若い読者のみなさんにとって、「政治」はあまり身近な事柄ではないとお考えではないでしょうか。
国会議事堂や霞が関で、一部の「偉い」大人たちが行うことであって、みなさんとはあまり関係のないこととお考えではありませんか。
ところが、実は、「政治」とは私たちの日常生活の中で毎日のように経験することなのです。……
「政治」とは、国会議事堂や国際機関で行われていることだけではありません。
「権威」として現れる存在に服従することや従順であることが要求される状況は、すべて「政治」なのです。
学校の先生は、正当な指示をしたり処罰をしたりする限りでは、生徒にとって「権威」として立ち現れています。
しかし、先生に服従したり従順であることが間違いであると考えられる場合には、不服従の意思を表明する必要があるのではないでしょうか。……
本書では、「政治」という現象を、「服従」や「従順さ」、そしてそれとは反対の「不服従」や「抵抗」というキーワードを中心に考えてみたいと思います。
新書にあっても極めて平易な言葉遣いを意識して綴られたこのテキストにあって、何を措いても非常に印象的なのは、持ち出される例示のその幅の広さにある。政治思想書や古典文学からドラマに映画に歌謡曲、それらが生み出された時代にしても古代ギリシャから現代に至るまで、たかだか200ページ強の新書としては異例の密度を誇る。
例えばアンティゴネ、例えばヴィルヘルム・テル、例えば『学問のすすめ』、それらがある共通項に従って並べられる、つまり、「政治」であり、「(不)服従」である。
「権力と良心の対立こそは、不服従をめぐる思想的な問題の代表的なものです」。言い換えれば、古今東西同じテーマを反復しながらも克服されぬまま今日へと引き継がれてきた、という苦い歴史がテキストには否みがたく滲む。その極みがナチスドイツ下での「白バラ抵抗運動」、大学構内で体制批判のビラを撒いた廉で学生数名が良心に殉じて処刑に屈した。現在進行形の話、香港では民主派が一掃され、軍事クーデターのミャンマーでは抗議を訴える市民が相次いで命を落とした。
むき出しの「政治」を前に慄き、「従順」に与してなぜ悪い? このような典型的な問い立てに本書が示す回答の一例は、「共通善」が損なわれることだった。黒澤明『七人の侍』の中で、志村喬がこのテーマを見事に要約して説いてみせた。
「他人を守ってこそ、自分も守れる。己のことばかり考える奴は、己をも滅ぼす奴だ」。
「従順」には、より重篤な副作用が伴う。
「知る勇気を持てsapere aude」。
『啓蒙とは何か』においてカントによって掲げられたこのテーゼが果たされぬこと、理性に基づく独立独歩を放棄して権威への「従順」を選び取ることはすなわち、ヒトhomo sapienceのヒトたる所以を放棄することに他ならない。何かのために知るわけではない、知りたいから知る、そうしてたまさか生み出された知によって時に世界は次なる段階へと導かれてきた。知性を切った個人に、社会に、果たして何が残るだろう。
「『他人はともあれ、まず自分が声を上げる』という姿勢が不可欠なのです」。
そうは言っても、筆者も認める通り、その道にはしばしば茨が立ちふさがる。
けれども、幸か不幸か、奇遇にも、この国にはまだ辛うじて先人が残してくれた、何よりも雄弁に「政治」へと向けられる沈黙の「声」がある。その名を選挙という。
「権威や多数派に対して従順に服従するのではなく、自分自身で『選択』することとは、他ならぬ自分自身のアイデンティティを確立し、それを守り抜くことです」。
選挙とは、民主主義とは、自由とは、誰を選ぶか、という前にまず、自らに由って選ぶ、このことに価値がある。
そのためにまず、知る。知れば自ずと選びたくなる。選ぶ気力すら持たない社会、その礎たる知を持たない社会にいかなる未来があるだろう。
「アリストテレスは、適切な対象に関して、適切な時に怒りの感情を持つことは称賛に値することだと論じています」。胸に手を置いて束の間、義憤righteous angerに身を委ねて問うてみればいい。果たして己が共同体に、嘘つきを、卑怯者を、権威主義者を迎え入れたいのか、と。訊かれたことに答えない、聞いていない振りをする、リスクの転嫁を自己責任と言い募り、棄民を自宅療養などと詭弁を弄して憚らない、そんな顔面に歪みを来した輩は、そしてそれに阿諛追従する輩は、隣人とするに値するのか、と。
自分のために選ぶ、「良心」のために選ぶ、「共通善」のために選ぶ。このことが、ヒトのヒトたる所以を明かす。