言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

 本書の目的は2つあります。1つは、どんなに優れた翻訳であっても原文(本書では日本語)の機微を別の言語(本書では英語)に移し替えられないものが何かを明らかにすることです。……翻訳によってこぼれてしまうものを明らかにすることで、翻訳対象の日本語と被翻訳対象の英語の間の深い差を見つけ出します。

 2つ目は、翻訳を通して日本語と英語が深層でどう異なっているかその「認知的な視点」の違いを明らかにすることです。「認知的視点」というのは、人が外にあるものを心理的にどう捉えるかということと関わります。……通常、翻訳者は原語の言語・文化のもつ認知上の特徴をぎりぎりまで翻訳に生かそうとします。生かせない部分は翻訳では消えてしまいます。本書に出てくる翻訳者たちは日本語を英語に翻訳しながら、日本語と英語の間を行き来し、翻訳で消えていく日英語それぞれの認知法を発見しているはずです。

 

 Pond flog plop!

 池、蛙、ザブン! とでもひとまず再訳しておけばいいのだろうか。

 思わず口ずさみたくなる、なんならTシャツにでもしたくなるこの躍動感あふれるライムは、実は「古池や かはづ飛び込む 水の音」を翻訳したものなのだという。

 芭蕉自身の句から私が連想する光景といえば、緑がかった水面に音とともに波紋が広がり、そして間もなく打ち消され、何事もなかったかのような平たさへと帰っていく、そんな静謐の光景。覆水は盆に返らずとも、古池は何が変わることもない。

 しかし先の引用に限らず、どうやら英語話者たちは私とはまるで異なる情景を読み取っていくらしい。例えばかのラフカディオ・ハーンは、この「かはづ」を複数のかたちで翻訳してみせたし、筆者が教鞭をとったプリンストンの学生たちの多くもやはりそこに複数の蛙の存在を読み解かずにはいられなかった。

 しかし英文法には、頭にatheをつけるでもなく、語尾にsをつけるでもない、「数がない」という仕方で単に裸形でflogとのみあらわす言い回しも用意されている。筆者はそのアプローチに「興味深い」と感嘆する。「なぜなら、蛙が個別化されず、『かはづ』そのもののエッセンスだけを禅的に表現しているという深みが出てくるからです」。冠詞と数詞という文法の違いに気を配ることで、句の描き出す心象風景が変わってしまう。時に翻訳ゆえにこそかえって現れてしまう何かがある。

 

 それにしても、本書の白眉といえば、「第7章 受動文の多い日本語、能動文の多い英語」である。

 ここで筆者が持ち出すのは以下のような例文である。

a】 あのね、今朝、高校生がね、隣の子を公園でいじめているところを見たよ。

b】 あのね、今朝見たんだけど、隣の子がね、公園で高校生にいじめられていたよ。

 指しているシチュエーションそのものは変わらない、ただし、主語の違いで情意性が変わる。この場合には、名も知らぬ「高校生」ではなく「隣の子」というより近しい「共感の対象」が前景化されることで、「『客観的な能動の声』から、『主観的な受動の声』に替わ」る。

 さて、先の例文を英語にしてみる。

aYou know what? This morning I saw a high school student was bullying our neighbor's kid in the park.

bYou know what? This morning I saw our neighbor's kid being bullied in the park by a high school student.

 筆者は何も能動態を受動態に書き換えよなどという今さらながらの中学英語の復習を読者に向けて施しているわけではない。あくまでここで着目が促されているのは、「実は英語話者は、【a】の客観的な能動の声の方を選ぶことが圧倒的に多く、主観的な受動の声を使う英語人はまずいない」という点である。この性質は当然に、文芸作品の翻訳においてもしばしば観察されるともいう。

 さらにつなげて言うことには、「英語の可能形は普通“can”に動詞の現在形をつける」ことで成り立つのだが、この「“can”はもともとはインド・ヨーロッパ語の“gno-”で、英語の“know”に近い動詞から来てい」るという。つまり、英語話者にとって可能であるとは、「積極的に『知る』という動詞が底辺にあるのです」。

 対して、「日本語の可能動詞の『できる』は何かをする能力が『自然に出て来る』という意味です」。ここに暗黙に込められた含意とは、「能力は自然に顕現する」という見立てである。

 可能になるとは、英語話者にとっては自ら掴みに行って知るその能動性を指し、日本語話者にとっては天啓のように外から授かる受動性を指す。

 自ら変える可能性をはなからあきらめて、何かが変わるのをひたすらに待つ、まるで雨を乞うかのように、まるで嵐の過ぎ去るのを待つかのように。

 世を直すのではなく、世が直るのを待つ。

 もはやこれを俗流日本人論として退けることはできまい、なにせ思考を演算するOSの問題なのだから。住まう世界線が言語によって規定されるのだとすれば、何が変わることもないままただ朽ちていくに任せるほかないのも必然なのかもしれない。「主観的な受動の声」に馴らされた日本人は、それが自身による能動的な選択の帰結であったのだと理解する日を生涯知ることなく終わる。

 

shutendaru.hatenablog.com

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