国民精神総動員

 

令和日本の敗戦 (ちくま新書)

令和日本の敗戦 (ちくま新書)

  • 作者:田崎 基
  • 発売日: 2020/04/07
  • メディア: 新書
 

 

 本書では、平成期の30年余りを軸に振り返り、201212月以降の安倍政権の振る舞いを分析し、そして令和の日本が歩むであろう未来を見据えてみる。経済、社会、政治の現場で起こっていることを、層を重ねるように追っていくことで何が見えてくるか。

 この国は近い将来、戦わずして「敗戦」状態に陥るのではないか。これまでに起きた出来事の一つ一つの点を線で結び、時代を立体的に捉えることで、見えてくる構図。それが令和日本の「戦なき敗戦」である。迫り来るその焦土を、私たちは避けることができるだろうか。

 

 筆者によるこの問い立ての答えは、実のところ、既に出ている。

 避けられなかった。

「敗戦」する準備はできていた。

 

 B29を竹槍で打ち落とす、それはまるで臨床の最前線でウイルスから身を守る手段として雨合羽しか提供できない国家、自治体に似る。都構想とやらに基づいて医療インフラを崩壊させた張本人のポピュリストが今日もプロパガンダ報道に煽られた大衆の拍手喝采を浴びる。

「欲しがりません勝つまでは」、かくして「正念場の二週間」は果てしなく引き延ばされる。

大本営発表」、実情の把握すら満足にできない自称専門家会議は時が流れ、装いを変え、エビデンスを欠いた珍妙極まる連想ゲームとしての「新しい生活様式」とやらを垂れ流す。

「ぜいたくは敵だ!」、そしてエンタメ、芸術はなくてもよい産業として糾弾を浴びる。なお、ステイホームをアシストする機能については一切の理解を得られる様子はない。

「鬼畜米英」、今や中華と置き換えられる。人造ウイルスを開発できるハイスペック集団がお粗末な冷蔵庫しか用意できないまま自国に災厄を振りまく、そんな矛盾に感づく知能はない。

 兵站は現地で自己調達、そもそもセーフティネットを放棄した国家に有事における効果的な分配の主体たる実行力など備わっていようはずもない。できることと言えばせいぜい、お友達の不良在庫をコストの見積もりすら明かさぬままに買い上げて、恩着せがましくばらまくことくらい。困窮者が受け取る10万円など家賃で消える、つまりは間接的に不動産相場の瓦解を先延ばす雀の涙でしかない。

 そこにあるのは精神主義のことばだけ、歴史はみすぼらしくも繰り返され、令和日本はかくして敗れた。ウイルスに敗れたのではない。日本が敗れたのだ。コロナ禍は原因ではなく、加速主義のブースターに過ぎない。

 

 今となっては本書の記述のことごとくが、「敗戦」の予兆として回顧の俯瞰を通じて観察される。

「別人の身長を比較して『背が伸びた』と言っているようなもの」、賃金推移、GDP、自殺者数から「桜を見る会」に至るまで――統計や資料の何もかもが粉飾され、隠蔽され、そして国民はそのすべてに目をふさいだ。だが一転、コロナで自らにリスクが降りかかるとなれば、その同じ政府に安心できる正確なデータ、安全を担保する効果的な施策の提示を期待する。

 国民の記憶とは裏腹に、コロナを待たずして経済はとうに失速していた。貿易の前線、港湾の現場では2018年段階で「緩やかな拡大から、横ばいを過ぎ、既に後退局面に入った」ことは観察されていた。その局面で追い打ちをかけるように消費税率が引き上げられ、2019年下四半期の実質GDPは年率換算マイナス7パーセントを叩き出した。こんな市場に中央銀行からの異次元緩和マネーが注ぎ込まれている。「『結局は――』言葉を選びながらこうつないだ。『アベノミクスによって金利が下がり、金が借りやすくなっただけ。国内に底堅い実需があるわけではない。景気が腰折れして後退局面に入ったら、今度こそ日本経済は立ち上がれないのではないか』」。かと言って蛇口を絞ればその瞬間にバブルは弾ける。だから「『簡単に政権批判なんかできない』」。他にも道はあった、ただし今となっては「この道しかない」、そして先には恐慌しかない。

 

 沖縄の基地反対運動のリーダー的存在は眉根を寄せ、私に言った。

「日々の生活が大事なんだ。間違ってはいない。本土の人も沖縄の人も、気が重くなるような情報は聞きたくない、知りたくないこともあるだろう」

 でもね、と続ける。

「そこで惹起されている問題について、全く無関心というのは困る。沖縄の問題、福島の問題、東京の新大久保や大阪で行われている在日韓国朝鮮人を差別する排外の動き。他にも大きな問題がごろごろしている。それでも『知らない、聞かない、関係ない』で済ますことを続けていれば、回り回って必ず自分に降りかかってくる」

 これは遠く異国の地で起きていることではないのだ。

 改めて「敗戦」を振り返るとき、この箴言に圧倒される。

 保守とは本来、歴史に学びを得ることで己が失敗を失敗と受け入れ、漸進的なリフォームを志向する立場をもって云う。国家への愛、ナショナリズムを言うならばまず、自らの郷里が蹂躙されることへの抵抗、パトリオティズムを実践する。さすれば辺野古の地に立つ彼らこそが真正の保守主義者、愛国者の肖像に他ならない。

 

 この「敗戦」は断じて愚かな政府の「敗戦」ではない、それ以前に、それ以上に、愚かな政府を自ら選んだ愚かな国民の「敗戦」なのだ。定年延長問題は難しすぎて理解できない、ただし賭け麻雀となれば下衆ゆえに乗れる、そんな卑しいサルどもの「敗戦」なのだ。そして今日もたわけたサルどもは医療従事者に感謝をなどという実効性ゼロのマスターベーションを通じて自らの善良性を確める。この薄気味悪さに「敗戦」の風景をどうして見ずにいられようか。「一億総懺悔」は速やかな自死をもって果たされねばならない。ファシズムや強権政治、反知性主義、階級化への抵抗、否定はそれ自体において既に偉大なるヴィジョンを形成する、それは奇しくも日本の戦後が不戦の誓いからはじまるように。

 もしあり得たとして、復興の可能は唯一、学びの中にある。

「終わっているなら、始めるしかない」。