「まだ二十一じゃなくて、もう二十一さ」
書店でバイトする「僕」は静雄とふたりアパートで暮らす。理由その一、「静雄がたとえ、ひとことも口をきかなくても、僕はあいつの肉体が植物のように苦にならなかったろう。女といてもそんな気持はめったに味わえなかった。だから、静雄は僕の友達だったのだ」。理由その二、失業保険で食いつなぐ静雄にも「僕」にも金がなかった。なけなしの金もほどなく酒と競馬に溶けていく。
本屋勤めといって文学青年の趣もない。唯一買う本といえば映画雑誌、目当ては新作ポルノのグラビア。芥川の話をはじめる、といって小学校の教科書と母親の口伝えによる、ひどくぼんやりとした記憶。静雄は言った。
「水の底で死んで苦しんでいる人間に、蜘蛛の糸をたらして助けてやるなんて最低だ、最低の考え方だよ、地獄におちた奴にチャンスなんかいらない、僕ならほしくないね」
この世には、文脈が読み換えてしまうテキストがある。
おそらくは1981年におけるカンダタ、希望を見失った若者たちの群像劇を描き出していただろう、表題作「きみの鳥はうたえる」。
といって、約40年を経た今日の人々はここにさしたる悲壮感を読み解くことはおそらくできない。金の無心をすれば、ごねる素振りを見せつつも、貸したのかくれたのかさえはっきりさせないまま、「僕」のポケットに5000円をねじ込むは、あっさりと股は開くは、のご都合主義の女神、佐知子の存在が現代の用語ではメンヘラとしか形容できないという問題はさておこう。当時においてすら大いに疑問符がついただろうこの人物造形がもはや気にもならないほどに、今となっては、彼らの暮らしぶりから「地獄」の痛々しさが滲まない。
若くしてアルコールに溺れるよりない日々、といえば壮絶な匂いがしないこともない。ただし、酒をくらうのは専ら行きつけの飲み屋でのこと、言い換えれば、彼らは束の間安らげる居場所を買うことができる。どうしても見たい映画というわけでもないのに、オールナイト上映にさらっと金を落とす。どうということのない移動にタクシーを使う。ソーダ・ファウンテンに出向く、「そこだと、とても愉快なことにコーヒー一杯で、サービスにテーブルに置いてあるジャガイモをたらふく食べることできたからだ」、今ならばすかさず突っ込みが入るに違いない、ジャガイモを買って家で調理した方がどう考えてもコスパがいいだろう、と。そして自己責任ということばとともにこう宣告される。
「地獄におちた奴にチャンスなんかいらない」。
これは筆者のリアリティの設定をめぐる落ち度ではない。ぜいたくは敵だ。現代の日本はそれほど貧しくなった。昭和の末に誰がこんな巻き戻しを予期できただろう。
先に発表された、世界の子どもの幸福度調査に興味深い項目がある。フルーツを食べる頻度と幸福度に高い相関が見られるという。ビタミンやミネラルなどのパフォーマンスはそう芳しくない、得られるものといえばほぼ味わいから来る満足感だけ、家計がコモディティを外れたその出費を許す生活環境にある、という指標なのだろう。
そして小説の中の彼らは、果汁したたる桃をかじりながらビールを口に流し込みキスを交わしセックスをする。
1981年の読者は、彼らに幸福を見ただろうか。2020年の読者は、彼らに暴力衝動を見るだろうか。