ストレンジ・ワールド

 

 精神の変容形態には種類がいくつかあり、地球上に存在するどんな文化でも、それを引き起こす植物やキノコをたいていはひと通りの種類、そうでもなくても一種類は地元で発見しているのが普通だ。……どうやら、普段の日常的な意識だけでは、われわれ人間は満足できないらしい。意識を変容させ、深め、ときには飛び越えようとし、それを可能にしてくれる自然界にあるあらゆる物質を識別してきたのだ。

 本書『意識をゆさぶる植物――アヘン・カフェイン・メスカリンの可能性』は、そうした効果を持つ三種類の物質とそれを生成する驚くべき植物について、私がみずから調べた記録である。アヘンケシから作られるモルヒネ、コーヒーや茶に含まれるカフェイン、ペヨーテやサンペドロ〔多聞柱〕のようなサボテンで生成されるメスカリン。……

 これら三種類の植物由来の薬物で、精神活性物質から人間が得られる体験の種類の大部分が網羅できる。日常的に使われるカフェインは、世界で最も一般的な精神活性薬物であり、メスカリンは先住民たちに儀式で利用され、アヘンから抽出されるモルヒネ由来の薬剤は大昔から鎮痛目的で使われている。……

 私は本書の中で、麻薬戦争が、「ドラッグ漬けの脳みその恐怖」という暴力的なほど単純化された図式と一緒に終焉に向かえば、自然が恵んでくれた精神活性性の植物やキノコと人間が太古からどんなふうに関わってきたか、はるかに興味深い話ができるということを証明しようと思う。

 

「人間がカフェインと遭遇したのは、びっくりするほど最近のこと……だ。想像しづらいが、西欧文明は17世紀までコーヒーも茶も知らなかった」。

 本書の記述を真に受ければ、西洋史はもはやカフェイン以前と以後で分かたれねばならない。この場合、さしずめBCBefore Caffeineの略語とでも理解される必要がありそうだ。

 一度、カフェインが持ち込まれたイギリスでは、雨後の筍のごとくにコーヒーハウスが乱立した。ユーザーたちはカップ片手に単にエナジーをチャージしただけではなかった。彼らの口は単に飲むためだけではない、喋るためにある、コーヒーを媒介とするその聖地は、瞬く間に最新のニュースを交換するためのメディアとなり、かくして街中に「ほかに類を見ない民主的な公共スペース」が誕生した。

 11ペニーを支払うことさえできれば誰だって出入りができる、その中にあっても、常連たちがいつしかそれぞれの店にカラーをつけていくことで、ある種の棲み分けが成立していく。例えば貿易や海運の情報を求める顧客の集ったロイズ・コーヒーハウスは、現代のロイズ・オブ・ロンドンの母体となったし、ロンドン証券取引所すらもその原点はやはりジョナサンズ・コーヒーハウスだった。アイザック・ニュートンが入り浸ったというグレシアンは、ロイヤル・アカデミーも真っ青の自然科学の最先端の議論を提供した。ある批評家の説によれば、イギリス流のいわば言文一致体はコヴェント・ガーデンのコーヒーハウスから生まれた。そこで日々交わされる丁々発止のその生きたことばが、「かつての散文体の堅苦しさに劇的な変化をもたらして」、ジョナサン・スウィフトダニエル・デフォーの文体を形づくった。

 かくしてイギリス近代革命の精神は、コーヒーハウスのイニシエーションを通じて涵養された。しかしそればかりではない、筆者の見立てでは産業革命を牽引したのもまた、カフェインだった。「飲むと目が覚め、集中力が高まり、あらゆる面で頭が冴える」この物質によって、労働者たちは「夜も目を覚ましていられるだけでなく、当然押し寄せてくる疲労感を食い止められるようにな」った。その充填なくしては労働がもはや成り立たない以上、コーヒー・ブレイク、ティー・ブレイクは息抜きの余暇の時間ではない、この時間こそが今や労働の要となった。人がカフェインを使うのではない、人がカフェインに使われるのだ。かつて太陽によって司られていたバイオリズムは、中国やインドから輸入される茶と砂糖によって更新された。一度この禁断の果実のスピード感を知ってしまった人類は、もう牧歌的なエデンの園には戻れない。

 

 カフェインによって失われたこの約束の地への郷愁を媒介してくれるのが、もしかしたらメスカリンなのかもしれない。

 それが果たしてカフェインの寄与であるかはひとまず保留しておくが、「私たちの普段の世界の見え方は『生物としても社会的にも役に立つよう制限されて』いるのである。私たちの脳は、人が地球上で生存するのに役立つ『ほんの一滴』の情報のみを意識し、ほかは無視できるように進化した。しかし現実はじつはもっと広大で、400ミリグラムの硫酸メスカリンさえ摂取すれば、〔オルダス・〕ハクスリーの言う意識の『減量バルブ』を、言い換えれば知覚の扉を開けられるのだ」。

 そうして筆者は、パートナーとともに原住民の儀式に参加することで、メスカリンを実際に自ら試してみる。興ざめするような結論を先に引いてしまえば、この「幻覚剤の王様」は、「誰でも知っていることを今さらながら教えてくれる思慮深い師」でしかなかった。

 彼はメンターに促されるまま、自らの積み重ねてきた過ちを赦す、そして他者を赦し、最終的に自分自身を赦す。続いて湧き出してきたのは、感謝の涙だった。「贈り物のような大切な人々と人生の中で出会えたことへの感謝、終わるのはまだ先だとはいえこの人生をあたえられたことへの感謝、こんな殺伐とした希望のない時節にあっても、こんな温かい涙を流させ、大事なことを知らせるパワーを持った植物と関われたことへの感謝。本当に、感謝してもしきれないほどだった」。

「幻覚剤を使うと」、いや使ったところで、「凡庸さは避けられない関門なのだ」、なぜならば、人間なんてその程度の代物でしかないから。

 しかしもし仮に筆者がこうした邂逅を経験していなければ、こうした「甘ったるい言葉」が漏れ出ることすらなかったに違いない。赦すべき誰かも感謝すべき誰かもいないその世界線に住まう彼は、薬物のほかに向かう先も持たない、「凡庸」でさえあれない依存症患者の誕生をテキストに刻むことしかできなかっただろう。ケシから抽出されるオピオイドで孤独の痛みを束の間紛らわせるよりも、春の庭先を美しく彩るその花を一緒に見てくれるような誰かを探す、それしきの「凡庸」なことを教えてくれる「思慮深い師」として幻覚剤が現れることもおそらくはなかっただろう。これまでもこれからも、コーヒーハウスという場で交わされる何気ない会話ほどに、ドラッグは世界を変えてなどくれない。

 

 だから、知覚の扉を叩く前に、近くの扉をノックしよう。

 

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