やめられない、とまらない

 

 

 そもそも、わが国では犯罪者を「治療」するという考え自体が一般的ではない。犯罪者は罰するものであり、「治療」の対象ではないと長い間考えられてきている。……

 しかし、そのような考えは時代遅れになりつつある。最近の犯罪心理学の知見では、「治療を伴わない刑罰には再犯防止効果がない」ということが明らかになっている。そしてそれは、性犯罪や薬物犯罪だけでなく、あらゆる犯罪についてあてはまる。……

 これは何も処罰を否定するわけではない、ということだ。犯罪を行ったときに処罰を受けるのは、法治国家として当然である。しかし、それが犯罪抑止に効果がないのであれば、それに加えて「治療」という対処を考えてみるべきではないか、というだけのことである。……

 つまり、「痴漢外来」という取り組みは、「性犯罪と闘う科学」なのだ。その目的はあくまでも、性犯罪のない安全な社会をつくることであって、「犯罪」を「病気」というレッテルに貼り替えて、その責任を曖昧にしようという企みではない。……

 本書は、犯罪者を「治療」するという考えが意外に思えるような時代を早く卒業し、「治療」という言葉を括弧つきでなく、自然に用いることができるようになることを目指したものである。

 

 刑法学の世界において、刑罰の意義を説明するために持ち出される概念として、一般予防と特別予防なるものがある。

 一般予防とは、懲役x年、罰金y万円というように、犯罪から得られる利益との割が合わないからやめとこう、というかたちで、功利計算的に広く市民が犯罪に手を染めることを未然に防ぐ仕方をいう。例えばシートベルトというパターナリズムを抽象的に呼びかけてもそうそう着用しないからペナルティを設定しようというのも、これにあたる。

 対して特別予防とは、犯罪に抵触してしまった人々に対して実際に各種の刑罰を科することで以後の再犯を抑止できる、というテーゼをもっていう。

 堅苦しくも聞こえるが、つまるところは、殴られるのが嫌だからやらないでおこうと思うか、殴られて痛かったからもう二度とやらないと思うか、そんなごくごく日常的な心理シミュレーションの延長にすぎない。

 

 しかし、この仮説の信憑性、とりわけ特別予防の実効性は既に揺らいで久しい。

 アメリカにおけるデータ・アナライズに従えば、「全犯罪を対象とした研究では、処罰のみでは再犯率は低下しないばかりか、逆にわずかながら増加することが見出されている。一方、カウンセリングは10ポイント程度再犯率を抑制する。そして、より効果的に組み立てられた治療を実施すれば、再犯率を少なくとも30ポイントは抑制することができる」。

 筆者が紹介するデータはさらに劇的な効果を証明する。曰く、「痴漢の再犯率30%程度とされているところ、痴漢外来で治療を受けた人々の再犯率は、3%弱である」。

 なるほど、こうした統計そのものが限りなく信頼性に乏しいものであろうことは、筆者自身も認めてはいる。なにせ法務省の公的資料によれば、年間の痴漢の認知件数は年平均4000程度、特定の路線におけるモニタリング・サンプルではない、全国をひっくるめてもこの数だと言い張っているのである。こうしたマザーデータに基づいてエビデンス云々を論じることがどれほど虚しい営みであるかは火を見るよりも明らかだろう。

 しかし、本書において紹介されるアプローチの説得力は、その欠陥を補ってあまりある。そのインパクトは以下の引用一発でご納得いただけようかと思う。

「われわれのクリニックで一番効果を発揮する『医療機器』は、キリである」。

 盗撮を犯さないようにするには――スマホのレンズに穴を空けてしまえばいい。満員電車が依存症にとっての痴漢フラグであるならば、そもそも電車に乗らなければいい、自転車なり自家用車なりで通勤すればいい、今ならばリモートワークに切り替えてしまうのもいい。

 意外にも、「痴漢行為を繰り返す人も、目的が性的快感のためだけという人は、実は少ない。痴漢行為によって。仕事の憂さを晴らすことができた、落ち込んだ気分が晴れた」、そんな発散の手段として彼らが魅入られてしまったのが他害性を伴う行為であったというに過ぎない。ならばその対処法は――別の趣味なり娯楽なりを見つければいい。

 自制によって抑え込むよりもフラグが立たないように環境をコントロールしてしまう方がたやすい。インセンティヴを再設定して、違法と咎められる行為に及ぶよりも別の何か面白い気晴らしを見つけてしまえば自ずとそちらにのめり込む。ストイシズムはいついかなるときも人間を決して救わない。

