ビューティフル・マインド

 

 統合失調症の生物学的なカギを手に入れようとしている研究者たちは、生まれか育ちかという疑問をきっぱりと解決してくれるような被験者や実験を休むことなく探し求めてきた。……遺伝的遺産を共有している、必要なものを完全に備えた一団がいたらどうだろう? この疾患が十分な数だけ発生しているので、何か特定の識別可能なことがその一部の中で、あるいは、ことによると全員の中でさえ起こっているのが明白に見えるサンプル集団がいたら?

 ドンとミミのギャルヴィン夫妻と12人の子どもたちのような家族がいたとしたら?

 

「男の子というのはみな、そういうものだ」。

 夫は妻にことあるごとにそう言い聞かせた。兄弟喧嘩で肘を脱臼したり顔に痣を作ったとしても、そんなものはやがて笑い話に変わるような、子ども同士のよくある小競り合いでしかない。上から10人連続して息子を授かったというその大所帯で、年長者が多少の暴君じみた振る舞いを見せたところで、あくまでそれは「兄弟間で解決させるのが一番だと考え」た。次男が問題行動で退学処分を受けてすら、夫婦はその暗黙のSOSに目を伏せて、「頭を切り替えて、そもそもそんなことなど、どうでもよかったかのように先へ進んで行った」。そうして子どもたちが、ひとりまたひとりと闇に堕ちた。

 

 大学進学とともに家を離れた長男は、学生寮に帰ることをやめていつしか「キャンパスの近くに、打ち捨てられた果物の貯蔵所で」暮らすようになった。水道も通らないその場所で数ヶ月を過ごし、そうしてようやく自ら保健センターに駆け込む。聞き取りを進めてみると、彼の「突飛な自己破壊行動」はそれだけではなかった。「焚き火を走り抜けた、コードを首に巻いた、ガス栓を開いた、棺の値段を調べに葬儀場に行きさえした、と言うが、そのどれ一つをとっても、適切な動機を挙げられなかった」。

 次男は20歳にして子どもを授かり所帯を持つ。程なくDV夫になるべくしてなった彼は、しかし妻の憐れみを誘わずにはいなかった。彼は「彼女とは無関係のことで苦しんでい」た、例えば幻聴に妄想。「夜はコンロの前で過ごし、火をつけては細め、消し、また転嫁する。こういう状態のときには、衝動的に乱暴に振る舞った。……自分自身に対して」。

 四男はミュージシャンとしてそこそこの成功を収めたかに見えた。ヒッピー・カルチャーの時代にあって常習的にLSDを嗜む彼には「暗い影があった。それでも、兄弟たちは気にしている様子はなかった。その影は、見て取れなかったのかもしれないし、目にしたくなかったのかもしれないし、ロマンティックに思えたからかもしれない」。そして悲報は突然に舞い込む。彼は恋人を射殺し、追って自らも命を絶った。この「一家のアイドル」に抗精神薬が処方されていたことを兄弟が知らされるのは、もっとずっと後の話。

 

 生まれなのか、育ちなのか、呪いにかけられたかのようなこのファミリー・ヒストリーのすべての景色を書き換えるような瞬間が、やがてこのテキストに訪れる。

「つまり、赤ん坊が生まれたときには、もうやり直しが利かないということだ」。

 遡って最初のページから本書には通奏低音として宿命の秒針が鳴り響き続けていたことを知る。

 例えば各種のガンの発現は遺伝子に基づいて一定の説明が与えられる。染色体に起因するダウンやウィリアムズは言うに及ばず、生活習慣病と呼称される疾病ですらも少なからず同様に司られているという。そもそもが人体に限らずおよそ生命の設計図であるDNAが、統合失調症をその例外とせずに発現させていたとして何の不思議があるだろう。しかし、そうと分かった上でなおざわめきに襲われずにはいられない、ここには固有の震えをいざなうような何がある、つまりは自由意志というフィクションを根底から覆すような何かが。

 統合失調症に捉えられていくことが宿命なのだとしたら、彼らはその時限爆弾が炸裂するのを待つより他になかった、のかもしれない。問題はいつそのスイッチがオンへと振れるかでしかなかった、のかもしれない。適切な医療監護を受けられてさえいれば、あるいは妹に対して性加害に及ぶことくらいは防げていたかもしれない、人を殺めることもなかったかもしれない。然るべき環境に置かれていれば、闇雲な投薬のモルモットとして気力を奪われた虚ろな物体とならずとも済んだかもしれない。しかし、埋め込まれた素因に導かれるまま、自らで自らを責め苛むその地獄の日々を迎えるシナリオは、おそらく回避することはかなわなかった、生まれ落ちた、それどころか受胎したその時点から。しかもそれは、例えば彼らのひとりがカトリック神父から被った同性間レイプのトラウマとすらほぼ無関係に。

 統合失調症をめぐる有力な仮説が紹介される。曰く、彼らベルセルクが抱える「問題は、大量の刺激に応答する能力が欠けていることではなく、応答しない能力が欠けていることではないか?」。この遺伝によって規定される「感覚ゲーティング」説が真であるならば、「思春期の段階での脳の成熟は、物語の最終章でしかなくなる。脳は子宮内の期間と誕生と子供時代を通じて困難を抱えているが、発達の最終段階に入って脳が成熟するまで、誰もそれに気づかないだけなのだ」。

 もっともメカニズムは、言うほどに決定論的な支配力を示していない。6人の病態がさまざまであるように、DNAシークエンスを通じて特定されたSHANK遺伝子ですら、あくまでそこから派生する「問題は、人によって異なる形で現れる」し――だからもとより統合失調症という「診断分類のゴミ箱」に「すべてに当てはまるような定義などない」――、そもそも「ギャルヴィン家の息子でこの疾患を発症しなかった人がいることは説明がつかない」。

 

 母はそれでもなお、息子たちを愛した。彼らの状態はその手に負える範疇など誰の目にも超えていた、それでもなお、「自分がやり続けるしかない、そうすれば何とかなるものだ」、そう彼女は信じた。脳卒中で倒れるまで、度々の入退院こそあったものの、彼女は自宅で長男の面倒を見ていた。自身の身体が思うに任せぬ状態になってなお、さまざまな施設に散らばる息子たちとの面会は欠かさなかった。

 有限な献身のリソースにあって、結果として彼女の「人生はすべて……病気の息子たちが中心で、それ以外は排除」されている、そう娘は感じずにいられなかった。疎外された彼女には「母と持ちたかったような関係を築く機会も」与えれなかった。兄が性的虐待の加害者であることなど、気づこうとすらしなかった。

「自分はなんて良い母親なんでしょう、って思っていましたから」、いや、おそらく彼女は生涯、この不条理な自負を手放すことがなかった、息子たちにどれほど傷つけられようとも、あるいはその我流の愛し方や秘密主義がかえって事態を複雑化させていようとも。

 計12人もの子どもをもうけた彼女はそのとき知るよしもなかった、まさか彼らを蝕んだ病が自身から引き継いだ遺伝子に由来していようなどとは。

 

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