これからのスナックの話をしよう

 

 本書は、202110月末の札幌市すすきの取材から202212月半ばの東京銀座での取材まで、コロナ禍のなか、1年余りにわたって日本全国の夜の街をめぐり歩き、そこで営まれる水商売の姿を描き出したものである。……

 コロナ禍の発生という未曽有の状況のなか、スナックを始めとする夜の街はきわめて大きな影響を蒙ってきたが、「自粛」や「営業の規制」など本業の法哲学者として専門的考究の対象ともなりうる諸事象と「夜の街」とがクロスオーバーしたのが、このコロナ禍の日々でもあった。

 

 フリードリヒ・ハイエクマイケル・サンデルから長谷部恭男と四角四面の言説こそ一見飛び交っているかにも思われるが、本書の基本的な骨子となるメッセージは、ある面ではとあるスナックの店主自身による極めてシンプルな一言に凝縮されている。

「とにかく、みんなでお喋りしてほしいのです」。

 今となっては、サード・プレイスという非常に便利な用語ひとつをもって要約できてしまう、単にスナック論、コミュニティ論として見ればもはやその見立ては陳腐とすら呼ばれるべきようなお話なのかもしれない。これがサンデル教授の手にかかると、「多様な職業や地位の市民が共通の空間や公共の場で出会うことは必要だ。なぜなら、それが互いについて折り合いをつけ、差異を受容することを学ぶ方法だからだ」という、盛り場で誰がこんなごたくに耳を傾けてくれるんだ、なゴリゴリの言い回しに変貌してしまうわけだが、おそらくは古代のシュムポジオンにすら遡って、手を変え品を変え語り尽くされてきたテーマを、良くも悪くも、今さらながらに踏襲しているに過ぎない。

 

 しかし、そんなスナックに――というよりも日本社会に――試金石が訪れる。

 コロナ禍である。

 例えばすすきのは、あのまん延防止等重点措置のメイン・ターゲットとして狙われた。もちろん、昔日のロンドンにてコレラを招いた井戸でもあるまいに、そんな恣意的なゾーニングをかけたところで、「すすきので呑めなくなれば、人びとは狸小路や北24条へと流れ」ていくことを促したにすぎない。筆者の目にはどうにも、「すべてが確とした根拠に乏しく、何もしないで手をこまねいているわけにはゆかないので、とにかくも『えいやぁ』と何か決めてしまい、それに従わせておけば良いのだ、というような気分が透けて見えてしまう」。

 青森では、PCR検査を訴えても保健所に散々黙殺され続けたスナックが、実は200人弱の大規模クラスターとなってしまったことが判明するや否や、掌を返すようにその店名を公開された。その報道を受けて、ネット上では店へのバッシングやデマゴーグが飛び交った。ここでもまた、筆者は思う、この自粛警察的な過剰反応は、偏に吊るし上げたネット民たちにのみ帰責するのだろうか、と。「このような『事後的』な検証の責を負うべきなのは、何も『公表』の主体たる行政だけではない。むしろ、クラスター狂騒のなか、卑しく視聴率を稼ごうと、これでもかと煽情的に……報道してきたマスコミこそが、率先してこの任を果たすべきなのではないのか」。

 

 何はともあれ、夜の街の「飲食店」が事実として標的とされた。「自粛」の名のもとに、助成金交付の条件すらも定かならぬまま、筆者の調べによる限り2020年からのわずか1年の間だけでも、全体の1割強となる8000軒余りが閉業を余儀なくされた、という。

 このサード・プレイスの喪失が何を呼ぶか、「みんなでお喋り」することをやめた――この場合はやめさせられた、が適当か――ときに何が起きるか。

 筆者の知己のことばを借りれば、「マジでトランプ5秒前」が起きる。

 計画経済よりも自由経済がたいがいにしてリソースを効率よく分配してしまう、この経験主義的原則はソーシャル・キャピタルという公共財のシェアリングにおいてもおそらく変わるところはない。決して安いとは言えない価格をそれでも支払うに値すると顧客たちが思えるような、居心地のよいコミュニティの形成に成功したスナックだけが生き残る。逆に失敗すれば消えていく。ある種の「営業の自由」に基づくこの淘汰と選別が、突然に政治の恣意や集団ヒステリーによって歪められる。その結果、孤独に陥る、陰謀論的妄想に憑かれる、言い知れぬ怒りと不安に蝕まれて、トランピスト的心性に近づく。

 もっとも私は、筆者が言うほどのユートピアが本当にスナックで展開されているとも信じてはいない。行きたいから行く、嫌ならば行かなければいい、という選好がしがらみの雁字搦めの中でどれほど作動するのかも明らかではない。広く世間で催される飲み会が、実のところはその場にいない人間の悪口をもって専ら消費されているように、そしてそれゆえ今やアルハラという恰好の口実をもって敬遠されるように、スナックにおける飲みニケーションだけがその幸福な例外たりえているとは到底思えない。筆者による全国各地の訪問記録がその反証になっているとすべきところなのだろうが、そんなものは書きたくないものを書かない自由を行使すればいいだけの話にすぎない。どれだけ美辞麗句で粉飾してみたところで所詮、絆なんて互いを締め付ける拘束具という以上の意味など持たない。隣組に限りなく似て、むしろスナックこそがアルコールを介さなければまともに他人と喋れないような同質性の高い、量産性の高いイナゴどもにとっての「マジでトランプ5秒前」の温床、ヘイト・スピーチ醸成の場として作用するのではなかろうか、との疑念は拭えない。

 

 一般に語り継がれるところでは、カフェのカウンターから近代市民革命は生まれた。翻って、ミュンヘンのビア・ホールの片隅からナチスは生まれた。

 何が両者を隔てたのかは分からない。あるいはそもそも、勝てば官軍、負ければ賊軍で、隔てるべき論拠など何もないのかもしれない。いずれにせよ、貧すれば鈍するのか、鈍すれば貧するのか、見たくない現実を先送りし続けるだけの衰退国の中にあっては、「営業の自由」を買い支えるような所得が生まれてきようがない以上、必然的にスナックの灯もまた消えていく。

 しかし確かなこととして、サード・プレイスを持たなければ、人間はやがて自壊する。ひとり酒でも、人類最悪のドラッグであるアルコールの作用をもって、遅かれ早かれ自壊する。だからこそ、源氏名という無知のヴェールが象徴する、SNSの地獄とは対照的な、素性さえも紐づけようのない淡い関係性の中で、何はともあれ「とにかく、みんなでお喋りしてほしいのです」。

 

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