恐怖の谷

 

 気の毒な被害者はというと、妹のたっての希望でニューヨーク病院の集中治療室に移され、そこで十日間生き長らえた。意識はほぼないに等しく、妹とも警察とも話せずじまい。それというのも、両手を切断した何者かは何よりもまず、残忍なまでに正確な一撃を後頭部に食らわしていたからだ……

 侵入者はどうやら、こんな残忍なやり口にも慣れきった輩のようだった。でなければ極めて運のいい奴か。無理やり押し入った形跡は皆無。被害者の頭蓋骨をたたき割るのに使った大理石ののし棒も、もともと被害者宅の台所にあったものだ。靴跡も指紋も見つからずじまい。現金も貴金属も手付かずのまま。……

 現場に駆けつけた捜査員らは、思いも寄らぬ光景に大いに困惑する。政治史や文学史にその名を刻んだ偉人たちの、直筆の手紙やら生原稿やらが大量に、部屋いちめんめちゃくちゃに散らばっていたのだ。稀覯本の類も、床に埋め尽くさんばかりに散乱していた。表紙を上に開いて落ちているさまは鳥の死骸のようだったし、しかもその多くから、献辞が記されたページだけが引きちぎられていた。リンカーンにトウェイン、チャーチルディケンズ、そして山ほどの、アーサー・コナン・ドイルの書簡。そんなものまでが他といっしょくたになって床に落ちていた。どれもこれも台無しだった。

 

 かくして惨殺されたアダム・ディールは、「わたし」の義兄であった。そしてふたりにはさらなる共通項があった。「アダムと同じくこのわたしも、かつて贋作師だった」。

 もっとも贋作といっても、少なくとも「わたし」の場合、単に筆跡をなぞっただけのレプリカ職人とは訳が違う。「わたし」のそれは「創造」だった。「クオリティの高い贋作というのは、天賦の才の持ち主が、正真正銘の作家本人に匹敵するだけの知識を得てこそ、成り立つ。/……関係してくるのが、カリグラフィー・アート的なニュアンスや、史料を読み解く品格や、感情移入する技術」。いかにも書きそうというキャラクターとの整合性を満たし、時宜にも適い、それでいて史実の根底を覆すには至らないような、歴史的作家たちのそんな献辞を彼らの筆致で「創造」する。「難しい書体を美技で制したときの達成感」を知る「わたし」は一時、「名人界でも頂点に登りつめていたと思う」。だがあるときその事実が発覚したことで刑事裁判にかけられ、以後は足を洗い、現在は培った知識を生かしてオークション・ハウスのスタッフとして勤務している。

 アダムもまた贋作に手を染めていた、といっても、「アダムは真似ていたが、それに対しわたしは、創造していた。アダムは職人だったけれど、わたしは芸術家だった」。

 互いに似て非なるもの、愛するミーガンの兄だとしても、アダムは所詮、「わたし」にとって軽蔑の対象を超えなかった。

 

 余はいかにして贋作師となりしか、本書内、白眉と唸らされる箇所がある。

 弁護士をしていた裕福な父の蔵書やコレクションに、美術に卓越した母による手ほどきが組み合わさることで、「わたし」はそこに天職を見た。

 わけても「教師であり後見人にして、慰めてくれる人」としての母の存在は格別だった。小学校で左利きの矯正をいかに促されても、身を挺して息子を守った。絵画への興味が芽生えれば、息子を美術館に連れて行ってレクチャーを施した。そうして彼は12歳の頃には既に母のカリグラフィーの腕前を追い抜いてしまった。その後、ガンによって夭逝した彼女の欠落を埋めるように、「わたし」は父のライブラリーを己がうちに取り込んでいった。

 小説のいちいちを書き手の個人的な体験と結びつけて読むことの愚かしさは承知しつつも、このあたりから漂う甘美な文体にはどうにも稀覯本業界に身を置いていたという筆者のパーソナルな履歴と軌を一にするものがある、と考えずにはいられない。

 

 このくだり、傑出している、別の言い方をすれば、浮いている。

 

 憶測の真否はともかくも、かくなる英才教育が「わたし」を贋作の世界の頂点へと導いた。

 対してアダムにはおそらくはこうしたこうした原体験がなかった。言い換えれば、同じ両親のもとで育まれた「わたし」が愛してやまないミーガンもこうした初期衝動をついぞ知らなかった。現実を見れば兄弟なんて人それぞれ、しかしこの小説世界において「わたし」を「わたし」たらしめるレシピが明かされたからには、そのパートナーたるミーガンにも同様のレシピが設定されていなければならない、そしてそれはせいぜいが真似ることしかできないアダムと同一のものでなければならない。然らば、「創造」の味を知る「わたし」にはおよそ似つかわしい点を持たない、まるでその肋骨から作られたがごとく耐えがたきほどに退屈な人物像が、悲しいかな、スウィート・ハートにも割り振られていなければならない。

 実はこののち、「わたし」をも嫉妬させてやまない贋作師が登場する。だがしかし、こうしたスキルがいかにして養われたのかはついぞ触れられることはない。遍くフィクションに横たわるロジックとして、同様の能力を秘めたライバルとはすなわち、鏡合わせのもうひとりの自分であらねばならない。なぜならば、そこに一脈として通じるものを持たない、何か知らないけれどもとりあえず強大な敵とやらとの間になど、物語が生じようがないから。

 だからこそ、本書のクライマックスに至っても、それで? という以上の念が湧き出すこともない。

 

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