オデュッセイア

 

 私は17年前、「幻の特攻艇震洋の足跡」をテーマに、テレビドキュメンタリーを制作した。敬愛する作家の島尾敏雄が、太平洋戦争の時、震洋特攻隊の隊長だった体験をもとに名作を残していたからだ。以来、「震洋」の二文字が心の底に沈み、そのままになっていた。(中略)

 導かれるように、「震洋会」の元副会長で「写真集人間兵器震洋特攻隊」をまとめ上げた荒井志朗氏の連絡先が見つかった。(中略)

 お宅を訪ねてみると、あの時の荒井氏が背筋をしゃんと伸ばした姿で出迎えてくださった。感激だった。「『震洋』のことを書きたい」と話すと、「私が17歳で兵隊になったんですから、震洋隊の中では一番若いと思いますよ。その私が92歳なんですから、他の人たちは生きていても100歳以上ですよ、亡くなっていますよ」と、「92歳なんですから」を、何度も繰り返された。そうして、「もう『特攻隊』なんていう話はわかんない、誰も知りませんよ、まして『震洋』なんて、若い人は、『戦争』だって知らないんですから」。(中略)

「もう誰も知りませんよ」の言葉に私は奮起した。今、記録に残さなければ、本当に「誰も知らなく」なってしまう。それは、いやだ。

 そう思って、島尾敏雄の作品を幾度も読み返し、遺作となった『震洋発進』が、極めて記録性の高い第一級のルポルタージュであることに気づかされた。

 そこで、『震洋発進』に書かれた島尾敏雄の言葉を手がかりに、改めて「幻の特攻艇震洋の足跡」をたどってみようと思う。

 

 そのときの島尾の落胆ぶりたるや、いかばかりだっただろうか。

 それは「画期的な新兵器」だと聞かされていた。マルヨンと通称されるその「快速特攻艇」をもってすれば必ずや戦局の捲土重来が図られる、そんな海軍肝煎りの機密プロジェクトである、そう聞かされていた。特攻に「志願致シマス」との意を既に伝えていた島尾はその夢のウェポンに、自らの、いや国家の命運を委ねていた。そうして彼は横須賀にてついに己が未来の「震洋」とまみえる。

「私が見たのは、薄汚れたベニヤ板張りの小さなただのモーターボートでしかなかった。緑色のペンキも褪せ、甲板の薄い板は夏の日照りですでに反りかかった部分も出ていた。その貧弱な小舟艇の数隻がもやい綱につながれ、岸壁の石段のあたりで、湾内を航行する内火艇などの船尾の余波に押し寄せられ、不斉一に揺れ動いていた。私は何だかひどく落胆した。これが私の終の命を託する兵器なのか。思わず何かに裏切られた思いになったのがおかしかった。自分の命が甚だ安く見積もられたと思った。というよりも、果してこのように貧相な兵器で敵艦を攻撃し相応の効果を挙げ得るのだろうかという疑惑に覆われた……何だか精一杯力んでいた力が抜けていくふうであった。それもしかし今さら詮のない話だ。私の運命がしっかり固縛されたも同然であった」。

「貧相」だったのは、当の「震洋」だけではなかった。各地へと運び込まれたこの最終兵器が、どのようにして姿を敵軍から隠蔽されたといって、まさか重厚なドックなど構えていようはずもない、人力で掘られた急ごしらえの「横穴」に格納されたのである。いざ出撃の命令が下ったとある部隊の場合、6隻で向かうプランが組まれていたものの1隻は故障で海に出ることすらできず、さらに敵の輸送船団にたどり着く前に急襲を受けたわけでもないのに2隻も相次いで落伍、何もかもが「貧相」だった。このわびしさを前に、誰が散華できただろう。

「貧相」であればあるほどに、前線の隊員たちが抱く死の恐怖は、ひしひしとそのリアリティを強めていたに違いない。

 

 DVと乱倫の果てに、かつて大恋愛をもって結ばれた妻がついに精神を壊す。言うまでもない、島尾敏雄『死の棘』の一節である。この日本文学不滅の金字塔が、しかし、今日においてはもはや単に作家個人のモラルの頽廃をもって片づけることができないことを私たちは知っている。

