自分の名前が自分のものではないと、自分で自分を名付けたいと、みなも思っているのだろうか。
たまたま同じ時期に読んでいたテキストに、『Blue』とひどく重なるくだりを見つける。
ロバート・コルカー『統合失調症の一族』。
彼女が改名するそのきっかけは、ほんの偶然だった。「この学校にはもう、メアリー・ギャルヴィンという子がいます……あなたのミドルネームは?」。そう問われた彼女は、クリスティーンというその所与の名を口にすることを躊躇する。WASPの富裕層のご令嬢が住まうその全寮制の名門に、いかにもカトリックというそのミドルネームは場違いなような気がした。
そこで彼女ははたと母方の曽祖父のミドルネームからリンジーという名前を思いつく。一般的にはLindseyとあらわされるところ、彼女はその申告に際してそうとは知らず音を頼りにLindsayと綴ってしまう。しかし、「その間違いのおかげで、それが自分だけの名前になった。メアリーは、何かせずにはいられなかった。人生の最初の13年間に自分に起こったことのいっさいを消し去るような、何かしらの意思表示をせずにはいられなかったのだ」。
表題の通り、兄たちがひとりまたひとりと病に堕ちていく。その家族の中で、日々典型的な症例の目撃者たることを余儀なくされる、とりわけ末娘の彼女は幼くして性的虐待にさらされた。
その陰惨な過去の記憶がまさか雲散霧消するはずもない、けれども家族という地獄をめぐりひたすらの絶句を誘われるテキストにあって、「自分で自分を名付け」るというこの行為の瞬間に一読者はどうしようもなくカタルシスを覚えずにはいられない。
あるいは児玉雨子『##NAME##』。
この小説の主人公もまた、自らにあてがわれた名前に翻弄される。たかが名前、しかし現代のネット検索社会にあって、そこにはジュニアアイドルとして児童ポルノの搾取の対象となっていた過去が紐づけされずにはいない。
「君が名付けた私の名前は、私のために鳴る最も短い歌」。この小説の「私」は、限りなくイマジナリー・フレンドに等しい過去の「君」の記憶を糸口に、「私の名前」をもって新たな一歩を踏み出す。
与えられるものとしての名前から、自らに与えるものとしての名前へ。
上記の二作品において名前に仮託されたメタファーは明らかである。つまりは客体性、被投性の象徴としての名前が、「自分で自分を名付け」ることで換骨奪胎される。
しかしこと『Blue』において、改名に望まれただろうこの機能は不全のままに終わる。
正雄が真砂に、そして眞靑(マサヲ)に、この小説の中心的な人物は、ついぞ自分の名前を発見できないまま、ただひたすらにさまよい続ける。このあてどなき遍歴は、性的アイデンティティの不和に惑う彼/彼女が他者から規定される存在として振り回される、その苦悩のみを専ら象徴する。所詮、社会の共通了解が既に崩壊済みの自己参照型近代を生きているはずの彼/彼女が、にもかかわらず「自分で自分を名付けたい」という願望を果たすことすらままならない。本書はセックスとジェンダーの向こう側に、自己決定権をめぐる矛盾を透かす。
この群像劇は、高校の部活動にてアンデルセンの『人魚姫』を再解釈することから幕を開ける。
上半身は人間、下半身は魚、このモチーフをめぐって本書では二通りの読解が示される。
ひとつはシンプルに「人魚姫の変身を思春期の性的成熟のメタファーと捉える」もの。
そしてもうひとつは、原作者が「同性愛者もしくは両性愛者だった」というファクトに立脚するもの。「誰よりもそばにいながら、同性であるがゆえに性的な対象として見られることがなく、相手が異性と結婚するのを見守らなくてはならない」という去勢のシンボル、アンドロギュノスの反転として、この場合のキメラは立ち現れる。
アンデルセンの物語において、人魚が人間になる道はひとつだけ、つまり人魚が王子様に愛されること。やがて海の泡沫と消え去る定めの人魚は、女性性を獲得することによってしか永遠の魂を得ることができない。
神からの恩寵としての無限の愛(アガペー)に報いるとは、男女の性愛関係(エロス)を受け入れることに他ならない。そんなキリスト教の強迫観念なんてとうに崩壊しているはずなのに、今日においてなお、水面下の世界を抜け出して地上に立つとは、エロスを引き受けるという以上の事態をどうやら意味しない。そのくせ彼らは無原罪の懐胎を崇め奉る。
「自分が女性であるのか男性であるのかが、誰と〈異性〉になり、誰と〈同性〉になるのか――誰とは友達になれて、誰とは恋人になるの可能性があるのかを意味するなんておかしい」。
彼/彼女の舞台では人魚が姫と恋に落ちる。誰かが誰かを好きになる、その自由の行使にすぎないはずなのに、「おかしい」地上の観客席においては、何かしらの波紋を伴わずにはいない。
