ソウルフード

 

 日本の給食史を漫然と眺めているだけでは、中途半端な概説史に堕してしまう。それを避けるためにも、とくに下記の5つの視角から給食史をとらえたい。

 第一に、子供の貧困対策という視角。/……給食はその誕生からずっと貧困対策であり、防貧対策であった。経済成長期以降、飢えはなくなったから給食を合理化せよという意見が強くなったが、そのときも含めて給食はずっと家で満足に食べられない子の唯一のまともな食事でありつづけた。

 第二に、「災害大国の給食」という視角。/……史料を収集整理しているうちに、関東大震災から現在に頻発する自然災害に至るまで、日本の給食は度重なる災害の経験抜きには発展しなかったことがわかった。……

 第三に、運動史からの視角。/貧困児童を救うための給食の誕生、関東大震災後の給食の普及、敗戦直後の給食の試み、学校給食法の制定、センター方式の阻止、学校栄養職員や調理員の地位向上、僻地の完全給食普及、それらはすべて政治家や官僚や学者だけではなく、教師、学校栄養職員、調理員、保護者、ジャーナリストたちの運動がなければありえなかった。……

 第四に、教育史からの視角。/敗戦後、給食は主として文部省、現在は文部科学省の管轄になるが、それは教育政策の一環だからである。……教育の教育効果とはどのようなものか、これは古くて新しい問いだ。……

 そして第五に、日本の給食史を世界史のなかに位置づけ直しながら考える、という視角。/……なんといってもGHQ公衆衛生福祉局の給食政策と、吉田茂政権下のアメリカとの小麦交渉は、敗戦後日本の給食どころか、従来の食生活パターンを根っこから変えた。日米関係史のなかで、給食は、日米の対等な関係性の象徴であるよりはむしろ、アメリカの日本に対する慈悲深さとしたたかさの象徴であり、食の管理と市場開拓という不均衡な力関係を例示する存在となった。日本農業の食糧自給率の低下の大きな原因も給食から浮かび上がる。

 

「先ずパンを与えよ、然れば次に国民に必要なものは教育である」。

 イギリスでも、ドイツでも、アメリカでも、そして日本においても、給食の導入を促した大きな要因はいわば富国強兵の一環だった。労働市場にせよ、徴兵にせよ、社会的な動員を基礎づけるライフライン設計をめぐる給食史としても十全に本書はその読みがいを担保する。仮にサマリーの作成を試みるならば、丹念に調べられたそれら制度史のターニング・ポイントを拾い集めていくことに専ら注力すべきなのだろう。

 しかし本書には、それだけではこぼれ落ちてしまうだろう肉声がある、システム構築の横紙さえも突き破って目の前の子どもたちのために粉骨砕身した人々の肉声がある。

 GHQ統治下にあって時の大蔵大臣、ミスター・貧乏人は麦を食えこと池田勇人は給食を「社会主義」だと公然と言い放った。社会の基礎インフラの構築さえも拒む輩が愛国者を騙るこの図式は、寸分たがわず現代へと引き継がれる。大阪、横浜、名古屋……自治体首長の資質と給食のクオリティは正の相関を有する、そう信じるに足る根拠は出揃っている。効率性を追い求めれば、1兆円超のマーケットを食い物にするハイエナどもの餌食になるか、もしくは行政スリム化のアイコンとして市場そのものが淘汰されるか、いずれにせよ、とうの昔に良貨は悪貨によって駆逐されていただろう。

 しかし現状、辛うじて徳俵にかかとを残す。世のムーヴメントにあえて抗い、限られたリソースの中で日々良貨を提供せんと奮闘する、名もなきヒーローの姿がそこにあった。ゆえに本書は胸に迫る。

 

 終戦間もなくのこと、「おなかがへった、たべるものがないといって、学校を休む子どもはザラでした」。現場の教員は学校給食の再開を文部省(当時)に訴えるもののなしのつぶて。そして彼らは、自ら材料をかき集めて、生徒の飢えを満たす。「家事室に先生方があつまり、黒い岩塩をくだき、ひとにぎりのうどん粉やトーモロコシ粉をあつめ、農家からもらったキャベツやネギ、肉屋からもらってきた牛骨などをつかって、電熱器でパンを焼いてみたのです」。

 高度経済成長に沸き立つその時代、岩手の僻地を襲った凶作は大量の欠食児童を生み出した。現地に足を運んだ新聞記者は目の当たりにしたその事実を報じた。予算はついた、しかしそれだけでは足りない、「調理員が休みのときは教師が給食室に入って調理を」し、「自動車が走れるように林道を整備拡張したり、通学する児童がパンを交代で運んだり、ある分校では母親が交代で給食を調理したり、給食費の払えない保護者は野菜や薪を学校に持ち込んで代金のかわりにしたりした」。結果、「『トリ目』の傾向が弱くなり、運動で転ぶ子が減った。シラクモ……や口角炎などの皮膚病の子も導入前より少なくなった。体格も向上し、踏み台昇降、懸垂も全国平均を超えるようになった」。ただしその一方で件の記者は、「地元の村長と教育長からは、お前のおかげで自分の村にまだ欠食児がいると全国に知れわたり、村の恥になった、と面と向かって叱られた」。

 宮崎のある小学校では、「給食に陶器の食器しか用いない。長い入院生活で無味乾燥なアルミ食器に閉口した学校長の発案だという。……『陶器に替えたら、それまであった食べ残しが、ウソのようになくなった』という。/……『アルミと違ってこわれやすい。それで子どもたちがていねいに扱うようになり、ものを大切にする情操教育にも役立っている』と、教師の評判もよい」。

 給食の地産地消にいち早く取り組んできた今治市の場合、「市場仕入れの野菜を洗うのは2回だが、有機野菜は1回多く洗う。調理機械を使えない大きさの不ぞろいな野菜は、手作業で皮をむいたり切らなければならない。調理員も通常より手間と時間を費やしている。それでも、子どもたちのためだから、不満はほとんどない」。

 とある保育所にて、筆者が直接栄養士とヒアリングを交わす。「これまでの仕事で一番うれしかったのは、ある保育所で子どもと一緒にお菓子を作ったとき、やんちゃな男の子が『これ、お母さんにつくってあげよう』と言っていたこと[。]……『給食とは何ですか』と聞いたところ『笑顔です』と即答してきた」。

 

 筆者は全国を飛び回り、そしてしばしば給食を共にし、エピソードに耳を傾ける。ひとさまに出して何ら恥じるところのないクオリティは、その出来事によって証明される。誰しもが味わったことがあるだろう、外食で地雷を引き当てた際に流れる、あのテーブルのいたたまれなさ、気まずさを。家庭でも、教室でも、それは同じ。

「生存だけでは、最低限度の動物としての条件にすぎない。動物ではなく人間として食べる以上、そこに加わる効果、とくにおいしさや楽しさも享受することはなんら贅沢ではない。学校給食が飼育ではなく、児童生徒が家畜ではなく、未来を作る主体であるならば、そこに真っ先に豊潤な予算が割かれてもおかしくない」。