本書は、私自身が取り組んできたスギ花粉飛散防止に関する研究内容を紹介するとともに、大学院生時代から4半世紀以上にわたって調べてきた花粉と花粉症に関する文献を整理してまとめたものである。理系の研究者である私のような者が『花粉症と人類』などという物語を書いてみようと思い立ったのは、生涯を捧げて花粉や花粉症と格闘してきた先人たちの涙ぐましい努力に敬意を表したいという願いに導かれた結果である。それはまた、かつて憎きスギ花粉を全滅させることを志し、復讐心に燃えて研究に取り組み始めた私自身が、やがて花粉の魅力にとりつかれ、花粉によって映し出される人類史・文明史を描こうと思うに至った個人的な物語とも重なっている。つまり、本書を通じて、これまで不当に憎まれ、忌避されてきた花粉の弁明に努めたいというのが、私の密かな願いなのである。
これ、『花粉症と人類』じゃなくて『花粉と人類』じゃん。
1章、2章と読みながら、そのようなことをはたと思う。
試しにそのあたりからランダムにテキストを開いてみる。
例えば24‐25ページ。
実は日本語で「花粉」の語は、古く平安時代の『古今和歌集』に登場する。……
残念ながらここでいわれている「花粉」は、病気がちな女性が顔色をよく見せようとして用いていた「おしろい粉」であると想像される。……
では、私たちが愛してやまない植物の「花粉」の語はいつ登場したのか。管見の限り、それはシーボルトのもとで西洋植物学を学んだ伊藤圭介[1803‐1901]による『泰西本草名疏』(1829年)である。……このときに「雄蕊」「花絲(花糸)」「雌蕊」「花柱」「柱頭」「雄花」「雌花」「雄雌両全花」などとともに「花粉」の訳語が作られた。
あるいは36‐37ページ。
記録に残る最初の花粉症患者は誰なのだろう? ……それはアテネのヒッピアスであるという。……
ヒッピアスの発作的なくしゃみは、この時期に盛りのヒマワリの花粉によって誘発されたという。……
しかし、このときヒッピアスは70歳前後であり、花粉症にかかる年齢としては、高齢にすぎる嫌いがある。……彼が花粉症だったと言い切るには、因果関係が少しく不明瞭であるといわざるをえない。
系統的な先行研究がどうやらほぼ存在していないらしい中で、古今東西の文献を渉猟しつつそれと思しき記述を丹念に拾っていく、その細やかな筆致はまず感嘆を誘わずにはいない。
しかし、人に話したくなるような雑学集的な面白みにやがて暗雲が立ち込める。そう、まこと妙味あるその表題に偽りなし、本書はあくまで『花粉と人類』ではなく『花粉症と人類』である。
果たしていかなる嗅覚か、花粉に起因することすら知る由もなかった人々が、ただしその正体が文明病の類であることだけは感じ取っていた。それは19世紀のイギリス、主な症状はくしゃみや目のかゆみ、間もなく「夏カタル」「干し草熱」と命名されたその季節性の病が観察されたのは専らアッパーとミドルに限られた。バカは風邪引かないよろしく、間もなくこの症例は「貴族病」とのステータス・シンボルを勝ち取る。
筆者は繰り返し力説する、「変わってしまったのは、花粉ではなく、実は、私たち現代人の方なのだ」と。
「日本人は果たして花粉症になるのだろうか? 欧米の医学事情に通じていた昭和初期の日本人研究者たちは、かつてこんな問いを立てていた。イギリスの貴族やアメリカの特権階級と比肩できるかどうか、不安と期待を覚えつつ調査を進めていた様子がうかがわれる。/……1980年頃まで、花粉症はいまだ珍病・奇病と見なされていた」。そして時は流れ今や、二人に一人は何かしらの花粉に過剰反応を示し、国民病の座を見事獲得するに至る。生育の早いスギの植林が推し進められた政策的な影響も無視はできないが、古くからスギ自体は列島に広く分布していたことを思えば、いかにも奇妙な推移と言えよう。
多田富雄の論を引きつつ、筆者はこの変化を説く。
「日本人がスギ花粉症になることができたのは、免疫学的に解釈すれば、単に周囲のスギ花粉が量的に増加し、侵入してくる『よそ者』が増えたことによって排除機構が作動するようになったというよりは、日本人の免疫的『自己』の内部にスギ花粉アレルゲンのイメージが内在するようになり、『非自己化』する仕組みが獲得されたといったほうがよい。つまり、『よそ者』であったスギ花粉は、いまや日本人の『自己』と表裏一体をなす『非自己』になったのである」。
かのノヴァーリスは渾身のアフォリズム集に『花粉』なる表題を与えた。ブラウン運動の発見を物理学にもたらした霊験の源も、他ならぬ花粉だった。知恵の実をかじる経験に似て、「よそ者」としての花粉が織りなす美しいオーラを朗々と謳い得たのも遠い昔、一度文明病に憑かれた現代人はもはや「非自己」としての花粉に苛まれる「自己」を語ることしかできない。