の権威を疑う作法すら知らない者が教育を担い、「自由」を語る。

 本書は制服の向こうに万学の礎たる批判的精神の欠如を透かす。

 勉強に専念することと外見などに気を取られること云々の相関性にしても同じ、ここで問われるべきも制服ではなかろう。学問の楽しさを伝えられず、それどころか苦行として強いることしかできない、系統的に組み立てられないから強迫的な丸暗記へと押しやることしかできない、そうした教員サイドの有害性こそが第一に咎められねばならないのに、なぜか彼らは規律強化の手段としての制服論を語り出す。自身に内在する問題については気づく能力すら持たない。

 制服によって貧富の差を覆い隠すことができる、という古典的な議論にしても同様、多少表面を繕ったところで貧困や階級という問題は何ら解決されることはない。

 私服通学を廃止して、制服を導入したとある公立高校の場合、その決断を下した当時の校長が言うことには、「制服をきちんと着てみてほしい。『よーし』ってやる気が出て、しゃきっとなる。学校を背負っているという誇り、学校に対するプライドをもつことができます」。

「プライド」とやらの有無が制服で決まる、らしい、この輩の世界線においては。基礎的な論理力すら携えずに恥ずかしげもなく放言を垂れ流す彼に学校制度と関わるべき適格はあるのだろうか。

 

 そして、生徒はある面、教員の上手を行った。

「『名門校』に生まれ変わるためには、生徒に選ばれる学校づくりが必要となり、そこでは、生徒に選ばれる制服を意識せざるを得なくなった。どんな制服か。俗っぽい言葉でしか言い表せないが、かわいい、かっこいいデザインである。……ここでは管理されているという受け止め方は希薄であり、かわいいものを着ているという意識が強い。……制服の思想において、かわいいという生徒の感受性が、指導という名の管理を駆逐してしまった瞬間だ」。

 かわいいは正義、こうして彼らはジェンダー・ロールの再生産を能動的に引き受ける。

 といって、広報ステーションよろしく、ここでもやはりゆるふわは問題を深化させる助けを与えるに過ぎない。

 制服を着せられた生徒たちは、その多くが大学を経由しつつ、やがて社会へと流れ着く。一度まとった制服の内面化の呪縛は、そうそう解けない。

 遡ること半世紀、その点を花森安治はかの有名な「どぶねずみ」論をもって見事に喝破した。

「このごろの連中は、どういうものか、学校にいるときは、一向に制服を着たがらないでもって、ひとたび世の中に出たとなると、とたんに、うれしがって、われもわれもと制服を着る、という段取りになっているようだ」。

 この伝説的編集者はリクルーターがまとう画一的なルックを揶揄して「制服」と評した。

 自律性も論理的思考も問題解決能力も養われなかった彼らは必然、前例踏襲のマニュアル、縮小再生産を志向する他ない。たかが服装ひとつですらこのありさま、そんな彼らが実務において差別化を果たし得ないとして何の驚きがあるだろう。

 

 筆者の取材に応じた大学教授の弁。

「自分たちの社会は自分たちで作る。それが私たちの暮らす市民社会です。とすれば、自分たちの学校は自分たちで作る、という機会を十分に保証することが、学校の使命だとも言えます」。

 民主主義の練習に頓挫した教育を経て送り出された人々が民主主義を機能させられない、制服型社会の当然の帰結だ。それを見事に暴露する瞬間がある。

「全国の学校に制服の有無、制服の種類を問い合わせたところ、回答拒否がいくつかあった。『職員会議ではかって決めます』という信じがたい対応もある。……制服の有無を答えるのに『主体的に判断』できない。こんなことで、生徒に『主体的に判断』する力を身につけさせることができるのか、と皮肉を言いたくなる」。

 もっとも、私学は専ら積極的に応じてきたという。理由は明快、宣伝の機会と見たに過ぎない。

 

 生徒会の抗議にもかかわらず、論理的な説明もなく一方的に制服の導入を決めた校長は、高笑いを決めてみせた、という。

「校則を変えるというのは校長先生の仕事だから、君たちの意見は関係ないよ」

 なるほど、後の社会でも繰り返されるだろう学習的無力感のインプリンティングとして、この態度はいかにも申し分ないものだ。あらゆる場面で、予め飼い慣らされている人々は、それでもなお抵抗を試みる姿に必ずや冷笑を浴びせてくださることだろう。自らに正のインセンティヴを設定できない彼ら、どうあがいても有能にはなれない彼らにできることといえば、他人を引きずり下ろすことでできる相対的な優位に束の間うぬぼれることだけ。

 かくしてめでたく教育に起因するパフォーマンス低下というツケをいずれ社会は払わされる、いや、既に払わされている。イノヴェーションの定義、次なる時代は学習に基づく失敗への否定を通じて開かれる。校則や制服すらやめられない非合理的な前近代社会に、未来などあろうはずがない。