 身も蓋もないと書いてロジカルと読む、そんな実践例が本書の説得力を裏支えする。

 

 こうした「痴漢外来」のコンセプトは、どうやら今なお世間ではほとんど受け入れられる様子がない。もっとも知性なき彼らの繰り出す反発は、そのことごとくが何らの実効性をも有しない。

 例えば、厳罰化を促せばいいではないか、あるいはもっとエクストリームに、終身の自由刑をもって処すればいいではないか、という立場。なるほど確かに塀の内側に幽閉してしまえば、性犯罪の再犯リスクはコントロールできる。しかし筆者が繰り返すように、実のところ、薬物と同様、性犯罪者には世の中が妄想する怪物じみた常習性は観察されない。そんな限りなくノーリスクな存在を拘禁する人権上の問題もあるし、コスト面も無視できない。例えばカリフォルニア州ではひとりあたりで年間20万ドルが見積もられている。ここには当然、市中からそれだけの数の労働者=消費者が失われているマイナスの経済波及効果も組み入れられてはいない。

 先ごろ導入の是非が騒がれた性犯罪者登録についても、少なくともアメリカでの社会実験による限り、「その効果に関しては、ほとんどエビデンスがない」。GPSなどを用いた電子監視についても同様で、「それは一時的な鬱憤晴らしや不安の解消にはなるかもしれないが、それだけのことである」。

 これだけの論拠を前にしながらも、まるで聞く耳を持つことができない、大衆という名のモンスターを眺めるとき、これと全く同じ症例を読者は延々と見せられ続けていたことに気づく。「圧倒的な衝動に突き動かされて、理性や意志の力がなぎ倒されてしまうのが、依存症の本質である」、この定義が示すように、現代における世論とはまさに依存症の別名に過ぎないことが明かされる。

 奇しくも犯罪行動全般と深い相関性を有するリスクファクターとして、「セントラル・エイト」なる項目が紹介される。そのリストから例えば「反社会的態度・信念」を取り上げてみよう。「規範の無視や暴力の肯定など反社会的な価値観、態度、認識を有している」、彼ら一般大衆の、犯罪者あるいは外国人に対して一切の人権を認めようとしない態度がこれに限りなく重なる点にもはや議論の余地はなかろう。従って、「反社会的パーソナリティ」、すなわち「共感性欠如、冷酷性、残忍性、自己中心性、自己統制力欠如などの傾向を有している」、この項目にも完全に抵触しそうである。「教育・仕事上の問題」、つまり「成績が不良である。怠休、無職の状態にある」、ゼロ経済成長、ゼロ生産性の失われた彼らはここも難なくパスしている。「アルコール、違法薬物を使用している」、旧来の酎ハイでは物足りずストロングに手を出すのだから、「物質使用」も相当に深刻である。「建設的な余暇活動を行」うこともなく自分に沿わない異分子への惨めなバッシングをやめられない彼らは、「不適切な余暇活用」にも該当する。今やこの量産型のイナゴどもを危険因子と認定せずにいられる論拠を見つける方が難しい。

 だからこそ、この彼ら置換可能、置換不要クラスターにおよそ欠如している「人と人とのコミュニケーション」の重要性が、「痴漢外来」においても非常な説得力を帯びてくる。

 自らがスクリプト的、チェックシート的、型落ち計算機的存在でしかないことを受け入れてともに集う、ただその一点で彼らは貴い、少なくとも今なお自律性などという実効力ゼロの神話に踊らされて退屈な脊髄反射の他に何を繰り出す能もない無知蒙昧よりは。

 

 傷つけた人も、傷つけられた人も、人に受け入れられてはじめて、本当の自分を見出し、新しい人生を見据えて前を向くことができるようになっていた。

 その反面、われわれの社会には、性犯罪の被害者までも批判したり、責めたりする風潮がある。社会的にも大きなタブーである性犯罪を憎むあまり、社会をかき乱して不安をもたらした原因を被害者にも負わせ、石を投げるような人がいる。

 それは、さらなる不安や憎しみを生むだけで、何の効果もない。そして、傷ついた人々はもちろんのこと、傷つけたことを悔い、自分を改めようとしている人々を受け入れる社会こそが、苦しみを癒やし、犯罪を抑制する力を持つのだということを知るべきである。

 

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