のっけからかまされる。
死体の第一発見者の「彼女は朝食のおかずにするダイコンを抜くために、自分の畑へ行った。……息子はダイコンおろしなどなくてもサンマは食えると言ってくれたけど、昨夜来の嫁の仏頂面がどうにもおもしろくないから、ひとかかえ持ち帰ってやるつもりでいる。どだい五人家族にサンマ二十匹とは、どういう料簡なのだろう。安かった安かったとぬかしておるが、あれは性根が悪いから、大根を一本でも多く消費することを考えて、夕食の買い物をしてくるに違いない。だから晩飯のとき食べきれずには、朝食もまたサンマで、弁当のおかずもサンマだなんて、みっともない結果になる。いったいサンマにダイコンおろしなんて、だれが思いついたのかしらんが、おれたちはそげな喰いかたはしちょらんかったぞ。サンマはサンマ、ダイコンはダイコンじゃ」。
ノンフィクションでここまで書けばただの嘘、フィクションだから許される。
現実ならば、間もなく彼女に訪れるだろう惨殺死体発見の衝撃を前にしては、諍いに明け暮れる嫁姑の日常などたちまち吹き飛ばされざるを得ない、いや、そもそも誰も訊こうとすらしない。呼び水はほんのささいなこと、ところが思い出すにつれ自ら不機嫌を倍加させ、ついには怒りへと沸騰する、誰にでも起きるだろうそんな情動が文体に乗り移る、既に短編小説の風格を帯びた老女に読み手は苦笑半分引きずり込まれる。
そしてこの点こそが、本書の真骨頂をなす。物語を抱えているのは何もシリアル・キラー榎津巌だけではない。むしろ通常フィクションであればこそかえって、モブキャラとして片づけられてしまうだろう彼女にも物語はある、いや、彼女たちにこそ物語がある。だからこそ、それこそ事件でもない限りドキュメンタリーにおいては肉薄されることもない、ありふれた人々のありふれた日常がある日突然に破れてしまうかもしれない、殺人というその事態に慄然とおののく。
その中にあってさえ圧巻のペーソスを残す女性が登場する。かつて男と関係を持ったストリッパー。コンタクトを取ってくるのでは、と連日劇場に警察が張りつく。そして彼女は衣をまとわず舞台に上がる。観客を前にあられもなく両足を開くと、膣に収めていた金色のロザリオ――かつて榎津から贈られた――をおもむろに取り出し、自ら鎖を首から下げる。女はあくまで万が一のおとりに過ぎない、たかがわいせつ物陳列罪程度で指名手配犯を捉えるチャンスを逸しては元も子もないことなど分かっている、けれども、「あたし自身が逮捕されたかった。そうすれば楽になれるような気がして」、そうして今日もライトに裂け目を晒す。
空虚な中心は、ミラーボールとして周囲を映し照り輝けど、自らへのフォーカスを許さない。
ランダムに開いてすら各ページにアンソロジーのごとく物語が埋め込まれたこの濃密なユニヴァースにあって、実のところ、最後まで杳として知れない存在がある。他でもない、榎津巌である。
事件の発覚から七十余日、ようやく逮捕された男は連行される車中、「低い声でなにやら歌っているのだった」。刑事から注意されても男はやめない。「唇をわずかに動かして、目を閉じた彼が口ずさんでいるのは、民謡にしてはテンポが早く、歌謡曲にしては音程が低すぎる」。
取り調べ中も、独房内でも、あるいは悪夢から覚めた後にも、気づけば彼は少し歌っていた。
「唱える文句はわからず、口ずさむ本人にも意味のとれないことば」、後に明かされるだろうその正体はあえてここでは触れない、しかし、この歌が通奏低音としてダークヒーローを包囲する。
捜査の網をすり抜け続けるそのマタドールは、読む者の喝采すら誘わずにはいない。時に大学教授、時に弁護士になりすまし、果ては裁判所に潜り込んで寸借詐欺を働くその大胆不敵。といって用意周到な計画性には程遠い、それが証拠にせしめた金も次から次へと溶かしてしまう。さりとて行き当たりばったりというにもあまりに巧み、姿を隠して逃げ回るどころか、口先三寸の限りを尽くし津々浦々を渡り歩く。ことばひとつで人々を踊らせる類稀なるその才覚、世が正業と認めるセールスで一旗を揚げることくらいたやすかったろうその知能犯が、不意に牙をむき粗暴の極みたる殺人にためらいなく手を染める。日本犯罪史にあってもその両極性において類例を見ない行動の履歴は追える、ただしその意志決定のメカニズムとなると筆者の想像をもってすら及ばない、翻弄される周辺を執拗なまでに描き出すことしかできない。
あるいは、こう見立てた方がいいのかもしれない、筆者は事実、男の感情論理を捉えているのだ、と。「唱える文句はわからず、口ずさむ本人にも意味のとれないことば」に誰よりも振り回されているのは、実は榎津巌に他ならないのではないか、と。
底が抜けている、ゆえに底が知れない。その闇の奥を見事に射貫く。