Frozen

 

 本書は、20185月から202012月までの2年半のあいだ、月刊『みすず』誌上で3カ月に1回という比較的ゆっくりしたペースで連載した文章に、1章分の書き下ろしを加えて、本にまとめたものだ。……

 現在のわが国は、覚せい剤依存症という病気が重篤な人ほど、病院ではなく、刑務所に収容されなければならない状況にある。思えば、18世紀の終わり、フランスの医師フィリップ・ピネルは、それまで犯罪者と一緒に刑務所に収容され、「刑罰による治療」を受けていた精神障害者たちの足枷を外し、教科書には、それが近代精神科医療の端緒として記述されている。しかし、21世紀のわが国では、本来治療や支援を受けるべき人たちがいまだに刑務所に収容されているのだ。……

 私はこうしたわが国の制度にずっと違和感を抱いていた。アディクション臨床の現場に身を置いて経験を積めば積むほど、その違和感は大きくなった。つまり、「ダメ。ゼッタイ。」は嘘だ。この世には、よい薬物も悪い薬物もない、あるのはよい使い方と悪い使い方だけ。そして、悪い使い方をする人は、何か他の困りごとがあるのだ――それは時を経て強い確信へと変化し、もはやこれ以上、自分をだましつづけていることはできないと感じるに至った。

 こう言い換えてもいい。「困った人」は「困っている人」なのだ、と。だから、国が薬物対策としてすべきことは、法規制を増やして無用に犯罪者を作り出すことではない。薬物という「物」に耽溺せざるを得ない、痛みを抱えた「人」への支援こそが必要なのだ。

 その意味で、やはりこれは私なりの挑戦であり、闘いなのだ。そう自覚するに至るまでの彷徨や雑感をまとめたものが、本書に収録された原稿となっている。

 

 おそらくはこの本を通じて読者が出会うことになるのは、かなり意外な人物像の数々。

 薬物の中毒患者として一般に刷り込まれているのは、例えば「目が落ちくぼみ、頬がこけた、ゾンビのような姿」で「両手に注射器を握りしめ、口角から血のようなよだれを垂らしながら、いままさに背後から子どもたちに襲いかかろうと」するような、ザ・「人間やめますか?」。

 しかし筆者は断言する、「ゾンビのような薬物乱用者など存在しない。少なくとも子どもたちに薬物を勧めるくらい元気のある乱用者は、たいてい、かっこよく、健康的に見え、『自分もあんなふうになりたい』と憧れの対象であることが多い」。

 そもそもからして、「薬物の初体験は『拍子抜け』で終わる」し、「覚せい剤を使ったからといって、誰もが幻覚・妄想を体験するわけではない」。アルコールのように健康上のスタッツを著しく損ねることもなければ、アルコールのように脳萎縮を引き起こすこともない。

 

 さりとてその論調は、安易にドラッグを助長するものでもない。本書全体に立ち込めるのは、ひたすら濃密な死の匂い。そう聞いて人々は思うだろう、やはり薬物は死を手繰り寄せる、だから「ダメ。ゼッタイ。」なのだ、と。しかし、オーバードーズのリスクは承知した上で、その結論はおそらくは因果を違えている、つまり、死の危険と隣り合わせの者たちが、束の間の忘却を求めて薬物に走るのであって、薬物が必ずしも死へと駆り立てているわけではない。ほとんどの場合、ドラッグは原因ではなく結果。「困った人」を孤立させればさせるほどに、「困っている」彼らはますます薬物の他に向かうべき場所をなくす。

 夜という「魔の時間」に差しかかるとパニックや自殺念慮に襲われる、そんな類型的な患者たちを筆者は数多目の当たりにする。症例に触れて対話を交わすことでやがて気づきが生まれる。一連のフラッシュバックはドラッグの禁断症状などではなく、過去のトラウマによるものなのだ、と。「たとえば、父親から半殺しといってよいほどの暴力を受けたり、縊首した母親が目の前でぶら下がっているのを目撃したり、親戚のおじさんからレイプされたりした経験があった。あるいは、両親の暴力とネグレクトに耐えかねて家出したところ、勝手のわからない見知らぬ土地で輪姦被害に遭遇したり、病的に嫉妬心の強い男性たちから毎日のように殴られたり」、そうした夜をめぐる記憶が突然に開く。とりわけ「入院などして安全な環境に身を置くと、その安堵感のせいか気が緩み、心の別室の扉が開き、記憶の解凍が始まってしまう」。

