妖怪ウォッチ

 

  誰にも注目されないどころか、行われたことすら知られていないマイナーな地方選の現場を1人で自由に見て歩き、住民からの聞き取りや資料の発掘を通して日本政治の奥の奥、そこに映る「にんげん」の本性にまで肉薄しようと試みた。選挙の民俗学、首長の文化人類学とも言えるだろう。私が訪問先として選んだ七つの町と村は北海道から九州まで、地域も規模も風土もそれぞれに異なるが、いずれも国が主導した「平成の大合併」に抗い、独立独歩の行政を営んできたという共通点がある。……

 そういった土地には、オンリーワンの進化論を追求した立志伝中のリーダーが存在した。国や県と互角に戦える政治力を身に付け、村人たちを食わせるために経世済民のあり方を突き詰め、戦後の地方自治制度を辺境に根付かせてきた。独自の戦いを続けた彼らは、都会の言論人から「変人」扱いされる向きもあったが、現地の人々には愛され、頼りにされた。

 だが、淀む水には芥が溜まる。

 ガラパゴスの住人たちは辺地での暮らしの安定と引き換えに、選挙による変化というものを封印した。私が訪れた町や村では多選首長が存在し、役場の権力を駆使することで、政敵が生まれる芽を摘んできた。その結果、無投票当選、つまり、不戦勝が続いた期間が異常なほどに長い。……

 私は今回の旅を通して、たくさんのチャレンジャーに出会った。ムラ社会の空気を読まずに名乗りを上げ、変わらない、変わろうとしない過疎の集落に、捨て身になって風穴を広げようとする人たちである。彼らや彼女たちもまた、周囲からは「変人」と見なされていた。

 

 このレヴュー、実は幾度も書き直しを重ねている。

 野暮ったくも読後の結論を先に述べれば、まず間違いなく、この『地方選』は私にとっての今年のベストブックになるだろう。これほどまでにページを繰る手の止まらない書籍にそうそう巡り合えることはない。

 ところが、困ったことに、書けども書けどもこの興奮をまるでテキスト化することができない。試みはするものの、私にときめきを促しているはずのまさにその要素が、ディスりの箇条書き以上の意味を含んでいかない。極力抜き書きで済ませようとしても、原文のその魅力が不思議なほどにスポイルされていく。跳ねない、どころか文が死ぬ。

 言い訳もそこそこに、以下に連ねる数字について、これが果たして何を意味しているものなのか、手はじめに予想してみていただきたい。

 77.06

 86.36

 86.21

 88.97

 84.95

 85.84

 70.91

 驚くなかれこれらの数字、本書に取り上げられる7つの町村において行われた直近の首長選の投票率である(本書の登場順に従う。無投票は除く)。このいずれにおいても、取材班に足を向かわせるような、自治体の命運を決するテーマが争われたわけではない。この程度の数字は、複数の立候補者が手を挙げさえすれば、おしなべて平均的に叩き出されているのだ。

 さりとてここに前書きで引かれる、「地方自治は民主主義の源泉であるだけでなく、その最良の学校である」との格言の具現を見ることはできない。なぜなら、自分たちのことは自分たちで決める、との民主主義の精神とはおよそ対照的な「被護と随従のポリティクス」(高畠通敏)こそが、この高投票率を支えているのだから。それが証拠に、というべきか、国政選挙においては同等のアベレージが記録されることは決してない。

 原子力施設を抱えるある町の選挙を訪れる。事前に想像していたような、賛否をめぐる熱戦の気配は欠片もない。さりとて観光などの産業振興が争点となることもない。すべて雌雄は「親戚の数で決まる」、そう支援者は豪語する。

 ある村では、しがないコンビニ店員が二度目の挑戦にして見事村長の座を射止めた。しかしこのシンデレラ・ストーリー、蓋を開けてみれば何のことはない、役場と農協の代理戦争に担ぎ出された傀儡に過ぎなかった。

 ある島の民の言うことには、「地区の行事に補助金が出ても、『世話になった』。村のグラウンドを借りても、『世話になった』。診療所を利用しても、フェリーに乗っても、『村長に世話になった』」、かくして親子二代のこの村長、先の選挙で遂に10選を果たした。この「住みよい北朝鮮」において、「世話」といって原資はもちろん税金である、しかし彼らはそんなことなど思いも至らない。

 まるで前近代のおかみを称えるこの感覚、しかしこれが現代の日本においてなおも営まれていて、なおかつその体制の追認選挙に人々が唯々諾々と、どころか自ら嬉々として出向いては、「世話」の恩を票で返す。

 もはやホラー。もはや怪談。

 名著『地方の王国』の上梓から30年余、昔々あるところに、ではなく、昭和を超えて令和の世にそんな集落が現存する。血液が逆流するようなこの疼き、身の毛がよだつとはまさに本書を指して言う。

 

 そしてこの「選挙の民俗学」を彩るのは、怪談の世界にふさわしくいずれ劣らぬ「変人」改め妖怪たち。

 できるものならぜひともその顔ぶれを紹介していきたい、ただし、私の手にかかると、たちまちその霊性は削がれてしまう。世に傑物とされる存在のことごとくがそうあるように、彼らが用う妖術の正体など所詮、パワハラパワハラと、そしてパワハラ、すべて「絆」なる語は、これ以外のいかなる事態も意味しない。陰口うごめくその街で、やがて朽ち行くその街で、ただし「ドン」と呼ばれる彼らのパターナリズムは今日も変わらず崇拝を浴びる。

 妖怪は一日にしてならず、仰ぎ見るその視線がもののけを世界に現出させる。実際には妖怪なんてどこにもいない、そこにはただ大衆によって語られる噂のみがある。その耳で聞くこともない、その目で見ることもない、風土を知らぬ一読者には、その地のビリーバーの熱狂と溶け合うことなどかなわない。

 古代の遺跡から発掘された、現代の常識をもっては説明のつかないアイテムの使用法について、呪術やまじないというマジックワードで煙に巻かれる、そんな民俗学的めまいにしばし誘われる。観察者は決して同化しない、ただしその不可知性ゆえにこそたまらない疼きがそこに広がる。政治ドキュメンタリーとしての絶望、フィールドワークとしての愉楽、この両者が異物をめぐりせめぎ合い昇華する。