変えよう。

 

 よく考えてみると、選挙は不思議なものである。典型的な選挙では、有権者の約半数は敗れた候補に投票している。過半数の得票を得て当選する大統領はめったにおらず、また多党制のもとでの議会選挙では、最大政党の得票が40%を超えることはめったにない。さらに、多くの人は当選した政治家に期待を裏切られている。要するに、私たちのほとんどは、選挙の結果、あるいは、自分が票を投じた政治家の仕事に失望しているといえる。しかし、選挙の後ではいつも、支持する候補が次の選挙では勝って期待を裏切らない働きをしてくれる、と期待する。期待と失望、失望と期待の繰り返し。何かが変だ。……

 誰がどのように統治するかを選択する方法としての選挙を評価すべきであるとは、どのようなことなのだろうか。選挙の長所、短所、限界とは何だろうか。本書の目的は、これらの問いに答えることである。

 

 本書において提供される議論はむしろしばしば、選挙に出向かんとするその足を遠のかせかねないものですらある。

 筆者が調べ上げたところでは、「現職が立候補する場合、1788年から2008年の期間の2949回の選挙のうち2315回、つまり79%41のオッズ比)の確率で、現職が勝利していた。……選挙による政権交代は、現職が選挙で敗北するよりも稀である。入手可能なデータである2583回の選挙のうち、政権交代が起こったのは544回で、これは4.75回の選挙につき1回という頻度である」(ただし、ここで言う「選挙」がいかなる類のものであるかについては注釈含め示されていない)。

 つまり、政権交代などそうそう起きやしない。なにせ「選挙に関するルールは結果を左右すること、選挙はいくつかのルールに従っておこなわれる必要があること、そして、現職はこれらのルールに対して不釣り合いに大きな影響力を持っている」。官僚機構も動員できる。メディア規制も活用できる。カネも集まってくる。しかも最終手段としての不正の余地も残されている。「競合的な選挙が『公正』であるわけではない」。先のアメリカ大統領選挙はルール・メイキングをめぐる格好のサンプルを提供する。投票所の設置基準、郵便投票の可否、連邦最高裁人事、挙げ句の果てには、現職が自身の勝利をもってカウントをやめろ、と絶叫した。

 お題目の上では、「政府に『アカウンタビリティが課されている』とは、政府が市民の最善の利益に沿って行動しているかどうかを市民が見極め、適切な制裁を与えられることを意味する。つまり、市民の最善の利益のために行動している現職を再選し、そうでない議員を選挙で敗北させる場合である」。しかし現実には無論、情報の非対称の壁が横たわる、なんならデータくらいどうとでもチェリー・ピッキングできてしまう。さらに「私たちは多面性という問題に立ち戻ることとなる。与党は多くの政策に対応するが、市民が与党をコントロールするにはたった一つの手段、つまり投票しかない」。用紙に書かれるのはあくまで個人名か、政党名。有権者各人におけるプライオリティが、景気なのか、格差なのか、ジェンダーなのか、教育なのか、環境なのか、そのような意思を伝達するチャンネルなど用意されてはいない。

 選挙が再分配を促進する、なぜなら貧しき側がマジョリティを占める有権者は自らの利得最大化を求めて投票行動を決めるから。このテーゼについても実際の運用においてそのようなファクトが確認されることはほぼない、と言う。「第一に、所得が不平等である程度は、政治体制が違ってもあまり差がない。一人あたり所得がどのレベルであっても、民主主義のほうが独裁よりも不平等の程度が低いというわけではない。したがって、競合的な選挙が所得格差の縮小につながるという理論的予測は満たされない。第二の事実は、さらに不可解である。民主的な政府においては、所得の不平等が非常に低いところから中程度に上昇すると、政府は税制や政府移転によって所得を再配分するが、すでに不平等の程度が高い場合には、不平等が進むと逆に再配分が少なくなる」。所得の高低と投票率は強い相関性を示す、経済的不平等と政治的不平等は限りなくパラレル、ならば既得権サイドから見た最適解はたやすく導出される。パトロン向けに政策誘導をかけてその見返りとして組織票や献金を受け取り、そして同時に、ジリ貧の零落層には不参加という仕方で事実上の信任票を投じさせる。それは対抗馬の訴求力の有無に由来しない、単にすべて人間なる計算可能コンテンツは社会の関数を決して超えない、というその一例証に過ぎない。

