Awakenings

 

 

 私は麻酔科医である。私は、患者の意識を消し、記憶を失わせ、時間を盗み、体の自由を奪う。そして、心拍数、血圧、呼吸数を変え、後になってこうした効果を元に戻す。手術中には痛みを取り除き、手術後は痛みが出ないようにする。私は病人をケアし命を救ってきたが、自らの手で治療を行うことはめったにない。麻酔科医として私が手がけるほぼすべての仕事は、手術室にいる他のスタッフから離れた場所――両開きの自動ドアの陰――で行われ、外科医が切り裂き、胃腸科専門医が検査器具を押し入れ、心臓専門医がメスを突き刺すことを可能にしている。私が担当する患者たちは、私を信頼してくれるが、患者と私が引き合わされるのは、たいてい手術や治療が行われる数分前なので、それが終わった後に私の名前を覚えている患者はほとんどいない。

 

 ものすごくラフにまとめれば、麻酔の世界のオリヴァー・サックス。最前線の医学理論やそこに至る履歴をめぐる一般向けに噛み砕かれた概論的なガイダンスを求めているのならば、おそらく本書が用を満たすことはさして期待できないだろう。

 本書において筆者が語り進めるのは、そのすべてが自らの「目で見て、やってみて、教えて」きたこと、ただし、それはよくある成功者自身による武勇伝を示唆しない。読むほどに知らされる、このテキストは自らの責任の下に医療に従事する、その気高き使命感のマニフェストに他ならないのだ、ということを。

 

「この失敗は命にかかわるものではなく、危険ですらない」、せいぜいが多少のタイムロスをもたらした程度のこと、ただし筆者に「コントロール・フリーク」への転身を決意させるには十分なものだった。かのフォーディズムは、医療の現場においてさえも、厳密を担保する手段として導入される。

「注射器の取り違えはきわめて直観的な方法で解決できる。つまり、麻酔プロセスにおいて私が使用する薬剤すべてについて、それぞれの定位置を決めるのだ。すべての手術ですべての患者に関して毎回毎回、同じ方法で注射器に薬剤を充填してラベルを貼る。例外はない」。

 そして断言する。「私がどれだけすばやく穿刺位置を特定できるか、あるいは患者の心拍数と血圧を理想的な数値にどこまで近づけられ、それを維持できるか、という問題に『運』の出番はない。私が目指すのは正確無比なスキルなのだ」。

 

 とはいえ、筆者ヴァージョンのヒポクラテスの誓いの大演説を延々と連ねているだけでは、テキストとしてあまりに能がない。実際に起きた文字通りに具体的なエピソードは、時にそれ自体が巧まざるユーモアを帯びる。

「手術において、運は頼りにすべき相手ではない」、それをモットーとする筆者が、子息を手術室に送り出す段となると、「幸運を祈る」とうっかり声に出しかかる。「私はいつも患者の家族に、手術中待合室で待たないように助言している。……ところが、私は自分自身の助言にしたがうことなく、待合室の沈鬱に打ち負かされていた」。

 麻酔は全米で日に50万回処置される、それはよくある光景の一コマに過ぎない。医師として、筆者自身も30年以上にわたり、延べ3万回以上を経験してきた。ただし、父親としては、その限りにあらず。「ごくごく近しい者の手を離すことは、自分自身がナイフに屈するよりもつらい」。

 ほとんど凡庸なコントのワンシーンのような、平静を保てない己が姿をあえてさらすことで筆者は知らせるだろう、願いもむなしく臨床のリアルにスーパーマンなどいないことを。だからこそ、医療を超えてあらゆる領域において、マジックもミラクルもない「スキルの世界」へと各人は自らを明け渡さねばならない。