小さなことからこつこつと

 

 この本は医療におけるパフォーマンスについての本である。もし、あなたが医師であるならば、医師の仕事とは微妙な症例に正確な診断をつけたり、技術的な腕前を磨いたり、他の人にある程度わかりやすく説明したりすることだ、と思うだろう。しかし、この本を読み進むうちに、それは間違いだと気づくだろう。医療において、どんな職種でもそうだが、われわれはシステムや資源、状況、人々と取り組まなければならない。そして、自分自身の弱点も対象になる。ありとあらゆる想像を超える障害と向き合わなければならない。そうしながら、それでも、われわれは進歩し、改良し、改善しなければならない。われわれがどう取り組み、なにをするかが、この本で私が書こうとしたテーマである。

 

 例えば戦地における米兵負傷者の致死率の場合、独立戦争では42パーセント、第二次世界大戦では30パーセント、ベトナム戦争湾岸戦争のいずれにおいても24パーセントで横ばい。ところが世紀が代わったイラク・アフガンにおいては、この数値は10パーセントにまで落ちる。

 あるいは嚢胞性線維症なる難病の場合、1950年代の平均死亡年齢は3歳、1972年にはそれが18歳にまで改善し、2003年にはさらに33歳にまで上昇。さらに驚くべきことに、トップクラスのスコアを記録する5つの施設の患者に限定すれば47歳をマークした。

 こうした事例の数字のみに目をやれば、日進月歩の先端技術の開拓や臨床データの蓄積がこれらのスタッツを可能にしたのだろう、と通常誰しもが想像するところである。とりわけ嚢胞性線維症のトップ・ファイヴにおいては、潤沢な資金を流し込まれて、各種の工学に基づいた最先端を行く研究が実践された結果なのだろう、と。

 しかし筆者が実地に足を運んで目撃したのは、そうしたソフィスティケートされた医療モデルとはあまりに対照的とすら映る、日々の泥臭い積み重ねだった。

 

 先の中東に話を戻せば、イラクに派兵された約15万人に割り振られた医師は、50人未満の一般外科医と15人足らずの整形外科医に過ぎなかった。その資源投入の貧弱をもって示唆されるように、先端のテクノロジーが改善に寄与しただろう部分など筆者は「無関係」とまで言い切る。現場において講じられていたのは、そしてリソースからして可能だったのは、「単純で、ほとんど陳腐とも言えるような変更」に過ぎなかった。

 湾岸戦争時の外傷統計から浮上したのは、例えば防弾チョッキの着用だった。暑い、動きづらいといった理由から忌避されてきたが、使用を徹底した結果、顕著に戦死者数が減少した。

 同様にデータ分析から見えてきたのが、処置に取りかかるまでの「ゴールデン・アワー」だった。手遅れの患者に尽くせる最善など今日においてもたかが知れている、対してそうなる前に治療に入れれば死亡率は劇的に引き下がる。事実上、勝負は手術台に上がる前に決している。ならばどこを変えればいい? ロジスティクスを変えればいい。

 

 実は病院こそが感染症クラスター源になってしまうのは、今も昔も変わらない。専門家の嘆き節、「あなたのような病院スタッフに感染症予防のための決まり事を守らせるのが一番大変なの」。もっともそこで要求されているのは、微に入り細に入り電話帳ほどもあるようなマニュアルの遵守ではない、手洗いをしよう、ただそれだけのことに過ぎない。「スタッフの手洗いの頻度は理想から見れば3分の1から2分の1にとどまる。鼻水が出ている患者と握手したあと、傷口を覆うガーゼを交換したあと、汗だらけの胸に聴診器を当てたあと、そんなとき、たいていの医者や看護師は白衣の裾に手をこすりつけ、それでおしまいである。そのままの手で次の患者を診察し、カルテを書き、昼飯をかき込む」。

 この事態の改善に必要だったのは、「なぜ、手を洗わないのか」とミーティングで口を酸っぱくしてトップ・ダウン式に繰り返すことではなかった。「手を洗えないのは、なぜだい」と問いかけることだった。「暇がない」との回答から導かれたのは、消毒液や小物の類をどこでもすぐに手が洗えるように病棟の至るところに配置する、という策だった。あるいは期せずして、問いかけそれ自体が至上の解決策となっていた。グループ内のディベートで当人たちにブレーン・ストーミングさせる、そうして自らでアイディアを出したという経験が、その発想の凡庸さにもかかわらず、彼らの手洗いを促した。

 

 そうした基礎的な事項の徹底を訴える筆者が他方で同時に力説するのは、「ポジティヴな逸脱」だった。

 インドにおいて公立病院に割り振られた予算を頭数で割れば、一人あたり年間わずかに4ドル。備品の調達すらもままならないその国で、ところが外科医たちは世界中を瞠目させるような技術を日々発揮している。必要は発明の母、限られた資源の中で最善の手段を講じる、その意志が気づいてみれば、疫学統計の横紙をぶっちぎるように、前例を見ない術式の開拓を促していた。

 そして筆者が目撃したもうひとつの秘密は、カフェでの休憩中に同僚と交わす情報交換だった。「天才は不要である。勤勉さが必要だ」。先の手洗いと同じ、彼らのパフォーマンスを引き出したのは共に働き切磋琢磨するコミュニティだった。これがもし隣のラボで競争型研究費を奪い合うライバルだったら、同じ関係性は生まれただろうか。

 

「医学を正しく行うことは、頭を使って難しい診断をつけるようなことではなく、スタッフ全員にくまなく両手を洗わせるようなことなのだ」。

 この命題はいずれの職種をとってもおそらくは同じことなのだろう。その頭脳をもって人工知能と高みを目指して競うのもいい、でもまずは足元をしっかりと確かめてみる、固めてみる。AIに雇用を奪われる心配をするよりも人間なりにできる当たり前を徹底する、データと格闘するよりもまず人間同士で話をしてみる、たかがそれしきのことで磨き抜かれるパフォーマンスがある。