 刑務所に収監したところで、彼らがトラウマから解き放たれることはない。

 

 それでもなお藁人形を求めるだろう人々に、筆者はあえて別なるアディクションの肖像を差し出す、すなわち、自分自身を。

 あるときの没入の対象は、「セガ・ラリー・チャンピオンシップ」だった。「大げさではなく、当時の私はちょっとした依存症の状態だったと思う。たとえば、友人との飲み会に行っても、『今日中に仕上げないといけない仕事があるから』などと嘘のいいわけをして早めに席を立ち、一人ゲームセンターに向かってしまう、といったことは一度や二度ではなかった。また、仕事をしていても、そのゲームのことを思い浮かべては、就業時間が終わるのが待ち遠しく感じた」。

 今なお続くのはコーヒー、カフェイン。卒業をかけて崖っぷちだった大学時代の「私にとってのコーヒーは、神聖な深夜の飲み物から『覚せい剤』へと変化した」。耐性がついてしまった筆者は、次いでカフェインの錠剤にも手を伸ばす。それにも慣れ切ってしまうため量を増やせば、「今度は嘔気と頭痛で勉強どころではなくなった。いうまでもなく、急性カフェイン中毒の状態だ」。

 愛車のアルファロメオの改造にのめり込んでいた頃、そのことにすら気づかない周囲の知人とは対照的に、やたらと敏感にささいな変化を指摘してくる群があった、つまり、依存症患者たちだった。「私なりに考え抜いて出した答えは、『依存症患者自身が改造を好む人たちだからではないか』というものだった。つまり、ありのままの自分に満足できずに、たえず何かを付け加えようとすることが、病気の本質なのではないか、という仮説だ」。

 にもかかわらず、診察室の両者は決然と医師/患者、場合によっては受刑者として隔てられる。この皮一枚、果てしなく厚いのか、はたまたこの結界、幻覚に過ぎないのか。

 

 そして筆者が見出した最高のアディクションは、「アヤナイI&I」だった。「人はともすれば、『あなたと私』という対峙的な二者関係において、相互理解の美名のもと、相手を説き伏せ、改宗を求め、支配を試み、それに応じなければ、相手とのあいだに垣根を築くものだ。しかし『アヤナイ』は違う。『相手とのあいだに垣根を作らない。相手を自分のことのように思う』という態度なのだ」。

 本書のクライマックス、とある逸話が紹介される。

 

「ネズミの楽園」と名づけられた有名な実験がある。一匹ずつ金網の檻のなかに閉じ込めたネズミ(「植民地ネズミ」)と、快適な広場に仲間と一緒に収容されたネズミ(「楽園ネズミ」)の双方に、ふつうの水とモルヒネ入りの水の両方を与えるという実験だ。結果は実に興味深いものだった。植民地ネズミがモルヒネ水ばかり飲む一方で、楽園ネズミはモルヒネ水には目もくれず、ふつうの水を飲みながら他のネズミとじゃれ合い、遊んでいたという。

 さらに、檻の中ですっかりモルヒネ依存症になった植民地ネズミを、今度は、楽園ネズミのいる広場へと移した。すると、最初のうち、一人ぼっちでモルヒネ水を飲んでいた植民地ネズミは、やがて楽園ネズミたちと交流し、一緒に遊ぶようになった。それだけではない。なんと楽園ネズミの真似をしてふつうの水を飲みはじめたというのだ。

 

 世の社会心理学系の実験がしばしばそうあるように、あまりに美しいこの研究の再現性についても私はつい悪い癖で訝しんでしまう。しかし本書を要約するに、これほどにふさわしいエピソードは二つとない。

 社会リソースをケアではなく厳罰に回し、締め上げ可能な誰かを血眼になって探す、自己責任の名のもとに「植民地ネズミ」の孤立を促し続ける限り、この世界は次なる薬物依存を、ローン・ウルフを、ジョーカーを量産し続ける。

 日だまりに包まれて「エブリシング・ゴナ・ビー・オールライト」する、「楽園ネズミ」のこの光景を誰が「ダメ。ゼッタイ。」と咎めることができるだろう。