 究極に原理的な話をすれば、いかに選挙結果に一喜一憂したところで、官僚機構全体の中で投票を通じて決定される人間の頭数など微々たるものでしかない。「郵便物が届かない、先生が学校に現れない、警察が賄賂を受け取っている、といった状況を想像してみよう。あなたは何ができるだろうか」。行政の実務を司る公務員と政治家の距離はあまりに遠い。さらなるそもそも論を加えれば、良くも悪くも、仮にも法治国家なる体裁を備えているのならばむしろ、トップの首がすげ替わる程度でパフォーマンスが一変することなどあってはならない。

 

 経済状況もこれといって変わらなければ、役所仕事が揺らぐこともなさそうだ、合理的な意思決定ともどうやらあまりつながってはいないらしい――というか、「合理性」の定義すら誰もシェアしない――、おまけにわざわざ投票に行ったところで、ほとんどの場合は知ってか知らずか現状を追認させられるだけ。

 選挙で何かが劇的に変わることを期待するのならば、少なくとも本書による限り、その望みは見るも無残に打ち砕かれることだろう。事実として、変わりやしない。

 それでもなお筆者に言わせれば、ないものねだりの果てなき政権ガチャ回しには徒労を超えた意味がある。本書がたどり着くあえての選挙の意義とは、むしろ変えないことにこそある。

「支配者(個人、政党、派閥)が選挙ではなく力ずくで権力を掌握した体制において、選挙をまったくおこなわない場合には、彼らが力ずくで排除されるまで、その支配は平均20年続くという分析結果がある。支配者が野党を許容しないながらも選挙をおこなっている場合には、25年継続する。また、ある程度競合的な選挙をおこなった場合には、クーデタやその他暴力的な政権奪取まで46年かかる。これに対し、選挙で少なくともいちどは平和的な政権交代を経験した場合には、暴力的な政権奪取は87年にいちど起こるだけである」。

 筆者がたどり着いた回答は、暴力革命、ましてや無政府状態を回避するための「平和的な紛争処理」の手段としての選挙だった。

 さらに続けて言うには、このプロセスが「平和的」であり続けるために大切なのは、「その選挙において『賭け』られているもの、つまり、勝った側の政策と負けた側がもしも勝っていたら追求しただろう政策との差が、少なすぎても多すぎてもよくないという点である」。2018年に著されたこの説は、議場乱入事件の試練にあずかる。それを受けての日本語版に寄せたコメントによれば、「与野党それぞれの支持者が失うものや、政府内の役職者の負けのコストが高すぎる場合、暴力を伴ってでも、現職は権力を維持しようとし、野党は権力を握ろうとするだろう」。劇場はやがて激情へと変わる、かつて過熱を冷ますための交渉術をもって謳われた政治の世界は、怒りに基づくヒートアップのインフレ競争の場へと書き換えられた。割れ鍋に綴じ蓋、国内対立の険しさは南北戦争以来の水準とまでささやかれる中、ひとたび無法者を招き入れてしまった「コスト」はかくも高くついた。ジョン・マケインが亡くなればバラク・オバマが弔辞を読み上げ、コリン・パウエルの死に際してはジョー・バイデンが哀悼の声明を捧ぐ、この事態を決して理解できない犬笛の支持者は今なお、不正選挙によって結果が奪われたことを妄信して疑わない。

 意思表示手段としての数多欠落にもかかわらず、こうした「コスト」を支払うことなく「平和的」に暮らすための術としての「選挙は、支配の限界を明らかにすることで政治的暴力を減らす」。

「過去にいちども交代を経験したことのない国では、次回選挙で政権交代が起こりうる確率は12%にすぎない。過去にいちどは選挙での政権交代があった国では、この確率は30%となる。過去に二回の交代を経験した国では、次の選挙で政権交代が起こりうる確率は45%」となる。

「つまり、選挙による政権交代が繰り返されると、それは日常的なものになる」、本書のロジックに従って言い換えれば、国内的な平和と安定が日常的なものになる。

 現実には、安全保障のリアリストを僭称する統合失調症患者の被害妄想とは裏腹に、外敵が国を焼き尽くすこともなければ、ましてや同性婚や別姓夫婦が国を解体へと向かわせることなど万に一つも起き得ない。ただし、翼賛体制はいとも簡単に国を滅ぼす。

 国を守るとは何か。国を愛するとは何か。

 変えないためにこそ、変えなければならない。