気もそぞろ

 

 本当のところ、多くの研究者は「何の役に立つか」を考えて研究しているわけではありません。最初は、目の前にある不思議な現象に「あれ、なぜだろう」「どんな仕組みになっているのかな」と思い、やがて気になって仕方なくなり、研究を始めるのです。そして、疑問が解けるまで、研究者をつき動かしているのは「知りたくてたまらない」という欲求です。(中略)

 本書は、私が長年やってきた「零細科学」を商う個人商店の歴史と言えるかもしれません。華やかに飾り付けた表通りのショウウインドウもあれば、研究者ではなく、商店一家の「おやじ」としての顔が垣間見える勝手口もあります。四十年以上にわたり経営してきたこの店が、どのような幸運に恵まれ、どんな風に研究の情熱の火を持続してきたか。倒産の危機にあって店主は何を考え、どのような処置をとったか。そして、今、少しは発展したこの店の社会貢献をどのように考えているのか……。(中略)

 本書によって、何の役にも立たないような研究に、長い年月をかけて挑んだ研究者たちの人生に、多少なりとも共感をおぼえ、それによって、それぞれの人生が楽しく感じられるようになれば筆者望外の幸せです。

 

 ウナギの生態は、遡ること2500年、あのアリストテレスをも引きつけた。とはいえ、彼は卵にも稚魚にもめぐり合うことがなかったと見える、「ウナギは大地のはらわた(ミミズ)から自然発生する」と結論づけざるを得なかった。爾来時は流れるも、一向その産卵の実態は杳として知れない。

 そして筆者率いるグループはニホンウナギのより小さな稚魚を求めて南洋を進み、2009年ついに孵化を控えた天然の卵の採取に世界初の成功を収める。

 それはまるで推理小説のように。それはまるで探偵小説のように。そしてそのいずれをもはるか凌駕して。

 まさか闇雲に海洋の水をすくってたまたま引っかかったわけではない。世界中の遠洋漁業の関係者から寄せられたサンプルにたまたま混ざっていたわけでもない(採取、管理、チェック等のコストを勘案すれば、もとよりそんな当たらぬ鉄砲を打てるはずがない)。ドイツのことわざが言うことには、一度は数のうちに入らないEinmal ist keinmal。しかし、それが五度も連なればもはやそれを偶然とは呼べまい。そこには旧来からの知見の蓄積に基づいてターゲットを絞り込んでいく、周到極まる深謀遠慮が張りめぐらされていた。

 その一例が「新月仮説」だった。

 1991年の航海調査で採取した稚魚、レプトセファルスを用いて孵化日を逆算してみると、実に興味深い事実が浮上した。そのピークが新月の晩に集中していた、いわば親ウナギたちが「合同結婚式」を挙げていたのだ。そこから推理を作動させる。「おれには受精の効果を高めるメリットがあります。しかも新月の晩は真っ暗で安全性が高い。親ウナギにしてみれば、月影の射し込む満月の海よりも、闇夜の新月に卵を産むほうが、わが子が、そして自分自身も天敵に襲われる可能性は低いのです。さらに言えば、大潮なので産み出された卵は早めに流れて拡散し、リスクは分散されます。新月の動機産卵はきわめて合理的な選択といっていいでしょう」。このことはウナギの眼の性質からも裏付けられる。曰く、「川で成長している時期の黄ウナギから、産卵場への回遊が近づいて銀ウナギに変態すると目が大きくなります。変化は外見だけでなく、眼の内部でも起きていて、網膜の視細胞は、形の認識に適した細胞が減り、明暗のみを感度よく認識できるタイプの細胞が増えてきます。これは来るべき長旅への適応であり、新月の晩を正確に感知するための変化と考えていいでしょう」。

 

 快刀乱麻を断つがごとく、寄せられたデータがするするとあでやかな線をなしてつながり、やがて至るべくして卵へとたどり着く。

 一読者にすら走る快感、これが数十年の時を費やした筆者ともなればいかばかりか。現実に配された謎が解けていく心地よさ、それは人間ごときの浅知恵が生むフィクションをはるかに凌駕する。

 面白ければそれでいい、ところが世の中にはそれだけでは満足できない人々、資源保護や養殖技術といった即効性、あるいはより露骨に換金性を求めずにはいられない人々がごまんといる。そして本書を襲うだろう最大のカタルシスは、そんな彼らへの筆者による返答にこそある。

「研究者という生き物は、国益や政治なんかは実はどうでもよく、真理を探し求めること、この一点こそが最大の関心事なのです」。

 ここまで言い切る「研究者」のこの心意気にどうして痺れずにいられようか。

 知りたいから知る、調べたいから調べる、そうして引き出された知識から時にたまさか「百にひとつ、千にひとつに、真に人類を幸福に導く大きな研究成果が得られるかもしれません」。

 なるほど確かに知識なるものは概して自己完結のほかに向かうべき先を持たないものなのかもしれない。しかし同時に、次なる時代の扉は常に唯一、知識によって開かれる。世界初のワクチン、牛痘接種は、その祖たるE.ジェンナーの郷里の酪農地帯での何気ない観察から生まれた。カビの研究がペニシリンを生み出すなんて、誰が予見できたというのだろう。記号論理学がプログラミング言語の道筋を作ろうとは、G.フレーゲはまさか知る由もない。A.G.ベルを電話の発明へと仕向けたのは、母と妻の聴覚障害だった。M.キュリーが研究なくして放射線のリスクを知り得たというのなら、今日となってはひどく無造作なその取扱いをもって、わが身を滅ぼすこともなかっただろう。役に立つか立たないかなんて、分かってみるまで分からない。

 いや、そもそも「真理」は用不用などというしゃらくさいアジェンダ・セッティングに巻き込まれる必要すらないのかもしれない。ホモ・サピエンスhomo sapience、いみじくも知をもって自らを定義した人間は、どうしようもなく知りたくなってしまう、それはちょうどウナギが気もそぞろに母なる海への旅へと出ずにはいられなくなってしまうように。なんでなんで期を持たない幼児などいない、そして三つ子の魂百まで続く、人間の人間たる所以である好奇心に冷や水を浴びせかけることをもって大人の割り切りなどとは決して言わない、それは単に退廃をあらわすに過ぎない。