わが国では『随想録』などとも訳される、モンテーニュの『エセー』は、世界文学の古典であり、人生の書、英知の書として、その名前はよく知られている。しかしながら、これを読み終えるとなると話は別だ。なにしろ長大なのである。たとえば、わたしの翻訳(白水社)は、全7巻で、注・略年譜なども含めると総ページが2400ページにも及ぶ。……なかなか読み進められない。なんだか、話の焦点が定まらずに、あっちこっちに脱線しているような印象を受けるからだ。実際にそうなのだから仕方がない。「各章のタイトルは、かならずしも内容とは一致しておらず」、「偶然に導かれた」「雑多な寄せ集め」など、モンテーニュ自身が認めているのだから、始末に悪い。というか、本当にそうしたところが『エセー』の究極の魅力なのでもある。
どうやら積ん読の人が多い『エセー』という名著、古典とはそうしたもの、「狭き門より入れ」と突き放していては、ますます読まれなくなってしまう。ここはひとつ、『エセー』の魅力をコンパクトに伝える本が必要だと考えて、本書を著してみた。
世の著作家たちは、なにかしら特別で、いっぷう変わった特徴によって、自分の存在を人々に伝えようとする。しかしながら、このわたしは、文法家でも、詩人でも、法律家でもなく、まさに人間ミシェル・ド・モンテーニュとして、わたしという普遍的な存在によって自分のことを伝える、最初の人間となるのだ。
いやいや、マルクス・アウレリウスやアウグスティヌスはこの要件を満たさないのか、という反証が全くの的外れとは思えない。傲岸不遜とも取れるこの宣誓が後世においてB.パスカルやJ-J.ルソーらの激烈な反発を誘ったのも、本書内で触れられる通りだ。
その上で、モンテーニュの何が新しいというにおそらくは、16世紀を生きたという経験、つまりはグーテンベルクの末裔として活字文化の胎動を背景として書かれた自画像という点に集約される。幼少時よりラテン語を叩き込まれた彼の「ぴったりとは合わない寄せ木細工」を支えるのは、数多の古典よりの膨大な引用。「店の奥の部屋」は、単にボルドー市長をも務めた名士が社交を束の間棚上げして全き「孤独」を得たことを比喩しない。城館の塔にひとり籠もれる彼の傍らには常にテキストがあった。彼にとっての「自由」とは蔵書との交流を指して言う。手書きのパピルスの時代にこの「自由」がどうして享受できただろう。ギリシャの古典は一度ヨーロッパを追われ、十字軍の後、イスラーム世界より再流入する。かくしてユマニスムの扉は開いた。
歴史が生んだ読書人の肖像として、『エセー』の「わたし」は成立する。そしていつしか、読み手は書き手を志向する。古典がモンテーニュを触媒にメタモルフォーゼを欲望したのだ。「モンテーニュこそは、古典が、いや文学作品の本質が、テクストと読書との対話の内に、両者が取り結ぶ関係の内にあって、しかも、その関係性が固定されてはおらず変化していくことを、強く意識した最初の文学者ではなかったかとも思う」。
コピーはコピーではあれない。「師のなかの師」との「関係性」がこの「変化」を如実に表す。「ソクラテスへの言及は、『エセー』初版で16回、1588年版で32回なのに、最晩年の加筆ではなんと66回にもなる」。この印刷術の落とし子をして余人をもっては代え難きと言わしめるその論拠は『パイドン』に凝縮される。
死という事態を前にして、ぴたっと立ち止まり、これを注視し、判断を下すなどというのは、第一級の人々だけがなしうることだ。いつもの顔で死と付き合い、死を手なずけて、死と戯れるのは、唯一ソクラテスのみができることなのだ。ソクラテスは、死ぬこと以外に慰めを求めはしない。彼にとって死は自然で、どうでもいい出来事と思われるから、それをまっすぐに見つめて、よそ見することなく、死ぬ覚悟を決めるのである。