狂うひと

 

波 (新潮クレスト・ブックス)

波 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 はじめは何とも思わなかった。海がいつもより少しホテルに近いように見えた。それだけだった。……

 彼女が波を見たのはそのときだった。「たいへん、海が入ってくる」そう彼女は言った。私はうしろを振り返った。そんなにすごいことには見えなかった。警戒するべきことにも。大きな波の白い波頭が見えるだけだった。

 でもいつもは部屋から波が砕けるところは見えなかった。海が目につくこともほとんどないくらいだった。長い砂浜が水に向かって急な傾斜をつくる先に、わずかな青い輝きが見えるだけだった。いま、波の泡がその傾斜を上ってきて、部屋と水際との中間くらいにある背の高い針葉樹に近づいていた。……

 それから、白い泡がもっと増えた。そして、もっと。……

 泡が波に変わった。ビーチの端が隆起したところを波が飛び越えてきていた。これはふつうじゃない。海がこんなに中まで入って来たことはなかった。波が引かないし、砕けない。もっと近づいた。茶色で灰色。茶色なのか灰色なのか。波が針葉樹をすごい速さで通り越して私たちの部屋に近づいてくる。波が突撃してくる、突進してくる。突然、猛烈に。突然、脅威となって。

 2004年ボクシング・デイのスリランカ、そうして筆者は家族を失う、夫と二人の息子、両親を同時に。そうして筆者はただひとり生き残った。

 

 災害の深い傷を心に負った書き手による自叙伝、とてもデリケートな主題を扱う。ネガティヴと受け取られかねないようなコメントは差し控えるべきだろう、と常識的には考えられる類のテキスト。

 悲劇のヒロインぶっている、などと誹謗中傷を並べるつもりは断じてない。嘘つきだ、などと糾弾するつもりもない。ただし、本書の構造上、内包されざるを得ないとある違和感がどうにも引っかかって離れない。

 

 その違和感は例えばこんなシーンに典型的に現れる。津波から一年弱、生家をオランダ人に貸し出すことを弟が決断する。「あそこにいさせるわけにはいかない、と私は誓った。私たちの家は神聖だ。取り戻さなければ。でも、どうやって?/怖がらせることができるかもしれない。追い出せるかもしれない」。深夜にクラクションや呼び鈴を鳴らす、幽霊を思わせる無言電話をかける。「いじめ始めてから、私の毎日は生き生きした」。

 このころの筆者はどうかしていた、おそらくそこに虚偽はない。しかし、どうかしている精神状態を一人称で綴るその文体が、ひとつとして、どうかしていない。うまい、それゆえ、うまくない。「弟はスリランカに住んでおらず、私は家を管理できる状態ではなかった。彼には家を貸す他に選択肢がなかった」というまっとうな判断のつく「私」と、そんな道理さえ通らない「私」が、同じ「私」という語によって紐づけられる、そして結果、はなはだしい齟齬が生まれる。書く「私」、書かれる「私」。精細な筆致をもって絶えず読者に映像を喚起し続ける「私」、おそらくはそんな色のある映像すら持たなかっただろう「私」。リアリティあふれる文体は、必ずしもリアルを捉えない。

 ことばさえ持てなかった筆者が、再びことばを取り戻すまで――一人称の回顧録という構造が、その主題を予め先回りしてしまう。もし仮に終始、明晰なスタイルと豊富なボキャブラリーをもってアルジャーノンがことばを紡ぎ出したなら……。

 

 それでもなお、この主題に呼応する瞬間は訪れる。

 津波から六年、ようやく彼女は両親の記憶を語り出す。それまで「私は息子たちとスティーブ[夫]に心を集中させていた」。彼女は自責する、「私の悲しみに序列があったこと、それは何て忌まわしいことだろう」。両親についてのことばを取り戻すことで、彼女はひとつ前進の道筋を得る。

 熱帯雨林をハイキングした記憶は、聞こえていたはずの子どもたちの声がもう聞こえない、あったはずのものがない、それを再確認させられる体験だった。しかし、欠けているものばかりを数えていた彼女にあるとき、そこにかつてあった別の音の記憶が蘇る。「遠くでふつふつと聞こえる声がクークーいう声や轟くような声になり、そこにインコのけたたましさと夜鶏のクルッククルックという声がちりばめられる。その上にさらにジツグミのフルートのような声が乗り、もっと高音でムシクイの甲高い笛のような声」。まだ「聞くのは耐えられない。でもいま、鮮やかに思い出せる」。

 そして彼女は洋上にいた。目的は未だ見たことのないシロナガスクジラ、息子が決してその目で知ることのなかった。「彼らの不在が私に押し寄せた。……私はその先にいるクジラが消えてしまえばいいと思った。ヴィクがいなくてはクジラには耐えられない」、はずだった。「でも数キロ先でまたひとつ霧のような潮吹きが誘いかけてきて、野生の神秘を求める気持ちが私を負かした」。

 奇しくも英単語serendipity、すなわち思いがけぬ僥倖を指すこのことばは、本書の舞台セイロンの地をその由来とする。

 過去を語ることばを思い出す、やがて未知のことばを獲得する。ひとりの被災者の再起をめぐる記録を超えて本書は必ずや教えるだろう、豊かな日々は豊かなことばとセレンディピティによって作られることを。