聞けば、見えてくる

 

 

 数年前に読んだ小説、All the Light We Cannot Seeのうろ覚え、舞台は第二次世界大戦下のフランス、主人公のひとりは盲目の少女、親族を頼ってたどり着いた疎開先の様子を彼女が把握できるよう、父親が街のミニチュアをこしらえる。彼女はまるで散歩するように、建物や街路樹に指を這わせていく。

 むしろ「見える人にとって、……俯瞰的で三次元的なイメージを持つことはきわめて難しいことです。……人は物理的な空間を歩きながら、実は脳内に作り上げたイメージの中を歩いている」。

 

All the Light We Cannot See

All the Light We Cannot See

  • 作者:Doerr, Anthony
  • 発売日: 2015/04/23
  • メディア: ペーパーバック
 

 

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)
 

 

 本書のテーマは、視覚障害者がどんなふうに世界を認識しているのかを理解することにあります。私が視覚障害者数名にインタビューを行い、対話を重ねながら、彼らの見ている世界のあり方を分析したものです。

 誤解を恐れずにいえば、これも私にとっては一つの生物学なのです。障害者は身近にいる「自分と異なる体を持った存在」です。そんな彼らについて、数字ではなく言葉によって、想像力を働かせること。 そして想像の中だけかもしれないけれど、視覚を使わない体に変身して生きてみること。それが本書の目的です。

 

 

全盲でも美術鑑賞はできる」。

「ソーシャル・ビュー」なるワークショップが紹介される。美術館に集ったグループが、作品について声に出しながら、その意見を述べていく。

 とある印象派絵画の前に立つ。

「ここに湖があります」、そして数秒後、「あれ、よく見たら黄色い斑点があるから、これは野原ですね」。本物の湖を前に野原と取り違えることはまず起き得ない、しかし、うつろう光の瞬間を封じ込めた印象派の手法では、不意に観者に「湖っぽい野原」が表象される。全盲の脳裏で湖であったはずのその景色が野原にスイッチングするその刹那に現れる何か、それはあるいは印象派以上に印象派を志向する。

「みんなそれぞれ、頭の中で作品を作っているんですね」。

「つまりここでは、見えないという障害が、その場のコミュニケーションを変えたり、人と人の関係を深めたりする『触媒』になっているのです。触媒としての障害。見えることを基準に考えてしまうと、見えないことはネガティブな『壁』にしかなりません。でも見えないという特徴をみんなで引き受ければ、それは人びとを結びつけ、生産的な活動を促すポジティブな要素になりえます」。

 

 そうは言っても、何のための視覚芸術か、とふと頭をかすめる。ことばにならない何かを絵画や彫刻にして表現する、そうした前提があまりに軽んじられすぎてはいないか、と。そして再び気づく。「ソーシャル・ビュー」とて、通常の美術鑑賞の作法と別段変わるところはないのではないか、と。

 展示される肖像画が誰を描いたものなのかなどその一枚からはまず知る由もない。ところが小脇のプレートに『自画像』とでもあるだけで、眼前の作品に何かしらの変換が加えられる。音楽室でベートーヴェンの顔を刷り込まれれば、それはもはや絵画である前に、乗り越えがたく「楽聖」の記号と化する。

 見る、と言って、見えているものを問い直す。時の名手がその一枚に施しただろう意匠、例えば衣服の質感の描き分けなど、ほとんどの鑑賞者には知る由もない。美術研究のことばを通じて、はじめて目の前の絵画に何が描かれているのかが見える。絵筆や顔料など、絵画それ自体に表れているはずの何かすらも、実のところ、何も見えてはいない。ところが一度知ってしまえば、もはや呪縛のごとくそうとしか見えなくなってしまう。注釈を眼差すその瞳は逆説的に絵画を忘れる、いや、そもそものはじめから絵画それ自体を捉えることなどできない。

 同じ人間が同じものを見ているはずなのに、ある日を境に、ファッションやメイクが耐え難くダサいものに変わる。何が変わった? 声が変わった。ことばが変わった。

 

「みんなそれぞれ、頭の中で作品を作っているんですね」。

 この作法は、美術品を前に限らず、日常を取り巻く。

 レトルトのパウチを開ける。全盲の人にとって、パスタソースの袋が果たしてトマトなのか、クリームなのか、は開けて試すまで分からない。ところが、ユーモアを通じてその状況を「ロシアンルーレット」へと変える。放置自転車やらの障害物で囲まれた歩きづらい道さえも、ユーモアひとつで「お化け屋敷」に振り替える。

 本書は障害の有無を超えて、人間の可塑性を伝える。ことばを通じて、瞬時に「環世界」を更新する。ことばが変われば、「情報」が変わる、そして「意味」が変わる。