現に彼/彼女はその「おかしい」世界を生きる、だから「自分で自分を名付け」ることすらできない。奇しくも登場人物のひとりがオンライン上にアップした小説が「百合」という腐り切ったタグを通すことでしか読者たちの目に届くことのなかったように、そしてその瞬間に他なる読み方の道が閉ざされてしまったように、LGBTというフォルダーは、さらにその後ろにQやらIやらTやらPやらを連ねようとも、たぶん当事者を救ってはいない、なぜならば規定される存在としての呪縛をむしろ強化すらしてしまうのだから、「自分で自分を名付け」ることができないことの社会的確認にすぎないのだから。
「〈みんな〉がそう思ってる」、その牢獄は果たしてパノプティコンにすぎないのか。
この牢獄から束の間、眞靑は解放される。
パンデミック下のリモート講義の中、彼/彼女は「不安と孤独を吸い取ってくれた」ひとりの女性に思いを寄せる。zoomのカメラはオフのまま、SNSでチャットを交わす、身体性を媒介としないからこそ成立するユートピアがそこにはあった。
対面授業がはじまったことでようやく互いにまみえるところとなった相手は、彼/彼女に当惑を隠せない。
「なんか、話しやすいから勝手に女の子だと思ってた」。
PC、スマホの向こう側でならば同性的あるいは無性的でいられた存在が、「おかしい」この世界の中では、性の軛への従属を余儀なくされる。
「わたしには ことばがない」、そう、身体性の「おかしい」三次元世界に向けて放つべき「ことば」はない。
しかし、顔なき二次元の文字列平面の中には「ことば」がある。
いかなる「ことば」を並べようとも、ゆりかごから墓場までをスクリプト通りにコンプリートしていく彼らは何も変わらない。彼らは男性が男性であることを、異性愛が異性愛であることを、疑うことを知らぬまま、その生涯を終えていく。
マジョリティがマジョリティたり得るその淵源は常にただ一点、彼らが量産型であること、量産型でしかないことに集約される。マジョリティであるという表明に、己が常識の非自明性を疑う術を知らぬ無能の告白という以上の意味はない。
産めよ殖やせよ、すべて彼らは動員されるためだけに生まれ落ちる。卑しい、醜い、浅ましい、すべて彼らの人生はタッチパネルで置換可能、タッチパネルで置換不要。
「初めに言があった」(ヨハネによる福音書1:1)。なるほど確かに、変わらない、変わり得ない彼らを規定するフォーマットをもって「言」と定義するならば、紛れもなくそこには「言」がある、いや「言」しかない。そうして「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)。
爾来、言い換えれば、この世界を悔い改めさせるための「ことば」などない。
「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(ルカ 5:37-38)。
「新しいぶどう酒」は新しさを認められてなお、何かしらの「新しい革袋」に詰められなければならない、のか。
性同一性障害と「名付け」たその瞬間に、シスターフッドと「名付け」たその瞬間に、本書から何かが消え失せていく。
この小説の群像は、何者かとして一度規定された存在が、むしろ何者とも規定されぬ存在であることをを希求して、規定するその眼差しを逃れることを希求して、「わたし」が「わたし」であることを希求して、のたうち回る。
『Blue』という表題の由来のひとつが明かされる。
映画『ムーンライト』の中でのセリフ、「月明かりの下で、黒人の子は青く見える。おまえはブルーだ。あたしはあんたをそう呼ぶよ。ブルーと」。
「他人にどう見えるかになんて惑わされるな、自分が何者であるかは自分で決めろ」。
ところが、このフレーズは耐えがたき矛盾を内包する、いずれにせよ「見える」という問題は、black boy(s)として規定されてしまうこの受動性は、何ひとつ解消されていないのだから。
周知の通り、この作品では編集にあたって黒色の上に淡く青がかぶせられている。そして例のイメージ・ショットは、数限りなき模倣が重ねられて、もはやネタ元がネタ元として認知されぬほどに現代にテンプレ化して消費されている。
いかにライティングに技巧を凝らそうとも、カメラにはない色が、リアルにはない色が付け加えられることでしか、「青く見える」そのエフェクトは生まれなかった。「おかしい」世界のその上に全き虚構としての「ブルー」がフィルターされることではじめて「青く見え」た。天より降り注ぐ月光は肌を決して「ブルー」に輝かせたりはしない。
誰もまだ見たことのないブルー、それはつまり誰しもが見ることをやめたときにもしかしたらそこに生まれるブルー。生まれる光を拒絶する、現れることを拒絶する、その瞬間、もしかしたらその限りなく透明な世界ははじめてブルーになる。