シンデレラは眠れない

 

 クラウンは私にとって身体の一部のような存在となった。本書はクラウンと共に40年以上にわたって過ごしてきた私が、日本の道化師の歴史を追いかけたものである。西欧でのクラウンの歴史を踏まえ、日本のなかにクラウンにつながるような道化の原像をさぐり、近代以降クラウンは日本にどのように入ってきたのか、美術や学問のなかでどのように受けとめられていたのか、そして本格的なクラウンの誕生から現在までを概観していく。

 ひとつここではっきりしておかなくてはならないのは、本書でとりあげるのは、「道化師=クラウン」ということである。滑稽を演じる職業役者については、コメディアン、ヴォードビリアン、ジョーカーなどいろいろな言い方があるが、サーカスや舞台で道化を演じるのは「クラウン」である。日本では「ピエロ」という言い方のほうが広く使われているようだが、それは日本独特の受容のしかたであり、正しくはクラウンと呼ばれるべきである。

 

 開けば開いたページの分だけ多種多様な話題が盛り込まれ、情報量は極めて多い。

 これからはショービズの時代、とバブルに飽かせて名だたる企業がクラウンに突っ込んではみるも見るも無残にはじけ飛んでいくその一連の経緯は、本当に日本って金があったんだなあ、という感慨とともにひたすら笑わせてはくれる。ところがそれが一転、失われた数十年の渦中にあっては、精神的に枯れ果てた人々が「変身することで日常生活とは別の世界で、自由を得る」ためにクラウンを志望するようになる。道化師をめぐるこのあまりに見事な盛衰記には、誰しもが少なからずこみ上げるものを感じずにはいられないだろう。

 

 しかし、総じて読んだときに、個々のトピックとしては興味深くあるはずなのに、文化史との表題に足る統合された見取り図として示されることがないがために、ただの並列的に投げ出された箇条書きとしか見えてこない。それどころか、そもそもにおいて、それらが果たして本当にクラウンというひとつのフォルダーに収められるべき話だったのか、という疑義すらも芽生えてしまう。

 例えばかのフェデリコ・フェリーニは、『道化師』のクラウンに仮託したイメージを自ら解題する。すなわち、「優雅、気品、調和、聡明、明晰を代表する」ものとしての「白い道化師」と、「これらの否定的な側面が持たされ」た存在としての「オーギュスト」による相克のドラマトゥルギーとしてのクラウンがここにおいて定義される。陽と陰、正と反、アポロンディオニュソス、なんて堅苦しい話を持ち出さずとも、対照的なキャラクター同士をぶつけ合うことで推進力を与えるという物語作りにおけるあまりに古典的な手口がここにおいても繰り返されているに過ぎない。

 そして他方で、例えばとある日本人クラウンが師匠に告げられたということばを伝える。曰く、「クラウンは別の生き物じゃない。でも普通の人よりちょっとユーモアのある人がこの仕事をやっている」。

 果たしてこの両者は、「クラウン」なる語の定義を共有していると言えるのだろうか。

 定義が変わることそれ自体は何ら問題ではない、そうした移り行きのターニング・ポイントを示してみせることこそが、およそ文化史というフレームワークにおける典型的な作法のひとつなのだから。ただし、本書においてはそのような調停が図られる様子はほとんど見られない。「クラウン」というラフなタグづけのもとでかき集められた情報がひたすらに羅列されるばかりでつながりが見えてこない以上、物語としてのフックが生じることもなくただ素通りしていかざるを得ない。その状態で「クラウンが必要なのは、クラウンの使命が、ただ人を笑わせるためだけにあるからではない。笑いの向こうに、喜びや希望を届けることにあるからだ」などと熱弁されても、いかにもカギカッコつきの「いいこと」を言っている感以上のものがもたらされることはない。

 

 皮肉にも、紐づけるための示唆はばらまかれている。例えば「三番叟」なる能に現れるという「黒い翁」なるフィギュアをめぐる引用。「神のごとく振る舞い、威儀正しく祝詞を述べる『白い翁』に対して『黒い翁』は、どぎつい、対抗的な想像力を突き出している。……その顔面は黒く、さらにも源流に近づくごとに、祝詞を言わされるその『口』が無残にゆがんでゆく。黒い翁に象徴される『被差別民衆』の心は、……日本芸能史の暗部に知られざる系譜を形成した」。

 この対立図式、必ずやフェリーニのクラウン論を想起させずにはいない(というよりも、ニーチェやらのドラマトゥルギー論が半ば常識として膾炙している結果なのだろうけれども)。そして「被差別民衆」となれば、数多の絵画に描かれるようなフール、宮廷道化師の系譜――本書では極めて軽くやり過ごされた――に思い及ぶことだろう。この点だけでも透けて見える、腰を据えてクラウンを語りだしたらおそらくは神話や差別といった構造論を果てしなく展開していく他ないのだ、と。ならばむしろ、深みを避けて浅瀬でたゆたう、という本書の選択は至って賢明と称されて然るべきですらあるのかもしれない。

 結論として。新書一冊で道化の系譜学をたどるという企画意図からして無理があったのだろう、としか思えない。