さよーならまたいつか!

 

 古典的な少女小説は、現代もなお読みつがれ、広く普及し続けている。これらの物語には、若い読者の心に希望を吹き込み、生きていくための底力を築き上げ、その人生までも変えてしまうような何かがある。

 私の場合、もし子ども時代に、『赤毛のアン』や『リンバロストの乙女』、『若草物語』などに出会っていなければ、いまの自分はなかっただろうと思っている。少なくとも、文学の世界の片隅に生きる縁を得ることなどは、ありえなかっただろう。……

 では、これらの物語はなぜ生まれてきたのだろうか? 偶然の現象ではなく、何か発端があったのではないだろうか? そこで、その源流を求めて英語圏文学史を遡っていくと、19世紀半ばのイギリス人作家シャーロット・ブロンテの小説『ジェイン・エア』(1847年)にたどり着くことを、筆者は発見した。この小説は、女主人公は美人に設定すべしという従来の文学の約束事を打ち破った点でも、女主人公自身が語り手として激しい感情を吐露するという点でも、それまでになかった独創的な小説として、英文学史のなかで重要な位置づけをされている。

 しかし、『ジェイン・エア』は、イギリスでは、シンドロームを形成するほどすぐには根づかなかった。この作品はとりわけ、海を渡って新大陸に入植した英語圏の人々の子孫を中心に、アメリカやカナダの女性作家たちに、大きな影響を与えたのではないか。そして、少女を主人公とするそれらの物語には、女性作家たち自身の生き方が投影されているのではないだろうか。

 以上のような仮説に基づいて、このような形のストーリーが生みだすさような現象――すなわち、『ジェイン・エア』の影響を受けた女性作家たちが、シンデレラ・コンプレックスを脱却した新しい少女小説の世界を開拓していった現象、およびそうした作品の特色の表れ――を、「ジェイン・エア・シンドローム」と名づけることを、ここに提唱したい。

 

 本書の中で、読者はあまたの有名作品のあらすじに遭遇することになる。

ジェイン・エア』においては、主人公は義理の伯母にいじめ抜かれる。『若草物語』の四姉妹の母は、娘たちに妻としての幸福を諭し、そしてジョーからの反発を買う。『リンバロストの乙女』では、主人公の母は「夫を失った悲しみのはけ口を、ひたすら娘への恨みに集中させ」ずにはいられない。『赤毛のアン』は、孤児として「ひもじく、愛されない生活を送り、働かされ、ネグレクトを受けてきた」。

 たぶんそれは筆者の意図するところではなかろう、しかし、一読者である私の意識は、これらの文学群のことごとくの中に、やがて自ら身を立てていくヒロインたちとは別なる存在へとどうにも吸い寄せらずにはいられない。つまりは、毒親たちである、彼女たちの影、もうひとりの自分としての。

 そもそもにおいて、本書における対偶概念としての『シンデレラ』からしてそうだった。ヴァージョンに基づく多少の差異こそあれ、灰かぶりは継母たちからの仕打ちによって砂を噛むような日々を送る。彼女たちは、自力でこの境遇を抜け出す術を知らない。ガラスの靴を履かされる存在であることがあまりに暗喩的で、彼女たちシンデレラ・コンプレックスの住人は、ついぞ自らの足で大地を踏みしめることを知らない。彼女たちは終始、あくまで救われる存在として規定される。

 本書の中のジェイン・エアの娘たちが、メンターらに導かれつつも教育を通じて自身の内なる能力を開花させていくその姿から逆説的に気づく。彼女たちは自らを救う。反してシンデレラは王子によって救われる、王子がシンデレラを救う。

 なまじシンデレラという対象物の側にフォーカスされているがゆえに私はこれまで気づかなかった、『シンデレラ』の真の主人公とは紛れもなく王子なのである。親世代のかけた呪いをふりほどくべく葛藤し、そしてついに克服する息子オイディプスの物語の、完全なる焼き直しなのである。シンデレラが受動性の代名詞として今日にコンプレックスの汚名をかぶせられるのもある面では当然で、なぜならはじめから主客が転倒しているのだから。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ福音書 20:16)。あくまでそれは貴種流離譚のように神の定めし運命に導かれて世界の秩序を塗り替える新たなる王の誕生劇であり、ヒロインはどこまでもその成就の記号以上の意味を持つ必要がない。男の果たした政権交代の功績がいかに大きなものであったかというシンボルとして、機能性は宝石やトロフィーと完全に同じ、女は眉目秀麗な容姿の他に何を求められることもない。

 

 だとすれば、19世紀半ば、近代革命の果てに『ジェイン・エア』がその息を吹き込まれたのもまた、必然だった。世襲のプリンスがその高貴なる約束の血をもって世界を救済する、そんな幸福な=稚拙な妄想の時代は終わりを告げた。新大陸を目指す旅とはすなわち、君主政、寡頭制との決別であり、共和政、民主政との結婚だった。ゆえにこそ、シャーロット・ブロンテの末裔がその大輪の花を咲かせた地が、表向き君臨すれども統治せずを掲げこそすれ王室貴族の陋習はびこる英国ではなく、海の向こうのアメリカであったこともまた、ひとつのマニフェスト・ディステニーだった。

 旧世界において、統治のパラダイム・シフトはすべて天与の血――それも専ら父系のブラッドライン――に従って行われた。対して新世界において、その手続きはすべて理性に基づいて遂行される。だからこそ、本書の女性たちはことごとくが、教育という仕方を通じて授かった翼、すなわち知性の作用に則って、毒親たちによってかけられた呪縛を自ら振りほどいていく。オイディプスジェイン・エアを隔てる差異といえば、権威から理性へ、その近代の経験の有無に他ならない。

 すべて失敗は人間性に由来する。すべて成功は合理性に由来する。

 一連の小説群が、その源流として『ジェイン・エア』を持つのもまた必然だった。なぜならば、その書き手たち自身がテキストという教育媒体を通じて何者かになった存在なのだから、彼女たち自身が近代の体現者なのだから。筆者がフィクションの中に自叙伝性を見てしまうのは牽強付会などではない。ペンは剣よりも強し、この経験は私的であって私的でない、それこそが作品が生きた時代を捉えていたことの無二の証明なのである。

 

 救う男‐救われる女、そんな図式を誰が決めた? パターナリズムの伝統が決めた。気に食わなければ? 理性に基づいてぶっ壊してしまえばいい。そのための同志として、互いが互いを救うために、時に人は互いを求め合う。

 殺してしまえばいい、かつてオイディプスがそうしたように。すべて人命は入替可能、入替不要、王の首はただ刎ねられるためにある。

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