死貝文書

 

 豊かな温泉と果樹の恵みに溢れた豊饒なる甲府盆地は日本屈指の保養地でもあるが、古来より農民を中心に「水腫脹満」なる原因不明の病に蝕まれてきた。

 水腫は水ぶくれ、腹に水がたまるところの意から名付けられたらしい。

 老若男女を問わず、水腫脹満に冒された者すべてがあの世行きになるわけではない。

 だが、太鼓腹となって全身の皮膚が黄色くなり、痩せ細り、介護なしで動けなくなったら、確実に死ぬことを甲斐の人々は幼い頃から見聞きしてきた。……

 古き時代より、散々、甲府盆地の人々を苦しめてきた、この奇病。歴史を繙いてゆくと、意外や意外、水腫脹満に似た奇病が、日本全国、点々と浮かび上がってくるのである。

 

 忍び寄るスリリングな死の影、快刀乱麻を断つごとく謎がひとつずつほどかれていくこのカタルシス――

 そこにはまるで推理小説、それもとびきりの一級品、を読むときに味わう快感が走らずにはいない。Wikipedia三大文学というパンチラインに誘われたが最後、引きずり込まれるように読みふけりながら、ふと我に返りはたと思う。文字通りに理性の推論をもって奇々怪々なるパズル・ピースを並べていきコトを解決へと導いていくことが推理小説なるジャンルの定義であるとするならば、この自然科学系ノンフィクション作品は紛れもなく資格を十二分に満たしている。

 しかも、その解決の仕方というのが誰の目からも単純にして明快なのである。

 例えば、感染ルートを特定するために導入された動物実験である。川が怪しいとするコンセンサスはあった上で、それが果たして飲水を通じた経口に由来するのか、はたまたかぶれにあらわれるような経皮から来ているものなのか。それを割り出すために、この明治の傑物たちはウシを用いて対照実験を設計する。煮沸した水しか口にできないグループ、制限をかけないグループ、皮膚をズックで隠して水に触れないグループ、制限をかけないグループ、この条件をクロスさせることで真相は必ずや浮上する。はたして結果は、「経口感染を予防した甲グループがかかり、経皮感染を予防した乙グループと丙グループはまったく無病、どちらの感染も許した丁グループは当然のごとく感染」、こうして経路が割り出される。そこに統計学的に有意な誤差云々という小うるさい話はいらない、条件づけから結論に至るまで何もかもが明晰判明、STEM教育としてもほれぼれするほどに見事。

 こうした自然科学的なプロセスに、ひとりの天才の霊感が万事を解決するというような子どもじみた妄想の余地はない。合理的であるからこそ市井の読者を含め万人によって了承される、そうした万人の英知の積み重ねと不断の努力によって成り立つ、科学の科学たる所以を本書は伝える。諸説を立てて喧々諤々の議論を闘わせる中で、難病の克服という同じゴールに向かって力を合わせる、研究者たちによるそのさまはどこかブラザーフッドのバディもののテイストすらときにまとわずにはいない。

 

 記録をたどれば『甲陽軍鑑』にもそれと思しき言及が確認できる。実は、岡山や筑後川流域でも古くより同様の奇病の存在が住民の恐怖を誘ってはいた。とはいえ、何かしらの有効な手立てが講じられていたわけではない。

 転機は明治維新、ここにおいて本格的に持ち込まれた西洋医学のアプローチが、五里霧中の怪死にかすかな光明をもたらす。自然というものを知りたければ、アリストテレスに当たるでもなく、聖書を開くでもなく、実験してみればいい、解剖してみればいい、観察してみればいい。権威が倒れたその後で頼れるものは理性だけ、ポスト・ガリレオ・ガリレイ、ポスト・レオナルド・ダ・ヴィンチルネサンス啓蒙思想が、遅ればせながらに日本にもようやく上陸する、その試金石が「水腫脹満」だった。

 ただしここにも近代化をめぐるひとつの皮肉がある。

 政府がこの病に本格的に着手せざるを得なかったきっかけは、徴兵検査だった。この甲府盆地にあっては「発育不良者が多く、年齢のみ重ねているものが少なくないのだ。17,8歳というのに体格も顔付きも10歳前後である。髭も陰毛も生えていないばかりか、思考力さえも子どものままだ」。この症例が「片山病」と呼ばれていた広島においても、近隣エリアの「無病地の不合格者は31人で7%であるのに、有病地の不合格者は50人で42%もあったのだ」。

 それが富国強兵であるにせよ、食糧増産であるにせよ、お国のためというミッションがなければ、もしかしたらこれらの命は見向きもされなかったのかもしれない。そして、篤実なる医師たちには奮闘の機会すら与えられていなかったのかもしれない。

 

 こうした先人たちの努力を通じて、「日本住血吸虫症」は駆逐された。結局のところ、決め手となったのは、この寄生虫の中間宿主となるミヤイリガイを河川から消し去ったことだった。もっとも、この貝のみをピンポイントに狙い撃ちできる薬剤など存在していない。緩やかな流れを好むこの貝が住むのに適さないコンクリートで固められた溝渠は、他の虫や魚にとってもそう居心地のよい場所ではない。

「ミヤイリガイを殺せ、と殺貝剤を撒いた結果はどうだったか、と。小川という小川、水田の中を走る小さな流れもコンクリート化したことで、春の風物詩のメダカもいなければ、オタマジャクシも見られない。子どもがこれらを追いかける水遊びの光景は他県では普通の光景でも、山梨や広島、佐賀、福岡のかつての日本住血吸虫症の流行地にはないのである。……/かつてはミヤイリガイとホタルの生息地はほぼ一致していた。もちろん、殺貝剤の散布後には、ホタルも姿を消している」。

 さりとてまさか私たちは、川の精によって命を召された、などという素朴な祈りの時代へと戻ることなどできない。

 人新世をめぐる葛藤、ここにもうひとつの近代科学の反映がある。

 本書が明らめた最大のトピックとはすなわち、甘くも苦い日本近代化の歩みだった。

 

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