センチメンタル・ジャーニー

 

 ジュリアン・バトラーの名前を知ったのは1995年、15歳の時だ。トルーマン・カポーティゴア・ヴィダルを耽読していた僕は、二人と並び称されるジュリアン・バトラーという作家を発見した。戦後アメリカ文学を代表する小説家だが、邦訳は全て絶版になっている。日本では未だ知られざる作家と言っていい。……

 本書はAnthony Anderson. The Real Life of Julian Butler: A Memoir. (Random House, 2017)の全訳である。『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』は20世紀アメリカ文学の裏面史であり、「作家とは誰か」「書くとは何か」をめぐる回想録でもある。

 

 天才は、1パーセントの霊感と99パーセントの努力。

 それはアメリカの全寮制名門ハイスクールで出会った二人、

 一方の彼、ジュリアン・バトラーには、霊感と思しきものがあった、だけがあった。彼が書き上げた処女原稿といえば、「ミススペルが多く、構文は滅茶苦茶……『意識の流れ』の拙劣な模倣のような一人称による無秩序な心理描写で埋め尽くされていたうえに、解読が困難なほど前衛気取りで悪文」、ただし一点、「会話は達者で、機知に富んだ台詞が飛び交っているのは認めざるを得ない」。1940年代において既にシャネルやバレンシアガの女性服を優雅に着こなし夜遊びにふけるジュリアンには、紛れもなく華があった。

 他方、ジョージ・ジョン――のち、アンソニー・アンダーソンを名乗る――といえばステレオタイプの努力型、古典にも歴史にも精通し、やがて名門大学の准教授の座すら射止める彼にはただし、決定的に霊感がなかった。そしてもちろん、人前に打って出るような社交性もなかった。

 そんな二人が手を結ぶ。ジョンの文体と知性にジュリアンが魔法の一滴を加え、そしてあくまでauthorとwriterの関係に置くことなく、ジュリアンのシングルネームで発表する。かくして遠くフランスの地にて上梓にこぎつけた『二つの愛Two Loves』は同性愛小説として空前のセンセーションを巻き起こす。

 

 このジュリアン、多数のメディアにも顔を出し、その発言集もまとめられてはいるものの、生涯に発表した作品といえば、たったの6本にすぎない。すべてが長編小説であり、評論やオピニオンはおろか、短編すら公にしていない。

 巻末の参考文献一覧によれば、いずれもが既に絶版になってはいるが、そのすべてが日本語訳されており、わけても二作目の『空が錯乱するThe Delirious Sky』が吉田健一によって手がけられている点が目を引く。本文中の記述に従えば、『終末The End of the World』はケン・ラッセルが、『ネオ・サテュリコンThe Neo-Satyricon』はオリヴァー・ストーンが、それぞれ映画化している。

 

 以下、これをネタバレと呼んでいいものか、少しだけ考えたふりをしてみる。

 もちろん、こんなベストセラー作家はいない。同姓同名をネット上に探せば見つかりはするだろうが、本書に限りなく近いキャリア・パスを潜り抜けたジョージ・ジョンやジュリアン・バトラーを文学史に求めても、そんなものは影も形もない。上品に言えば例えば村上春樹におけるデレク・ハートフィールド、私がなんとなく直感したのは民明書房刊。あるいは『フォレスト・ガンプ』、トルーマン・カポーティアンディ・ウォーホルの傍らをかすめながら、ただしイタリアに住まう彼らをベトナム戦争は素通りしていく。

 

 ホモ・セクシュアル描写に振り切ることもできただろう、半世紀遅れだけれども。

 ジュリアンとジョージのホモ・ソーシャルのバディ萌えに走ることもたやすかっただろう、今日においてはひどくベタにすぎるけれども。

 しかしそれでもなお、本書はおそらくホモ・ソーシャルをめぐって綴られる、ただしそれは、川本直と彼がメンターとして仰ぐだろう誰かについての。

「ジュリアン・バトラーの小説で文学にのめり込み、ジョージ・ジョンの導きでギリシア・ラテンの古典から18世紀文学、19世紀末文学、そして20世紀の英米小説に親しんだことが僕を文芸評論家にした」。

 天衣無縫なジュリアンを憧れ半分嫉妬半分にその背を追ったジョージにおそらく筆者は自らを重ねる。いわばジョージにとってのジュリアンが筆者にとってのジョージとなる。ひとまず生み出されたこのややこしい入れ子フィギュアに本来宛がわれるべき誰かを私は知らない、ましてや、その誰かとの間に肉体関係が結ばれたかなどと問うべき理由もない。あるいはそれがテキストを媒体としたものであったとしても、誰かしらが筆者に「まず書く前に読むことを楽しめなければお話にならない」ことを教え――もしかしたら着ることも食べることもその人物を経由している――、このミメーシスが彼に小説を書かせた。

「小説は多様な形式を持ち、評論より遥かに複雑な芸術だ。評論家は大抵一つの文体しか持たないが、小説は様々な声を使いこなさなければならない。百の小説があれば百通りの書き方がある。それを読み取るためには一つ一つの小説に内在する固有のルールを理解しなければならない」。

 

「批評家は世界を分析するが、小説家は世界そのものを提示しなければならない」。

 そして本書はその世界の提示に成功する。

「ねえ、ジュリアン。なんで何もかもが決まりきったように消えてなくなるのかしらね。人生ってなんでこんなに忌々しく、下らないんでしょうね」。

 これだけを抜き書けば、いかにもセンチメンタルに過ぎる、安っぽくすらある。けれど本書で出会うとき、たまらなく喉が詰まる。私たちがひとまず生きる世界線においてカポーティの口からは決して放たれなかっただろうこのことばが、しかし小説において束の間、肉声をもって響く、つまり「世界そのものを提示」する。

 

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