 戦闘ストレス反応、戦争後遺症、戦争神経症……その呼び名はさまざまあれど、ミホという鏡を通じて綴られる筆者の内面の独白が、戦争に由来するPTSD症例の典型を呈していたことを読み解くための言語を世間はようやくながらに習得しつつある。確かに、島尾はついぞ特攻のその日を持つことはなかった。しかし彼にとって「即時待機の精神状態を持続することは苦痛であった。今がチャンスだ。今がちょうどいい。今なら平気で出ていかれる――」。待たされる時間とはすなわち、内攻の時間だった。本来ならば攻めているべきは己ではなく敵軍のはずだった。いっそ潔く「震洋」とともに散れた方が、いつ終わるとも知れぬこの「死を含んだ夜」に浸り続けるよりも、どれほどの解放感があったことだろう。島尾にとっては、「発進がはぐらかされたあとの日常の重さこそ、受けきれない」ものだった。

「生き残ったのが誤りのもと」という他の経験者による悔恨のこのフレーズは、とりわけ島尾の生涯を回顧するとき、単に命を落とした同志たちへの鎮魂という以上の響きをそこにまとわずにはいない。生き残りさえしなければ、あるいは妻が狂うひとにならずとも済んだかもしれない、「シミタクナイ」とかつて線路際でつぶやいた娘がそののち失語症を患うこともなかっただろう、そして何よりも自身が永遠の「死を含んだ夜」を生きることもなかった。

 

 あの苛烈な家庭の地獄を描き出した島尾をもってすら、「自らの体験と直に向き合ったのは、戦後20年近くを経てからのことであり、対談を行うまでには30年以上の時間がおかれている」。

 同様の「死を含んだ夜」を生きただろう元隊員たちにとっても、「何らかの形で、自ら直に戦争と向き合い、『沈黙の答』を出したのは、戦後40年近くたってからのこと」だった。島尾もまた、40年を経て他の部隊長との面談を通じてようやく「一種の落ち着きを得た」という。

 どうしようもない世界の、どうしようもないニュースの中で、私たちは日々同様の話に触れる。例えば性搾取の被害者たちが、3040年と時間を重ねて自身が被害者であったことにはじめて気づく。そして彼らはしばしば、類似のPTSDを抱えた者が集うアノニマスな空間における告白の中で、「一種の落ち着きを得」る。例えば薬物依存症やギャンブル中毒者も、同じような空間の中で「一種の落ち着き」を獲得する、という。

 ここにはふたつの解釈がある。当事者同士にしか通じようもない言語が確かにある、だからこそ、そこでしか「一種の落ち着き」を見出すことができない。あるいは、同じ傷を持つ者以外に一切の信用を置けないから、他では「一種の落ち着き」に至ることができない。

 

 島尾におけるこの通約不可能性の象徴が「横穴」だった。彼は戦後に加計呂麻の「横穴」を10度近くも訪れたという。「海辺に面した横穴の姿を見つめると、たとえ瞬時に過ぎぬとは言え私は若さを取り戻せた自分を感ずることができた。それは時の流れがふととどめられる如きあやしげな体験である。逆行するめくらめきさえ伴われるが、勿論すぐに私は又普段の時の流れに立ち戻り、さらに疲労が重なるのをおぼえなければならない」。

 彼は終生、「普段の時の流れ」ならざる時間のはざまに縛られ続けた。「横穴」に束の間味わう「逆行」の時間に留まり続けた。「普段の時の流れ」に従えば、その「横穴」はもはや「戦跡としての評価も無い無用の長物」でしかない。島尾がそこに見るだろう、「震洋」の影はそこにはない。

 時間を共にせぬ者が、場所を共にせぬ者が、どうしてことばを共にすることできるだろう。「震洋」ののち、島尾はひたすら孤独を生きた、「死を含んだ夜」を生きた。戦争とはすなわち、孤独の別言に他ならない。

 

 ぼくの気持の中では、後生大事にそれしかないというんじゃなくて、戦争はその後もずっと起こっているわけなんです。自分にも周囲にも。ただ表面の形が、戦争状態でなければ戦争状態でないような状況を現していますけれど、もう本質のところは、似たようなことなんじゃないですか。(中略)だから引きずってきているんじゃなくて、そういう状態はいつも周囲にあるし、自分も持っているということですね。

 

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