「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」

 

「新潮社の天皇」「昭和の滝田樗陰」「出版界の巨人」「伝説の編集者」――。

 齋藤には、たいそう仰々しい異称がある。数多くの作家を世に送り出し、戦後の新潮社を形づくってきた。斯界では知らぬ者がいないほど有名な出版人である。半面、常に著作を世に問う作家と違い、編集者はその生涯が詳らかになることは滅多にない。……

 文学から始まり、音楽や絵画、ジャーナリズムにいたるまで、齋藤はどれもめっぽう詳しい。昭和、平成を通じ、齋藤十一を超える出版人は日本に存在しない。

 

 戦後間もなく文芸誌『新潮』の編集長に就任し、坂口安吾に「堕落論」を、太宰治に「斜陽」を書かせる。『芸術新潮』を立ち上げて岡本太郎をフックアップ。新聞社の独擅場だった総合週刊誌市場に『週刊新潮』で殴り込みをかけ、「資料や物証がなければ、当事者の証言でそれを補い、それでも裏どりが難しければ、怪しさや疑いを匂わせながら書き手の捉え方を読者にぶつけて考えさせる」、いわば文学と報道のフュージョンとしての「新潮ジャーナリズム」を確立させる。『フォーカス』をもって写真週刊誌の先鞭をつけ、『新潮45』のリニューアルの指揮を取る。

 業績を並べただけでも、いかにも逸話には事欠かないだろう経歴の持ち主に違いない。ところが、本書において齋藤十一のヴェールが剥がされることはついぞない。2000年に死没となればなるほど、関係者の現存も難しかろうと思いきや、ことこの人物については少々ばかり毛色が違う。話を聞き出そうにも、なにせ端から直接に関係した人物の数そのものが少ないのである。

 あの錚々たる新潮文庫のラインナップにも齋藤は大きく寄与したに違いない、ところが実際に深く携わった作家と言えば、恩師とも呼ぶべき小林秀雄河盛好蔵を別にすれば、川端康成松本清張山崎豊子くらいのもの。井伏鱒二の小説「姪の結婚」の改題を促して、「黒い雨」のセンセーションを引き起こすようなプロデュース力を時に垣間見せたりはするものの、巷間つとに漫画家と編集者の間で語られるような二人三脚とは程遠く、ほとんどの場合が目を通しては基本的には「没」、たまに「採用」を簡潔に葉書で返答するのみ。

 創刊以来、約40年にもわたる『週刊新潮』との関わり方も極めて異質なものだった。毎週金曜日の通称「御前会議」では、次号に掲載する特集テーマが決定される。参加者は齋藤を除けば二名、もしくは三名程度、喧々囂々の議論の余地などそこにはない。編集部員が上げてきた企画案に目を通した齋藤がその場の独断で可否を決める。

「キミたちは、僕が読みたい本をつくればいいんだよ」。

 

 これだけのトップダウンの豪傑である。普通に考えれば、紙幅を埋めるような語り草に事欠くことはなさそうだ。何なら各界に広く人脈を張るフィクサーとしての危ない話の一つや二つが時効としてひもとかれても、むしろ出ない方にこそ驚きを認めるべきではなかろうか。

 こうした人物像からしばしば想像されるのは自己顕示欲においても人並み外れたモンスター、にもかかわらず、氏は生涯にわたりただの一冊も自作を出版していない。テレビ出演も、死の間際にただ一度、回顧談を残したのみ。「天皇」との二つ名に違わぬエピソードの一方で、「黒子」との筆者による評にも深く頷かされる点はある。

「人殺しの面を見たくないか」。

 かつて『フォーカス』創刊にあたって、言ったとか、言わなかったとか。

 しかし真相は藪の中、実に自らの生涯を賭けて、齋藤は「新潮ジャーナリズム」を貫徹する。もしその先を知りたくば、自らの霊感に頼る他ない。補助は教養に乞えばいい。誰が何をわめこうが、従うべきはただ一つ、“天の法”をおいてない。

 

 良心に背く出版は、殺されてもせぬ事――

 新潮社創業者、佐藤義亮の遺した社訓だという。