「死の恐怖」

 

 集めた感染症文学を読むと、感染拡大の時期を当事者として生きた感覚や思考が実に細やかに書かれていることに驚いた。今はビッグデータAI人工知能)によって解析され、金科玉条のように人々の行動を規制するようになった。まさに情報化時代の申し子と言っていい。だが、ビッグデータでは個々の人間のことは見えない。それはSNSが十分に代替しているという見方もあるだろうが、たぶんそうではない。

 本書では、感染症文学の歴史的な意義を認識するために、「史料としての感染症文学」という枠組みを提示してみたい。文学は絵空事ではなく、最も重要な歴史的証言であるという認識に基づく。……

 こうして「感染症文学史」を編んでみると、多くの文豪たちが感染症を大事なテーマとして書き残していることに気がつく。だが、時代と寄りそったぶんだけその作品は埋没しやすく、評価も揺れる。それでもやはり、感染症の実態をリアルに伝えるのは公的な統計や記録ではなく、文学ではないかという思いを深くする。文学は確かに虚構にすぎないが、月並みな言い方をすれば、そこにこそ真実があると言ってみたい。

 

「ほんとに此頃の様に肺病だのペストだのって新しい病気許り殖えた日にゃ油断も隙もなりゃしませんの御座いますよ」

「旧幕時代に無い者に碌な者はないから御前も気をつけないといかんよ」

 

 このやり取り、1905年の『吾輩は猫である』の一節だという。開国によってもたらされたもののひとつが流行り病。この程度では腹の虫が収まらないらしく、「運動しろの、……夏になったら山の中へ籠って当分霞を食えのとくだらぬ注文を連発する様になったのは、西洋から神国へ伝染した輓近の病気で、矢張りペスト、肺病、神経衰弱の一族と心得ていい位だ」とさえ「吾輩」に毒づかせる。

 この執筆から間もなく、娘が赤痢を患い、一家は「交通遮断」――今でいう濃厚接触者の隔離――を言い渡される。そして時に、歴史の皮肉でピンチはチャンスに変わる。

門弟による代わる代わるの自宅訪問を拒むための絶好の口実を病に見出した金之助は以後、面会日の限定制度を導入する。これが現在へと語り継がれる「木曜会」のはじまりだという。

 

 感染症、わけても結核と文学といってまず誰しもが想起するひとりが正岡子規に違いない。

 主催する句会の様子を絵画が詳らかに伝える。「正月で寒いはずだが、窓を開けてあり、庭の敷石が見える。密閉を避け、換気をしているにちがいない。子規からは一定の距離を取るように人々が座る。明らかに密接を避けている。八畳の客間なので、残念ながら密集は避けられないが、子規の側には密集していない。まさにソーシャルディスタンス、『3密』を避ける感染予防策が取られているのである」。無論、配慮は客人のみならず家族にも及ぶ。食器はすべて別にする、食べ残しが出てもすべて捨てる、あるいはその禁止項目は例えば切手を貼ったり、筆先をなめるといった行為にさえも及んだ。

 しかし、その慎重な暮らしぶりをもってなお、人恋しさまでをも自らに戒めるには至らない。来客も持ちたい、そしてそれ以上に、文学に命を燃やしたい、その情念を打ち震える痛みとともに新聞連載にしたためた。寝たきりの子規にとって生死以上に問題だったのは、家族による介護だった。彼は病床で気づく。「話でもすればよいが、話すべき材料を持たないので、手持無沙汰で座り、新聞を読ませようとしても、振り仮名のない新聞は読めず、振り仮名をたよりに読ませても、少し読むと読み飽きてしまうと不満を漏らす。『殆ど物の役に立たぬ女どもである』とまで罵倒する。……/そして、『ここにおいて始めて感じた、教育は女子に必要である』と」。

 

 今となっては第一次世界大戦を終わらせたとの説が有力視されるスペイン風邪の猛威が、やがて日本にも上陸する。「死の恐怖」はシビアだった、なにせ東京と横浜だけで一日に400名もの死者を出していたのだから。

 その渦中、与謝野晶子はある気づきに至る。

 

 私は今、この生命の不安な流行病の時節に、何よりも人事を尽して天命を待とうと思います。「人事を尽す」ことが人生の目的でなければなりません。例えば、流行感冒に対するあらゆる予防と抵抗とを尽さないで、むざむざと病毒に感染して死の手に攫取されるような事は、魯鈍とも、怠惰とも、卑怯とも、云いようのない遺憾な事だと思います。予防と治療とに人為の可能を用いないで流行感冒に暗殺的の死を強制されてはなりません。

 

 彼女がこの文章を寄稿したのは1920年のこと、ただし、かくも明晰な「日本人の便宜主義」論に触れる今日の誰しもがコロナ禍に通じる何かを見出さずにはいられない。その読み解きを牽強付会咎める筋はない、なぜならば、世紀を隔てて感染症をめぐる同様の事態と同様の危機を明白に指し示しているのだから。

 ことばを前に、学びを知らぬ愚かしさ、無力感を突きつけられる。同じ教訓をしつこいほどに繰り返す、あるいはその行為に意味はないのかもしれない、学習もなく同じ過ちを繰り返す、それこそが歴史の最大の教訓に他ならないのだから。

 しかし他方で、言い続けることに意味はある、なぜならば現にその過ちは繰り返されているのだから。そして文学に刻まれたさまとひどく似通った仕方で、人々は苦しんでいるのだから。

 テキストを通じて痛みを共有し、束の間のカタルシスへと変換する、文学の文学たる所以が凝縮される。

 病の数だけ文学がある。

 経験のことばが発されるまでもなく制度へとフィードバックされた社会が全き樹立を見るその日まで、とりあえず文学の使命は朽ちそうもない。