あなたが私を竹槍で突き殺す前に

 

帰ってきたウルトラマン』は、郷秀樹という一人の青年の成長を通して、ウルトラマンの世界を描こうとした意欲作だった。(中略)

ウルトラマン』『ウルトラセブン』は、近未来を舞台としたSFドラマにカテゴライズすることが出来るが、『帰ってきたウルトラマン』は、1970年代初頭の空気感を有した青春ドラマとしての側面も持っていた。(中略)

帰ってきたウルトラマン』で、郷秀樹には、坂田アキという18歳の恋人がいた。その関係は悲劇に終わり、青春ドラマとしての『帰ってきたウルトラマン』は未消化に終わってしまうが、二人が身に纏っていた時代の空気は、番組に、あの頃にしか存在しない独特のムードを与えていたと思う。

 本書では、『ウルトラQ』と『ウルトラマン』の放送が始まった66年から『帰ってきたウルトラマン』が終了した72年まで、主に日本の社会状況とテレビ史的なトピックに関して記述することで、時代の空気の移り変わりを表現してみた。

 

「『ウルトラマン』にしろ『ウルトラセブン』にしろ、主人公達の私生活が描かれたことはほとんどない。

(中略)しかし『帰ってきたウルトラマン』は、主人公の生活空間と、彼を取り巻く市井の人々が作品世界の核となる」。

 先行作との差別化のために、主人公に成長物語要素を折り込みたかった、というのはなるほどよく分かる。しかし、続く証言にいきなりのけぞる。プロデューサー橋本洋二の弁。

「それとホームドラマ的な要素もなんとかして入れようと思っていました。つまり石井ふく子さんのホームドラマがヒットしてましたから」。

 ウルトラ・シリーズと石井ふく子の奇跡のコラボ、あまりにアヴァンギャルドな企てにしばし絶句。

 しかしこのカオスが、後にミラクルを呼ぶ。

 第48話、「地球頂きます!」の脚本を手がけたのは、あの小山内美江子。当時まだ駆け出しの新鋭に過ぎなかった彼女が登場させたのは、無気力怪獣ヤメタランスとそれを地球へと送り込む宇宙人ササヒラー。怪獣のモデルは当時小学生の怠け者の息子、のち長じて俳優となり利重剛を名乗る。宇宙人の名の由来も、なんということはない、小山内の本名にちなんで現場でつけられたという。ウルトラ・シリーズを本当に半径数メートルのホームへと回収してしまった問答無用のこの偉業、後世に広く語り継がれていい。

 

 頷かされる点は数知れず、にもかかわらず、読むほどにどうにも釈然としない。

 51話のそれぞれについて、まず一通りのあらすじをさらった上で、先行書籍やインタビューからエピソードを補強していく、というアプローチがひたすらに繰り返される点にやや単調な感があることは否めないが、それ以上にこれじゃなさが募るポイントが横たわる。

 以下の引用から、その違和感の正体を確かめてみたい。

 

 第21話「怪獣チャンネル」は、カメラ状の目で捉えた映像をテレビ中継出来る怪獣ビーコンを登場させ、“テレビの中でのテレビ批評”を試みた作品で、脚本は市川森一。この怪獣、MATが敗退する様子まで中継してしまうのだから始末が悪い。

 本作は冒頭と半ばにドキュメンタリー風のナレーションが用意されている。例えば冒頭は、「世田谷区に住む会社員坂井信夫氏の末っ子、ミカコちゃん5歳が、つけっぱなしのテレビを消しに起きたその時……事件は起こった」という具合にだ。(中略)テレビの花形はやはり報道であり、即時性が最大の武器だった。ビーコンはテレビの即時性を象徴、あるいはそれをパロディ化した怪獣であり、その存在自体が“テレビの中のテレビ批評”なのだ。

 そして市川は、二つのナレーションで、送り手と受け手の関係を明確にした上で、“テレビの中のテレビ批評”を形成したのである。なお本作は、劇中、主婦が昼メロを見ながらハンカチを涙で濡らすというシーンがある。昼メロは既存の番組ではなく、筧〔正典〕監督が新撮したもの。楽しんで撮っているのが、画面からも伝わる。

 

 このくだり、大人が読んで文句なしに面白い。いちいち作品自体を見返すほどの殊勝さは私にはないが、概要としても、見立てとしても、極めてコンパクトでありつつも、説得力に満ちている。

 しかし、幼い子どもに果たして作品はこのように映っていただろうか。それは理解力やリテラシーの深い、浅いという問題では必ずしもないし、子どもの純粋な目は本質を見抜く云々という寝言にも一切与するつもりもない。そもそもにおいて、向けられているフォーカスが異なるのだ。漠とした記憶からウルトラ・シリーズ全般への接し方を辿るとき、これらの人間ドラマ・パートはあくまで、怪獣たちのキャラクターやウィーク・ポイントを説明するための呼び水に過ぎなかったのではなかっただろうか。本書においてほぼ一貫して生じ続けているのは、ストーリー・ラインと格闘シーンをめぐるこの主従関係の逆転にある。

 それが必ずしも、幼き日の一視聴者経験を引きずった個人的な感想とばかり片づけてもらいたくない論拠が、皮肉にも本書内にて紹介されている。通称「ウルトラ係数」、以下に示される式が視聴率と高い相関性を有しているという。

 

F(怪獣の力)+Mt(怪獣出現の時刻)+MT(怪獣の出ていた時間)+{Utウルトラマン出現の時刻)+UTウルトラマンの出ていた時間)}×2

 

 旧作品との差別化を期して人間ドラマを折り込んだものの、皮肉にもその狙いは裏切られ、中盤までは視聴率は低空飛行を余儀なくされた。理由は判然としていた、幼い視聴者が見たいのは、怪獣とウルトラマンなのであって、郷秀樹とその周辺ではなかったのだから。そして現に、この指針に基づいてテコ入れを図ることで視聴率はV字回復を示したのだから。

 もちろん、大人となった今ならば、金も労力も時間もかかる特撮部分を控え目にしたい、という作り手側の事情は痛いほど分かるし、こうしたサイド・ストーリーこそを味わえたりもする。でも、子どもには知ったことではないし、また知らされるべきことでもない、一にも二にも彼らが楽しむためにこそ作られなければならない。

 子どもはあくまでリング上のプロレスを欲する、そこに至るまでの因縁にはさして興味を払わない。大人にとってみればその格闘は、着ぐるみを変えただけの単調なルーティーンの繰り返しでしかないのかもしれない。セットを壊して回るシーンにしても、ほぼ同じようなものとしか映らないことだろう。しかし紛れもなきメインターゲットである子どもたちにしてみれば、そこにこそ手に汗握るガチンコがある。

 本書が内包するこの食い違いが、どこか子どもの聖域を土足で踏み荒らして回っているような後ろめたさを響かせずにいない、少なくとも私には。